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サフランライスの雨の下
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『サフランライスの雨の下』
私がこのタイトルの本を手にとったのは偶然だった。
いつもならこの通勤時間帯はスマホで小説を読んでいる。今朝、駅でリーダーを開いた時に右上の電池の欄が赤く点滅しているのに気がついた。昨日うっかり充電を怠ってしまった。それほど長い通勤時間ではないけれど、その時間を手持ち無沙汰に過ごすのがもったいない。だからチラと目に入ったキヨスクの本コーナーに並んだ10冊ほどの文庫本の中で、最もちょうど良さそうだと思って手にとったのが『サフランライスの雨の下』。
サフランを思わせる暖かな黄色をベースにした柔らかな表紙の本。
今年の冬はちょっと寒くて春が待ち遠しく、そんな春を予感させる色あいに惹かれたのかもしれない。
電車に乗り込み早速パラパラと開く。新しい紙の本特有のインクの香りとノリの効いた頁がめくれる感触は、最近は電子書籍ばかりの私にはどこか懐かしい。そう思って1ページ目を捲った。
~~
田中美咲は新幹線の中で流れ行く景色をただ、眺めていた。
どこか霞んだ早朝の春の空が分厚い二重窓の外で静かに揺れている。
今日は出張だ。到着までは約3時間。だから美咲はまだ暗い時間に起きて始発に飛び込んだ。ようやく落ち着いて一眠りしようか、という時に限ってポケットの中でスマホが振動する。めんどくさいなと思いながら開くと、ディスプレイには取引先の担当者の名前が表示されていた。
~~
驚いた。思わず顔を上げて電車の外を見回した。まるで誰かに覗かれているような気持ちになったからだ。
けれどもピークを過ぎた電車内は少しの混雑とざわめきで満ち、誰もこちらを伺っている様子はなかった。ふと目を上げれば、車窓に雪がちらついていた。
ふう、びっくりした。
田中美咲。私と同じ名前の主人公。
よくある名前といえばよくある名前で、私も同姓同名に2回ほど会ったことがある。でも自分の名前が冒頭に出てくるのはとても驚く。心臓によくない。
気を取り直して読み勧めると、この本の田中美咲はちょくちょく出張があるらしい。そして出張先の相手に密かな恋心を抱いている。これもよくあるパターンなのだろう。そして小説の田中美咲の恋人の名前は翔太だった。
思わず固まる。こんな偶然ある?
私も同じような過程を経て今の彼氏と春に結婚予定だ。私の彼氏の名前も翔太だったから、なんだかますます驚いて親近感を感じた。それにこの出会いの初々しさがなんだかちょっと懐かしい。私と翔太が出会ったときもこんな感じだったような気がする。
それから田中美咲の日常生活と遠距離恋愛が綴られて、20頁ほど読み勧めたところで最寄り駅に到着するアナウンスが聞こえた。
会社に到着して充電器を同僚に借りて急いでスマホを充電して、それからこの本のことはすっかり忘れて鞄の底にしまってそのまま。
再びその本を開いたのは3ヶ月ほど先の終電間際。
あれから充電を欠かすことはなかったのだけど、その日は生憎電話やメールが多くて帰りの電車に乗る頃にはすっかり電池がなくなってしまっていた。
鞄の底で少しくしゃりと潰れたその本からは、すでに新しいインクの香りが失われていた。
~~
「ねえ。結婚しよう」
翔太のその言葉に私は時間を失った。
その言葉はフレンチレストランセッティングされたてデザートとコーヒー、つまりオレンジピールとモカのふうわりとした香りと一緒に供された。
なんだか今、夢を見ているような心待ち。
よくある言葉。面白みがない。
けれどもその言葉をどれほど嬉しく思っただろう。
~~
思わずパタリと本を閉じた。
そうだ。よくある言葉だ、けれども自分の身に起きたことを思い出し、なんだか心が暖かくなる。でも何故この本は私の身に起こったことと同じ展開になっているんだろう。何か変だなと思って、それで最後はどうなるんだろうと思ってページを捲っていくと不意に白紙になった。
混乱する。奇妙なことに、何度めくりなおしても後半の3分の1ほどが白紙だった。
なんだこれ。
その書かれた最後のページを見る。
~~
「ごめん、美咲に言わないといけないことがあって」
「なぁに?」
「好きな人ができた」
ハンマーか何かで頭を殴られたかのような衝撃。
一瞬世界は真っ暗になって、人差し指に引っ掛けていたカップを取り落したガチャリという音がしたから、それで急に雑踏が耳に戻ってきた。
目の前の翔太はあわててガタリと立ち上がり、私が取り落したコーヒーカップをまっすぐに置き直し、まるで傷口から溢れ出る血のようにテーブルに広がっていくコーヒーをおしぼりでせき止めた。
「コーヒーこぼれてる、大丈夫?」
「大丈夫?」
この人は一体何をいっているの。
今日は結婚式の丁度2週間前。
式場と最終の打ち合わせに向かう直前に喫茶店でお茶を飲んでいた。そうだ、今日は席次に変更はないかとか、持ち込みの手作りボードなんかを式場に預けたり、これからそんな、最終的な確認をする予定で。
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった」
翔太は、でも、何を、何を言っているの?
