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第6話 筑の調べ
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その若者は旨い酒を持って突然現れた。俺はその日も飲んだくれていた。やることもないし俺を訪ねるものなどほとんどいない。なにせ厄介者だからな、ガハハ。
それにしてもなかなか引き締まった体をした奴だ。かなり腕が立つだろう。俺が軍を持ってれば勧誘してたとこだな。
「樊於期将軍。本日はお願いがあって参りました」
「ああ。何でも言え。俺は何も持っていないがな」
「樊於期将軍の首を頂きにまいりました」
「あぁ?」
こいつは一体何をいってるんだ?
「ていうかお前誰だ」
「私は荊軻と申します。太子丹の元で世話になっております」
「ああ、丹。なんだ、とうとう俺を殺す腹になったか」
太子丹には恩義を感じている。秦から逃げた俺を匿ってくれたしな。
ただどうしようもねぇ。太子丹には兵を動かす力がねぇ。それに君主の器じゃない。それはすぐわかった。太子丹には期待できない。それにもう秦が中華を統一する未来が見えてら。ここで腐ってそのうち秦王に捕まって処刑される未来も見える。
だがよ、俺は将軍だ。そう簡単にハイどうぞ、っていうわけにもいかねぇんだよ。面子があるからな。それに秦に殺された家族や部下の手前もある。石に齧りついてでも一矢報いねば男が廃るってもんよ。薊城に秦が攻め入ってきたら一人でも多くの将を道連れにすると心に決めている。兵はなるべく殺したくはないな。元々の俺の部下も混ざってるかもしれないからな。
そんなわけで簡単に首はやれねえ。
「太子丹にはそのようなおつもりは欠片もありません」
「なんだ? じゃあてめぇは俺に恨みでもあんのか」
荊軻と名乗る男は侍従に命じて1枚の紙を広げた。
紙の中からは細身の短剣が転がり落ちた。
なんだ地図か? 督亢だな。
「この地図とあなたの首を持って秦王政に面会し、この匕首で秦を刺します」
「な、んだと」
督亢は燕で最も肥沃な土地だ。地図を献上するということはこの地を秦に割譲するということだ。俺の首は値千金の賞金がかけられているときく。両方とも秦王政にとって得難いものであろう。この二つがあれば、秦王政の首に手が届く。そう言ってんのか。
荊軻とやらの目は俺を射抜いた。その目からは既にわずかに死の匂いが漂っていた。
「本気か」
「本気です」
それだけで全てを納得した。俺も長年戦場を駆け巡ってきた。本気の奴はすぐわかる。こいつは日和ったりしねぇ。俺の首さえあれば秦王政の首を搔きに行って死ぬだろう。だが、それだけでは。秦王政の近くに迫るには燕での地位が必要だ。つまり引き続き太子丹の機嫌を取り続ける必要がある。
太子丹は難しい奴だ。俺の首なんぞ持っていけばこいつに怒りの矛先が向き兼ねねぇ。
「太子丹が許すかよ。俺は太子丹に気に入られてる」
「許さないでしょうね。でも樊将軍が首になってしまえば最早どうしようもない。もともと秦王政の暗殺は太子丹が希望したものです。太子丹は樊将軍の死を悼み私に憤るでしょうが、私をただ殺すより私を使って秦王政を暗殺する方を選ぶでしょう」
そうか、どういう事情があるかは知らねぇが、よほど大事なものがあるんだろう。こいつも不憫な奴だな。太子丹もタダ飯食ってるだけの俺よりこういう動いてくれる奴を大事にしてやりゃ人望もわくんだろうがよ。あいつは頼ってきた奴しか気を許せねぇみえてぇだしな。
「わかった。首を持っていけ。その前に恨み言を聞け」
「わかりました。秦王政に届けることは叶いませんが、なんなりと」
「そんなことしてたら殺せねぇだろ。これは俺のただの恨み言だ。お前が聞いてりゃいい」
すぅと息を吸い居住まいを正す。こんなことは久しぶりだな。
