月の花

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月の花

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 春先の夜。
 翌日が休みだったからって、ビール片手に下らないホラー映画を見ながら夜更かししていたことは否めない。
 酒で火照った頭と顔を冷やそうと、ガラリと窓を開けてベランダに出たところで固まった。知らない男と目が合ったからだ。そもそも人がいるとは全く思っていなかった。
「やあ、こんばんは」
「あの、こんばんは」
 動揺しているところにかけられた涼やかな声は、ありふれた挨拶だった。
 午前3時という深夜帯にもかかわらず、細身のグレーのスーツをきっちり着こなし、やや茶色がかった髪を後ろになでつけてた20代後半に見える男を僅かに見下ろしている。
 その男は隣の建物のベランダに立っていた。同じ5階でも隣の方が少し低い。その直線距離で2メートルほどの隔たりがあるベランダの先にはオフィスが入っていたと聞く。けれども私がここに引っ越すちょっと前に退去して、以降その部屋は無人だったはず。

「あの、そちらの部屋に引っ越してこられた方ですか」
「引っ越し? ああ、ちょっと忘れ物を取りに来ただけなんです」
「こんな時間に?」
「ええ。それで月が綺麗なもので眺めていました」
 思わず空を探したけれど、見当たらない。
「……あなたの上にありますから、そちらからは見えないかもしれません」
 男の声は夜の静寂によく響く。
 それでか。男のスーツの色が見えるのは。
 確かに夜にしてはやけに明るい。ベランダの手すりから少し手を伸ばせば、ある地点より先はスポットライトに照らされたように、手元が白く変化する。大きく身を乗り出したのはおそらく酔った勢いだ。乗り出して見上げると、最上階の私の部屋の遥か真上に、真ん丸の月がぽっかりと浮かんでいた。やけに大きく、何のてらいもなく。

「危ないですよ」
 思ったより近くで聞こえたその声に思わずバランスを崩しかけ、なんとか手すりの内に体を戻す。冷や汗をかきながら振り返れば、心配そうな顔をした男と再び目があった。その伸ばされた腕の分と私の体が倒れた分が彼我の距離を1メートルほどまで、に縮めていた。
 このまま落ちても、ギリギリあの腕までは届かなさそうだけど。
「月を捕まえるにはコウノトリがいりますよ」
「は? コウノトリ?」
「ええ。私が生まれたアフリカには、そういう話があるんです。いけませんね、少し感傷的になっているようだ」
 アフリカ? 見た目は日本人に見えるけれど、そういえば僅かに彫りが深い気もする。
「感傷的?」
「そう。忘れ物が見つからなかったので」
 忘れ物。
 私がここに引っ越したのはもう半年以上前だ。ちらりと覗く室内は何もなかったように見えた。この男が何か忘れたのだとしても、もう残ってはいないだろう。

 半年以上前に隣人になれていなかった。
 それはつまり、きっと今日このタイミングを逃せば、この不思議なかつての隣人と遭遇することはなかったわけだ。
 少しの時点のずれ。
 そう思うと、なんだか興味が湧いてきた。
「残念ですね。リフォームする時に片付けられてしまったのかも」
「ええ、きっとそうでしょう」
「大切なものだったんですか?」
「とても大切な思い出です。でももう諦めがつきました」
 これ以上聞くのは憚られるような、寂しさを滲ませる少し強い声音の後に訪れた沈黙。
 会話、つまりこの奇跡的な邂逅の終了の気配をなんとなく感じた。それがなんだかもったいなく、話を混ぜっ返すことにした。