何故この人はにこにこしているの?
~~
最後のページはそこで切れて、後は空白。
何を言っているの?
……少し、呆然とした。
そのページは私が読んでいたのよりだいぶん先のページで、私と翔太はそのまま結婚するものだと思っていた。なのに何故?
いやいや待って。
これは本の中の世界。これは私と翔太の話じゃなく、本の中の美咲と翔太の話。よくある名前でよくある展開だったから混同していただけで、別にこれはただのフィクション。そうだ。そう思って心を落ち着かせる。心臓が随分とドキドキしているのに気づく。その動悸をガタンガタンと揺れる電車に乗せて眺めると、車窓の外で様々な家々の明かりがするりするりと進行方向と反対側に流れていくところ。それはまるで、過去のように後ろに流れていく。そしてそれとは別に、私の影が薄っすらと、消え去ることなくその窓に写り込んでいる。
そうだ。私の現実はここにある。これから私は翔太と結婚して幸せになるところ。小説はフィクション。たまたま名前が同じなだけ。おかしなことを考えちゃだめ。
けれども私は後半の白紙が気になって、電車を降りて帰宅してもお風呂にも入らず小説を読み勧めた。
嘘。
嘘。
嘘。
プロポーズからずっと、本の中の美咲と翔太の生活は現実の私と翔太の生活をゆるやかになぞっていた。いいえ。これは小説。あくまで小説。それに固有名詞がでてこないデートの場所や流れも、ありふれたものばかり。かぶってもおかしくないところばかり。
おかしくない。そうだよね?
そうだ、ただのフィクションだ。それにこのまま普通に結婚したら、この小説はなにもおもしろくもないんだから。そう、起承転結の転。でも私と翔太の人生に転なんていらない。
そして最後のページに差し掛かる。
~~
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった」
翔太は、でも、何を、何を言っているの?
何故この人はにこにこしているの?
私は呆然として、口をぱくぱくして、この驚きで未だ怒りにも満たない動転をどう処理していいのか解らなかった。
「じゃぁ、式場に行こう。早く断らなくっちゃね」
翔太は私の手をとった。
~~
あれ? さっきより、増えている?
呆然と見ていると、そのページの白い余白に、にじむように次の文が浮かび上がる。
~~
「馬鹿にしないで!」
私は思わずその手を振り払い、
~~
私は思わずベッドサイドのチェストに転がっていたボールペンをひっつかみ、続きを書いてしまった。
私は思わずその手を振り払い、たちあがった。
翔太は私に謝った。
翔太は、
「今のは嘘。結婚しよう。」
と、言った。
勢いでそこまで書いて正気を取り戻す。
私、何やっているんだろう。はあ。こんなこと起こるはずがないのに。
きれいな印字に続く私の乱れた文字を見て、少し冷静になれた、気がする。
けれどもふとみると、私が書いたはずの部分がいつのまにか印字の文字に代わり、その続きの部分がもぞもぞと蠢いた。
~~
「今のは嘘。結婚しよう。」
と、言った。
何を言っているのかわからない。嘘? 本当? 何が真実?
でも逆に『今のは嘘』と言った翔太は、その表情全てが抜け落ちていた。
~~
なんだ、これ。
このままバッドエンドに続いてしまうのか?