「俺はな、中華を統一するって聞いてそうなりゃいいと思ったんだよ。もとは小役人だったからな。戦なんてこりごりだ。だから仕官したんだ。軍は妙に馬があった。出世して将軍になった。そのうち部隊を縮小して兵を減らす話が出てな。俺も軍を預かる身だからな。兵站維持とか考えると仕方ねぇ。ただもう少し緩やかにやらなねぇと貧農から来てる奴とか生活困窮するんだよ。小さい子供がいる奴もいるしな。だが却下された。それも仕方ねぇ。国と人じゃ考え方が異なるからな。駄目なら駄目で仕方がないから元部下に見舞いに行ったんだよ。謀反なんてするつもりはこれっぽっちもなかったのによ。そしたらだ。法家の野郎どもに人心を騒がすとか謀反とかいわれて不在の間に一族郎党捉えられて皆殺しだ。それから兵を差し向けられて肝心の部下もその子供も殺されて身一つで燕まで逃げてきた。許した秦王政も気にくわんがな、今も中華の統一は果たしてほしいとも思ってるんだ。戦がなくなりゃ死ぬ奴も減るしな。でもこのままじゃ良くねぇんだよ。俺の家族も部下の家族もなんで死んだんだ。戦に巻き込まれてるのと何が違うんだ。俺が将軍とかそういうのは関係ねぇ。あいつらを殺したやつらを許せねぇ。わかるか?」
何べん思い出しても怒りが込み上げてくる。いや、込み上げてくるなんてもんじゃねえ。怒りは常に俺の中にあった。怒りに狂って酒に逃げるしかなかった。自分の臓腑の形が全部わかる。骨の位置まで丸わかりだ。ギリギリと骨から毒が染みるように体中が痛む。俺の体中の血管が全部沸騰しているようだ。噛み締めた奥歯が砕ける音がする。
ようやく俺の復讐が現れた。こいつだ。こいつは俺の恨みを晴らしてくれる。太子丹は難しい奴だ。だがこいつなら最悪でも秦王政の心胆寒からしめるだろう。その確信はある。
目の前の荊軻はじっと俺の目を見つめている。
「俺の怒りは言葉にできねぇ。お前が成し遂げることはわかってる。時期が悪けりゃ秦王政の心胆を寒からしめるだけで十分だ。恨み言は以上だ」
荊軻が頷くのを待たずに俺は自分の首を刎ねた。
◇
荊軻との別れは驚くほどあっさりと、そして突然訪れた。
たまたま宴席に呼ばれた帰りに荊軻の部屋に立ち寄ったとき、明日立つと聞かされた。
「もう帰ってこないのか」
「そうだな」
荊軻は明日燕の正使として秦に立つという。
督亢の地図と樊於期の首を持って和議に赴くという。表向きはそうなっている。俺もそう聞いている。でも気づく者は気づいている。だが荊軻は何も言わない。それが義士というものなのだろう。
荊軻は結局太子丹に召し上げられてから一度も町には下りなかった。狗屋も心配していたが、そのうた他の町へ立ったと思ったようだ。みなが別れも言わないまま去るのは不義だと言っていたけど、いつしか荊軻の存在は喧騒とともに忘れられた。
趙が滅んだ後、秦は何度となく燕を攻め、燕は抗しきれず領土を減らしていった。このような状況で和議の申し入れに赴くのは自然なことだった。正使がどこの馬の骨ともしれぬ荊軻であることを除いて。しかし荊軻は持ち前の爽やかな弁舌と一年ほどの宮仕えでそれなりの信頼を得ていたようだ。燕は風前の灯火で、燕の先行きを思い櫛の歯が欠けるように優秀な官吏も減っていた。その中で荊軻の起用はようやく不自然ではなくなったということなのだろう。
「俺も楽士としてついていくことはできないか」
「駄目だ」
「なぜだ、荊さんについていくのはあの秦舞陽というヤクザ者だけなのだろう?」
「あいつはいない方が良いくらいだな」
「荊さんを一人でいかせたくないんだ」
荊軻は少し考えてから微笑んだ。
「では撥を一本賜りたい」
「撥」
「そうだ、高さんは大事な友人だ。残って俺を覚えていてくれ。それに俺は一人じゃない。田光先生と樊将軍という二人の壮士と、高さんの撥とともに行く」
荊軻の目は驚くほど穏やかで、俺はもう何も言えなかった。
既に荊軻は死地を定めている。最後の夜はただただ二人で楽しく飲んで、夜が更けるまで筑を打って歌った。
空には三日月が登っていた。
「本当はまだ時期ではないんだ。だが太子丹は会うたびにまだかと言う。俺が行かないなら秦舞陽を一人で行かせるという。秦舞陽が成功するはずがない。失敗すれば二度目はない。だがもう太子丹を抑えられない。俺が義を果たすには太子丹が用意する正使という地位が必要だからな」
月を眺めたまま荊軻は虚空に独り言ちる。
「一番よい時期に向かえなくて田光先生に申し訳ない」
それにしてもなかなか引き締まった体をした奴だ。かなり腕が立つだろう。俺が軍を持ってれば勧誘してたとこだな。
「樊於期将軍。本日はお願いがあって参りました」
「ああ。何でも言え。俺は何も持っていないがな」
「樊於期将軍の首を頂きにまいりました」
「あぁ?」
こいつは一体何をいってるんだ?