「コウノトリって何のことです?」
「え。ああ。ただのおとぎ話ですよ」
 それは月の花という話だ。
 ある国に3人の王子がいた。国で一番高い山に登り、月の花を取ってきた王子を跡継ぎにすることになった。
 紆余曲折の末、3人のうち1人の王子だけが山の頂上に辿り着き、そこには満月の夜だけ月に飛ぶコウノトリが住んでいた。王子はコウノトリに連れられて月に到着し、月の花が咲く池を守る大蛇を倒して月の花を手に入れる。
 それを庭に植えた王子はある夜、庭で月の花が歌っているのに気付く。王子も歌い返すと、その花は自らを摘み取って池に浮かべろという。その通りにした翌朝、月の花は美しい娘と化し、王子はその娘と結婚して王国を継いだ。

「なんか変なお話」
「そうですか?」
「なんで摘んだら人になるの?」
「さぁ。けれどもおとぎ話ですから。摘んで他と区別しなければ見分けがつかなくなるのでは」
 ふわりとした風が吹き、不意にあたりが暗くなる。見上げると雲が出ていた。心なしか風も冷たい。そもそも体を冷やしに外に出たわけで、こんなに長く外に出ているつもりもなかった。無意識に両腕をこすり合わせる。
 男も空を見上げたように見えたけれど、グレーや茶色の色味も闇に隠れ、表情も幻のように夜に溶けてよくわからなくない。
 けれども満月が隠れたのは一瞬で、すぐに再び明るくなって、世界の形を浮かび上がらせ色をもたらす。
 なんだかほっとした。そうして再び現れた男と目が合った。きらきら輝く目が綺麗だなと思った。満月の光を反射でもしているのかもしれない。

「そろそろお部屋に戻ったほうがよいでしょう。風邪を引きますよ」
「ねぇ。そっちに行ってもいいかな」
「こちらに? この部屋には何もありません」
「うん。だからもうここには来ないんでしょう?」
 先程の様子から、そんな感じがした。何かにきっぱり区切りをつけたような。
 けれども既に私はその妙に不確かな男に興味を持ってしまっていた。
 月の花を捕まえた王子のようにきちんと池に浮かべなければ、目の前の男は先程月が陰ったときみたいに、すらっといなくなってしまうだろう。その他と区別がつかなくなって。無性にそんな気がした。

「せっかく会ったんだし? 明日は休みでしょう?」
「それはまぁ、そうですが。初めて会ったばかりですよ」
「悪い人には見えないし。それになんだか王子様っぽいし?」
 そこまで言ってしまって、やっぱり酔っ払っているのかもと思い直す。
 男は僅かにポカンと目と、それからわずかに口を開け、首をかしげ、おかしそうに小さく吹き出した。それを見てなんだか小っ恥ずかしくなった。
 そうしてまた、少し強い風が吹き始める。きっとまた、月に雲がかかってしまう。世界が闇に包まれる。なんとなく次に雲が晴れた時にはこの人はもういなくて、永遠に会えなくなるんだろう。そんな予感がして、手すりから身を乗り出す。

「危ないですよ」
 慌てて腕を伸ばす男の手は、もう少しで触れることができそうに思えた。追加で背筋を伸ばして手を伸ばす。でも触れるには少しだけ足りない。だから仕方がなく、再びストンとベランダに落ちた。駄目なのかな。
 我ながら何をやっているのだろう。そう思っているとまた小さな笑い声が散らばった。
「変な人ですね。本当にここには何もないんですよ」
「うん」
「だからどうしてもというならそちらに伺いましょう。よろしいですか?」
「こちらに?」
「ええ。月の花を捕まえるのは王子であるべきでしょう?」
 そういうが早いか、その人は軽やかに手すりに足をかけ、危ないという隙もなくふわりとその上に立ち、次の瞬間にはコウノトリに連れられたように空を舞って、気づくと目の前のベランダの手すりを挟んだすぐ先に立っていた。10センチほど先に。
 心臓がドキリと音を立て、それから今度は私を見下ろすその瞳を見上げる。

「お邪魔しても?」
「ええっと、ビールと乾物しかありませんが」
「素晴らしい」
 そういえば映画が途中だったのを思い出す。まあ大丈夫。明日はお休みなんだから。

Fin
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