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第1話 今生の別れ
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冷たく、寒く、真っ白い。
荊軻はスゥと薄い唇に霞を吸い込み、白い世界で言葉を紡ぐ。
風蕭蕭兮易水寒
声とともに白い衣をまとった荊軻はするりと舞う。
俺はその詞に合わせて筑を打ち鳴らし、道行きの不吉を払う。音に合わせて、びょう、という冷たい風が足下を抜ける。
ゆるやかに伸ばされる荊軻の腕は上流から蕩々と流れ落ちる霞を切り裂き、踏み鳴らす足はさらさらとした易水の川の音を引き寄せる。けれども霞はまたすぐ積み重なり、再び世界は白に染められる。
壮士一去兮不復還
この道を進んでしまえば、荊軻はもう戻らない。
秦王政、後の世の始皇帝の暗殺。試みが成功しても失敗しても、その場で捕らえられ死は免れない。それを飲み込みこの男は進む。
いつしか筑に悲しみが混ざっていることに気づく。ふいに荊軻の透き通った目と目が合う。その目は既に過去を写さない。何も語らず静かに舞う。この舞は荊軻からの葬別だ。そうだ、この音じゃない。これは寿ぐべき別れ。荊軻は己の信念に従って死地に発つ。
背筋を伸ばして一層強く筑を打つ。その音は大地を震わせ、参集した者達を絡めとる。皆、白装束だ。荊軻を死地に追い込む者達。燕国の太子丹、その側近の鞠武。荊軻の出立を知って集まった者達。荊軻は燕の正式な使者として秦に赴き、秦王政に刃を向ける。燕の命運をのせて。
「風蕭蕭として易水寒し」
風はもの寂しく吹きすさび、易水の川の水は冷たい。
白装束の男達は唱和する。その音は集まり束ねられ、力強く大地を穿つ。
「壮士一たび去りて復還らず」
覚悟を抱いて旅立つ者は再び帰ることはない。
荊軻は二人の壮士の魂と共に行く。
筑に新たに宿った勇壮な調べに合わせて男達の目は赤く釣り上がり、その髪は天を衝く。地面は踏みしめられ、赤土が踊る。生まれ満ちる熱気が大気を震わせる。
しかし見上げる天は僅かにその縁に橙を残すだけで、未だに茫洋と白に沈んでいた。
いや、この音でもない。
1つ息を吐き、荊軻を思い、また新しい音を筑に乗せる。
荊軻は燕のために秦に赴くのではない。荊軻は己の義のために向かうのだ。荊よ。荊軻よ。誇り高き俺の友よ。あなたが最も好んでいた音があなたを送るのにふさわしい。筑を激しく打ち鳴らす。
その調べにようやく霧はゆるゆると晴れていく。滔々と揺蕩う易水の流れと沿うように広がるなだらかな草原、それを超えた先にある峻烈な山々が姿を現す。あの山を遥かに超えた先にある秦。そこに座す秦王政。
晴れた世界で荊軻は変わらず一人舞っていた。
傍らには誰もいないように。
白装束の唱和も俺の筑も存在しないように。
ふと、荊軻は地に降り立ち、爽やかに微笑む。
「友よ、さらばだ」
さよならだ、荊軻。俺は君の義と名を心に刻む。
荊軻を乗せた車は国境を超えて平原を進む。俺は荊軻の姿が豆粒になり、そして消え去るまで眺めた。この場に誰もいなくなって荊軻の姿が見えなくなっても、日が暮れるまで長い時間眺めて別れを惜しんだ。
荊軻は一度もこちらを振り返らなかった。
荊軻はスゥと薄い唇に霞を吸い込み、白い世界で言葉を紡ぐ。
風蕭蕭兮易水寒
声とともに白い衣をまとった荊軻はするりと舞う。
俺はその詞に合わせて筑を打ち鳴らし、道行きの不吉を払う。音に合わせて、びょう、という冷たい風が足下を抜ける。
ゆるやかに伸ばされる荊軻の腕は上流から蕩々と流れ落ちる霞を切り裂き、踏み鳴らす足はさらさらとした易水の川の音を引き寄せる。けれども霞はまたすぐ積み重なり、再び世界は白に染められる。
壮士一去兮不復還
この道を進んでしまえば、荊軻はもう戻らない。
秦王政、後の世の始皇帝の暗殺。試みが成功しても失敗しても、その場で捕らえられ死は免れない。それを飲み込みこの男は進む。
いつしか筑に悲しみが混ざっていることに気づく。ふいに荊軻の透き通った目と目が合う。その目は既に過去を写さない。何も語らず静かに舞う。この舞は荊軻からの葬別だ。そうだ、この音じゃない。これは寿ぐべき別れ。荊軻は己の信念に従って死地に発つ。
背筋を伸ばして一層強く筑を打つ。その音は大地を震わせ、参集した者達を絡めとる。皆、白装束だ。荊軻を死地に追い込む者達。燕国の太子丹、その側近の鞠武。荊軻の出立を知って集まった者達。荊軻は燕の正式な使者として秦に赴き、秦王政に刃を向ける。燕の命運をのせて。
「風蕭蕭として易水寒し」
風はもの寂しく吹きすさび、易水の川の水は冷たい。
白装束の男達は唱和する。その音は集まり束ねられ、力強く大地を穿つ。
「壮士一たび去りて復還らず」
覚悟を抱いて旅立つ者は再び帰ることはない。
荊軻は二人の壮士の魂と共に行く。
筑に新たに宿った勇壮な調べに合わせて男達の目は赤く釣り上がり、その髪は天を衝く。地面は踏みしめられ、赤土が踊る。生まれ満ちる熱気が大気を震わせる。
しかし見上げる天は僅かにその縁に橙を残すだけで、未だに茫洋と白に沈んでいた。
いや、この音でもない。
1つ息を吐き、荊軻を思い、また新しい音を筑に乗せる。
荊軻は燕のために秦に赴くのではない。荊軻は己の義のために向かうのだ。荊よ。荊軻よ。誇り高き俺の友よ。あなたが最も好んでいた音があなたを送るのにふさわしい。筑を激しく打ち鳴らす。
その調べにようやく霧はゆるゆると晴れていく。滔々と揺蕩う易水の流れと沿うように広がるなだらかな草原、それを超えた先にある峻烈な山々が姿を現す。あの山を遥かに超えた先にある秦。そこに座す秦王政。
晴れた世界で荊軻は変わらず一人舞っていた。
傍らには誰もいないように。
白装束の唱和も俺の筑も存在しないように。
ふと、荊軻は地に降り立ち、爽やかに微笑む。
「友よ、さらばだ」
さよならだ、荊軻。俺は君の義と名を心に刻む。
荊軻を乗せた車は国境を超えて平原を進む。俺は荊軻の姿が豆粒になり、そして消え去るまで眺めた。この場に誰もいなくなって荊軻の姿が見えなくなっても、日が暮れるまで長い時間眺めて別れを惜しんだ。
荊軻は一度もこちらを振り返らなかった。
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