「ていうかお前誰だ」
「私は荊軻と申します。太子丹の元で世話になっております」
「ああ、丹。なんだ、とうとう俺を殺す腹になったか」
太子丹には恩義を感じている。秦から逃げた俺を匿ってくれたしな。
ただどうしようもねぇ。太子丹には兵を動かす力がねぇ。それに君主の器じゃない。それはすぐわかった。太子丹には期待できない。それにもう秦が中華を統一する未来が見えてら。ここで腐ってそのうち秦王に捕まって処刑される未来も見える。
だがよ、俺は将軍だ。そう簡単にハイどうぞ、っていうわけにもいかねぇんだよ。面子があるからな。それに秦に殺された家族や部下の手前もある。石に齧りついてでも一矢報いねば男が廃るってもんよ。薊城に秦が攻め入ってきたら一人でも多くの将を道連れにすると心に決めている。兵はなるべく殺したくはないな。元々の俺の部下も混ざってるかもしれないからな。
そんなわけで簡単に首はやれねえ。
「太子丹にはそのようなおつもりは欠片もありません」
「なんだ? じゃあてめぇは俺に恨みでもあんのか」
荊軻と名乗る男は侍従に命じて1枚の紙を広げた。
紙の中からは細身の短剣が転がり落ちた。
なんだ地図か? 督亢だな。
「この地図とあなたの首を持って秦王政に面会し、この匕首で秦を刺します」
「な、んだと」
督亢は燕で最も肥沃な土地だ。地図を献上するということはこの地を秦に割譲するということだ。俺の首は値千金の賞金がかけられているときく。両方とも秦王政にとって得難いものであろう。この二つがあれば、秦王政の首に手が届く。そう言ってんのか。
荊軻とやらの目は俺を射抜いた。その目からは既にわずかに死の匂いが漂っていた。
「本気か」
「本気です」
それだけで全てを納得した。俺も長年戦場を駆け巡ってきた。本気の奴はすぐわかる。こいつは日和ったりしねぇ。俺の首さえあれば秦王政の首を搔きに行って死ぬだろう。だが、それだけでは。秦王政の近くに迫るには燕での地位が必要だ。つまり引き続き太子丹の機嫌を取り続ける必要がある。
太子丹は難しい奴だ。俺の首なんぞ持っていけばこいつに怒りの矛先が向き兼ねねぇ。
「太子丹が許すかよ。俺は太子丹に気に入られてる」
「許さないでしょうね。でも樊将軍が首になってしまえば最早どうしようもない。もともと秦王政の暗殺は太子丹が希望したものです。太子丹は樊将軍の死を悼み私に憤るでしょうが、私をただ殺すより私を使って秦王政を暗殺する方を選ぶでしょう」
そうか、どういう事情があるかは知らねぇが、よほど大事なものがあるんだろう。こいつも不憫な奴だな。太子丹もタダ飯食ってるだけの俺よりこういう動いてくれる奴を大事にしてやりゃ人望もわくんだろうがよ。あいつは頼ってきた奴しか気を許せねぇみえてぇだしな。
「わかった。首を持っていけ。その前に恨み言を聞け」
「わかりました。秦王政に届けることは叶いませんが、なんなりと」
「そんなことしてたら殺せねぇだろ。これは俺のただの恨み言だ。お前が聞いてりゃいい」
すぅと息を吸い居住まいを正す。こんなことは久しぶりだな。
「俺はな、中華を統一するって聞いてそうなりゃいいと思ったんだよ。もとは小役人だったからな。戦なんてこりごりだ。だから仕官したんだ。軍は妙に馬があった。出世して将軍になった。そのうち部隊を縮小して兵を減らす話が出てな。俺も軍を預かる身だからな。兵站維持とか考えると仕方ねぇ。ただもう少し緩やかにやらなねぇと貧農から来てる奴とか生活困窮するんだよ。小さい子供がいる奴もいるしな。だが却下された。それも仕方ねぇ。国と人じゃ考え方が異なるからな。駄目なら駄目で仕方がないから元部下に見舞いに行ったんだよ。謀反なんてするつもりはこれっぽっちもなかったのによ。そしたらだ。法家の野郎どもに人心を騒がすとか謀反とかいわれて不在の間に一族郎党捉えられて皆殺しだ。それから兵を差し向けられて肝心の部下もその子供も殺されて身一つで燕まで逃げてきた。許した秦王政も気にくわんがな、今も中華の統一は果たしてほしいとも思ってるんだ。戦がなくなりゃ死ぬ奴も減るしな。でもこのままじゃ良くねぇんだよ。俺の家族も部下の家族もなんで死んだんだ。戦に巻き込まれてるのと何が違うんだ。俺が将軍とかそういうのは関係ねぇ。あいつらを殺したやつらを許せねぇ。わかるか?」