いや、これは小説でしょう? 私と翔太とは関係ない。そう、関係ない。
でもこの不自然な本はなんだか呪いじみていて、その後に書かれた文章がこれからの私と翔太の将来のような気がして、それは不吉でたまらなかった。
だから私はその後の文章を書き続けた。追い立てられるように大急ぎで。
私たちは結婚式をした。
たくさんの同僚や友達、両親に祝福された。
キャンドルサービスで各テーブルを周る。友人からのビデオレター。両親からのお祝い。3回のお色直し。
そしてライスシャワー。
古代ローマが起源で、教会から出てきた新郎新婦にお米をシャワーのようにかける。1本の稲から1000粒以上のお米ができる豊穣のお祝い。日本なんだからふさわしいと思って取り入れたプラン。
幸せな結婚式のあと、オーストラリアに新婚旅行。そこでできたたくさんの思い出。
それから男の子と女の子が一人ずつ生まれて、幹久と紗綾という名前をつける。
すくすくと育って、運動会や保護者参観にでて
ええと、あとは何があったっけ。
起こりうる行事を調べながら必死で書き綴る。
うつらうつらしている隙に小説は勝手に文字を綴る。
そしてそれを修正しながら追いかけるように続きを書く。
まるで酷い追いかけっこだ。
子どもたちが大学を出て就職して、それから、ええと、その次は老後?
私たちは退職して、ゆっくり二人の時間を過ごして、そして100歳で永眠。
ふう、そこまで、最後のページまで書ききってチチチという音に気がついた。
部屋の窓を見るとすでに明るく、それに驚いて時間を確認すると午前6時30分。やばい、出社しなくちゃ。徹夜してしまった。急いで風呂に入って部屋に戻ると、机の上に置いていたはずの小説は影も形もなくなっていた。
あれ?
……夢かな。寝ぼけていたんだろうか。
でも凄く眠くて体が重い。まるで徹夜したかのように。
よくわからないまま慌ただしく家を出て、帰ってきて本を探しても見つからず、いつのまにかその存在を忘れてしまっていた。そう、1月ほどは。
「ごめん、美咲に言わないといけないことがあって」
「なぁに?」
「好きな人ができた」
殴られたかのような衝撃。ブライダルプランナーのもとに訪れて結婚式の最終確認をする前にカフェに寄ったときだった。
急に、小説のことを思い出した。何、まさか。一体。あれは小説の話。小説。翔太は何を言っているの?
私は動転してコーヒーカップを取り落とす。
「コーヒーこぼれてる、大丈夫?」
「大丈夫?」
この人は一体何を言っているの。
本当に何を言っているの。でも確か、この言葉で、そう、この言葉が書かれていた。
でも、でも大丈夫だ。私たちは別れない。そういう内容に書き換えたはず。
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった。じゃぁ、式場に行こう。早く断らなくっちゃね」
翔太は私の手をとり、私は馬鹿にしないでと叫んでその手を払う。
その時世界がパキリと割れる音がした。
シャリシャリとなにかを書きなぐる音がした。
そうだ、私は書き換えた。だから、だから大丈夫だ。
書き換えた? 一体何から?
そうだ、書き換えた通り、翔太は私に謝った。
「今のは嘘。結婚しよう」
そしてその翔太の表情は完全に抜け落ちて、まるで意思をもたない人形のように、見えた。
それから私と翔太は結婚式を上げ、海外旅行に行き、それからライスシャワーによって振りかけられた米の一粒一粒から子どもが生えた。
そのうち2粒が人の形をなして小学校に通うようになった。残りの998粒は人だか米だかわからないような姿でベランダに作った小さな家庭菜園を模したプランターの中でうごめいている。そのうす黄色いサフラン色の姿はあたかも蛆のようにしか思えなかったけれど、翔太には人に見えるらしく、甲斐甲斐しく無表情のまま雨を降らせるようにジョウロで水をやって育てていた。
何が悪かったのだろう。
無理やり小説を書き換えてしまったから?
それとも私に文章力や表現力というものがなかったから?