何べん思い出しても怒りが込み上げてくる。いや、込み上げてくるなんてもんじゃねえ。怒りは常に俺の中にあった。怒りに狂って酒に逃げるしかなかった。自分の臓腑の形が全部わかる。骨の位置まで丸わかりだ。ギリギリと骨から毒が染みるように体中が痛む。俺の体中の血管が全部沸騰しているようだ。噛み締めた奥歯が砕ける音がする。
ようやく俺の復讐が現れた。こいつだ。こいつは俺の恨みを晴らしてくれる。太子丹は難しい奴だ。だがこいつなら最悪でも秦王政の心胆寒からしめるだろう。その確信はある。
目の前の荊軻はじっと俺の目を見つめている。
「俺の怒りは言葉にできねぇ。お前が成し遂げることはわかってる。時期が悪けりゃ秦王政の心胆を寒からしめるだけで十分だ。恨み言は以上だ」
荊軻が頷くのを待たずに俺は自分の首を刎ねた。
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荊軻との別れは驚くほどあっさりと、そして突然訪れた。
たまたま宴席に呼ばれた帰りに荊軻の部屋に立ち寄ったとき、明日立つと聞かされた。
「もう帰ってこないのか」
「そうだな」
荊軻は明日燕の正使として秦に立つという。
督亢の地図と樊於期の首を持って和議に赴くという。表向きはそうなっている。俺もそう聞いている。でも気づく者は気づいている。だが荊軻は何も言わない。それが義士というものなのだろう。
荊軻は結局太子丹に召し上げられてから一度も町には下りなかった。狗屋も心配していたが、そのうた他の町へ立ったと思ったようだ。みなが別れも言わないまま去るのは不義だと言っていたけど、いつしか荊軻の存在は喧騒とともに忘れられた。
趙が滅んだ後、秦は何度となく燕を攻め、燕は抗しきれず領土を減らしていった。このような状況で和議の申し入れに赴くのは自然なことだった。正使がどこの馬の骨ともしれぬ荊軻であることを除いて。しかし荊軻は持ち前の爽やかな弁舌と一年ほどの宮仕えでそれなりの信頼を得ていたようだ。燕は風前の灯火で、燕の先行きを思い櫛の歯が欠けるように優秀な官吏も減っていた。その中で荊軻の起用はようやく不自然ではなくなったということなのだろう。
「俺も楽士としてついていくことはできないか」
「駄目だ」
「なぜだ、荊さんについていくのはあの秦舞陽というヤクザ者だけなのだろう?」
「あいつはいない方が良いくらいだな」
「荊さんを一人でいかせたくないんだ」
荊軻は少し考えてから微笑んだ。
「では撥を一本賜りたい」
「撥」
「そうだ、高さんは大事な友人だ。残って俺を覚えていてくれ。それに俺は一人じゃない。田光先生と樊将軍という二人の壮士と、高さんの撥とともに行く」
荊軻の目は驚くほど穏やかで、俺はもう何も言えなかった。
既に荊軻は死地を定めている。最後の夜はただただ二人で楽しく飲んで、夜が更けるまで筑を打って歌った。
空には三日月が登っていた。
「本当はまだ時期ではないんだ。だが太子丹は会うたびにまだかと言う。俺が行かないなら秦舞陽を一人で行かせるという。秦舞陽が成功するはずがない。失敗すれば二度目はない。だがもう太子丹を抑えられない。俺が義を果たすには太子丹が用意する正使という地位が必要だからな」
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