私の体は私の書いたとおりに無味乾燥に蠢き、私の精神ではもはや思う通りに体を動かせなくなった。私はその体の中で悲鳴を上げ続けていたけれど、体を動かせない私にとって、もはや自分の口からそれを外に出すことはできなくなっていた。
そしてこれは私たちが100歳になるまで続くのだろう。
ふひ
ふひひひ
了
私がこのタイトルの本を手にとったのは偶然だった。
いつもならこの通勤時間帯はスマホで小説を読んでいる。今朝、駅でリーダーを開いた時に右上の電池の欄が赤く点滅しているのに気がついた。昨日うっかり充電を怠ってしまった。それほど長い通勤時間ではないけれど、その時間を手持ち無沙汰に過ごすのがもったいない。だからチラと目に入ったキヨスクの本コーナーに並んだ10冊ほどの文庫本の中で、最もちょうど良さそうだと思って手にとったのが『サフランライスの雨の下』。
サフランを思わせる暖かな黄色をベースにした柔らかな表紙の本。
今年の冬はちょっと寒くて春が待ち遠しく、そんな春を予感させる色あいに惹かれたのかもしれない。
電車に乗り込み早速パラパラと開く。新しい紙の本特有のインクの香りとノリの効いた頁がめくれる感触は、最近は電子書籍ばかりの私にはどこか懐かしい。そう思って1ページ目を捲った。
~~
田中美咲は新幹線の中で流れ行く景色をただ、眺めていた。
どこか霞んだ早朝の春の空が分厚い二重窓の外で静かに揺れている。
今日は出張だ。到着までは約3時間。だから美咲はまだ暗い時間に起きて始発に飛び込んだ。ようやく落ち着いて一眠りしようか、という時に限ってポケットの中でスマホが振動する。めんどくさいなと思いながら開くと、ディスプレイには取引先の担当者の名前が表示されていた。
~~
驚いた。思わず顔を上げて電車の外を見回した。まるで誰かに覗かれているような気持ちになったからだ。
けれどもピークを過ぎた電車内は少しの混雑とざわめきで満ち、誰もこちらを伺っている様子はなかった。ふと目を上げれば、車窓に雪がちらついていた。
ふう、びっくりした。
田中美咲。私と同じ名前の主人公。
よくある名前といえばよくある名前で、私も同姓同名に2回ほど会ったことがある。でも自分の名前が冒頭に出てくるのはとても驚く。心臓によくない。
気を取り直して読み勧めると、この本の田中美咲はちょくちょく出張があるらしい。そして出張先の相手に密かな恋心を抱いている。これもよくあるパターンなのだろう。そして小説の田中美咲の恋人の名前は翔太だった。
思わず固まる。こんな偶然ある?
私も同じような過程を経て今の彼氏と春に結婚予定だ。私の彼氏の名前も翔太だったから、なんだかますます驚いて親近感を感じた。それにこの出会いの初々しさがなんだかちょっと懐かしい。私と翔太が出会ったときもこんな感じだったような気がする。
それから田中美咲の日常生活と遠距離恋愛が綴られて、20頁ほど読み勧めたところで最寄り駅に到着するアナウンスが聞こえた。
会社に到着して充電器を同僚に借りて急いでスマホを充電して、それからこの本のことはすっかり忘れて鞄の底にしまってそのまま。
再びその本を開いたのは3ヶ月ほど先の終電間際。
あれから充電を欠かすことはなかったのだけど、その日は生憎電話やメールが多くて帰りの電車に乗る頃にはすっかり電池がなくなってしまっていた。
鞄の底で少しくしゃりと潰れたその本からは、すでに新しいインクの香りが失われていた。
~~
「ねえ。結婚しよう」
翔太のその言葉に私は時間を失った。
その言葉はフレンチレストランセッティングされたてデザートとコーヒー、つまりオレンジピールとモカのふうわりとした香りと一緒に供された。
なんだか今、夢を見ているような心待ち。
よくある言葉。面白みがない。
けれどもその言葉をどれほど嬉しく思っただろう。
~~
思わずパタリと本を閉じた。
そうだ。よくある言葉だ、けれども自分の身に起きたことを思い出し、なんだか心が暖かくなる。でも何故この本は私の身に起こったことと同じ展開になっているんだろう。何か変だなと思って、それで最後はどうなるんだろうと思ってページを捲っていくと不意に白紙になった。
混乱する。奇妙なことに、何度めくりなおしても後半の3分の1ほどが白紙だった。
なんだこれ。
その書かれた最後のページを見る。
~~
「ごめん、美咲に言わないといけないことがあって」
「なぁに?」
「好きな人ができた」
ハンマーか何かで頭を殴られたかのような衝撃。
一瞬世界は真っ暗になって、人差し指に引っ掛けていたカップを取り落したガチャリという音がしたから、それで急に雑踏が耳に戻ってきた。
目の前の翔太はあわててガタリと立ち上がり、私が取り落したコーヒーカップをまっすぐに置き直し、まるで傷口から溢れ出る血のようにテーブルに広がっていくコーヒーをおしぼりでせき止めた。
「コーヒーこぼれてる、大丈夫?」
「大丈夫?」
この人は一体何をいっているの。
今日は結婚式の丁度2週間前。
式場と最終の打ち合わせに向かう直前に喫茶店でお茶を飲んでいた。そうだ、今日は席次に変更はないかとか、持ち込みの手作りボードなんかを式場に預けたり、これからそんな、最終的な確認をする予定で。
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった」
翔太は、でも、何を、何を言っているの?
何故この人はにこにこしているの?
~~
最後のページはそこで切れて、後は空白。
何を言っているの?
……少し、呆然とした。
そのページは私が読んでいたのよりだいぶん先のページで、私と翔太はそのまま結婚するものだと思っていた。なのに何故?
いやいや待って。
これは本の中の世界。これは私と翔太の話じゃなく、本の中の美咲と翔太の話。よくある名前でよくある展開だったから混同していただけで、別にこれはただのフィクション。そうだ。そう思って心を落ち着かせる。心臓が随分とドキドキしているのに気づく。その動悸をガタンガタンと揺れる電車に乗せて眺めると、車窓の外で様々な家々の明かりがするりするりと進行方向と反対側に流れていくところ。それはまるで、過去のように後ろに流れていく。そしてそれとは別に、私の影が薄っすらと、消え去ることなくその窓に写り込んでいる。
そうだ。私の現実はここにある。これから私は翔太と結婚して幸せになるところ。小説はフィクション。たまたま名前が同じなだけ。おかしなことを考えちゃだめ。
けれども私は後半の白紙が気になって、電車を降りて帰宅してもお風呂にも入らず小説を読み勧めた。
嘘。
嘘。
嘘。
プロポーズからずっと、本の中の美咲と翔太の生活は現実の私と翔太の生活をゆるやかになぞっていた。いいえ。これは小説。あくまで小説。それに固有名詞がでてこないデートの場所や流れも、ありふれたものばかり。かぶってもおかしくないところばかり。
おかしくない。そうだよね?
そうだ、ただのフィクションだ。それにこのまま普通に結婚したら、この小説はなにもおもしろくもないんだから。そう、起承転結の転。でも私と翔太の人生に転なんていらない。
そして最後のページに差し掛かる。
~~
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった」
翔太は、でも、何を、何を言っているの?
何故この人はにこにこしているの?
私は呆然として、口をぱくぱくして、この驚きで未だ怒りにも満たない動転をどう処理していいのか解らなかった。
「じゃぁ、式場に行こう。早く断らなくっちゃね」
翔太は私の手をとった。
~~
あれ? さっきより、増えている?
呆然と見ていると、そのページの白い余白に、にじむように次の文が浮かび上がる。
~~
「馬鹿にしないで!」
私は思わずその手を振り払い、
~~
私は思わずベッドサイドのチェストに転がっていたボールペンをひっつかみ、続きを書いてしまった。
私は思わずその手を振り払い、たちあがった。
翔太は私に謝った。
翔太は、
「今のは嘘。結婚しよう。」
と、言った。
勢いでそこまで書いて正気を取り戻す。
私、何やっているんだろう。はあ。こんなこと起こるはずがないのに。
きれいな印字に続く私の乱れた文字を見て、少し冷静になれた、気がする。
けれどもふとみると、私が書いたはずの部分がいつのまにか印字の文字に代わり、その続きの部分がもぞもぞと蠢いた。
~~
「今のは嘘。結婚しよう。」
と、言った。
何を言っているのかわからない。嘘? 本当? 何が真実?
でも逆に『今のは嘘』と言った翔太は、その表情全てが抜け落ちていた。
~~
なんだ、これ。
このままバッドエンドに続いてしまうのか?
いや、これは小説でしょう? 私と翔太とは関係ない。そう、関係ない。
でもこの不自然な本はなんだか呪いじみていて、その後に書かれた文章がこれからの私と翔太の将来のような気がして、それは不吉でたまらなかった。
だから私はその後の文章を書き続けた。追い立てられるように大急ぎで。
私たちは結婚式をした。
たくさんの同僚や友達、両親に祝福された。
キャンドルサービスで各テーブルを周る。友人からのビデオレター。両親からのお祝い。3回のお色直し。
そしてライスシャワー。
古代ローマが起源で、教会から出てきた新郎新婦にお米をシャワーのようにかける。1本の稲から1000粒以上のお米ができる豊穣のお祝い。日本なんだからふさわしいと思って取り入れたプラン。
幸せな結婚式のあと、オーストラリアに新婚旅行。そこでできたたくさんの思い出。
それから男の子と女の子が一人ずつ生まれて、幹久と紗綾という名前をつける。
すくすくと育って、運動会や保護者参観にでて
ええと、あとは何があったっけ。
起こりうる行事を調べながら必死で書き綴る。
うつらうつらしている隙に小説は勝手に文字を綴る。
そしてそれを修正しながら追いかけるように続きを書く。
まるで酷い追いかけっこだ。
子どもたちが大学を出て就職して、それから、ええと、その次は老後?
私たちは退職して、ゆっくり二人の時間を過ごして、そして100歳で永眠。
ふう、そこまで、最後のページまで書ききってチチチという音に気がついた。
部屋の窓を見るとすでに明るく、それに驚いて時間を確認すると午前6時30分。やばい、出社しなくちゃ。徹夜してしまった。急いで風呂に入って部屋に戻ると、机の上に置いていたはずの小説は影も形もなくなっていた。
あれ?
……夢かな。寝ぼけていたんだろうか。
でも凄く眠くて体が重い。まるで徹夜したかのように。
よくわからないまま慌ただしく家を出て、帰ってきて本を探しても見つからず、いつのまにかその存在を忘れてしまっていた。そう、1月ほどは。
「ごめん、美咲に言わないといけないことがあって」
「なぁに?」
「好きな人ができた」
殴られたかのような衝撃。ブライダルプランナーのもとに訪れて結婚式の最終確認をする前にカフェに寄ったときだった。
急に、小説のことを思い出した。何、まさか。一体。あれは小説の話。小説。翔太は何を言っているの?
私は動転してコーヒーカップを取り落とす。
「コーヒーこぼれてる、大丈夫?」
「大丈夫?」
この人は一体何を言っているの。
本当に何を言っているの。でも確か、この言葉で、そう、この言葉が書かれていた。
でも、でも大丈夫だ。私たちは別れない。そういう内容に書き換えたはず。
「だから結婚式はキャンセルしようと思う。キャンセル代は僕が全部払う」
「あの、何を言って?」
「でも式を挙げる前でよかった。じゃぁ、式場に行こう。早く断らなくっちゃね」
翔太は私の手をとり、私は馬鹿にしないでと叫んでその手を払う。
その時世界がパキリと割れる音がした。
シャリシャリとなにかを書きなぐる音がした。
そうだ、私は書き換えた。だから、だから大丈夫だ。
書き換えた? 一体何から?
そうだ、書き換えた通り、翔太は私に謝った。
「今のは嘘。結婚しよう」
そしてその翔太の表情は完全に抜け落ちて、まるで意思をもたない人形のように、見えた。
それから私と翔太は結婚式を上げ、海外旅行に行き、それからライスシャワーによって振りかけられた米の一粒一粒から子どもが生えた。
そのうち2粒が人の形をなして小学校に通うようになった。残りの998粒は人だか米だかわからないような姿でベランダに作った小さな家庭菜園を模したプランターの中でうごめいている。そのうす黄色いサフラン色の姿はあたかも蛆のようにしか思えなかったけれど、翔太には人に見えるらしく、甲斐甲斐しく無表情のまま雨を降らせるようにジョウロで水をやって育てていた。
何が悪かったのだろう。
無理やり小説を書き換えてしまったから?
それとも私に文章力や表現力というものがなかったから?
私の体は私の書いたとおりに無味乾燥に蠢き、私の精神ではもはや思う通りに体を動かせなくなった。私はその体の中で悲鳴を上げ続けていたけれど、体を動かせない私にとって、もはや自分の口からそれを外に出すことはできなくなっていた。
そしてこれは私たちが100歳になるまで続くのだろう。
ふひ
ふひひひ
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