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二年間の関係 side 樺島成彰
1年と3ヶ月前(1)
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「樺島先生、海以来ですね」
ああ、やっぱりいた。辟易する。
夏も盛りでギラギラとした太陽が投げつける光の放射熱がようやく冷める兆しが見えた時間帯。スカイタワーギャラリーで行われた小さな個展のオープニングパーティーにその男はやってきた。けどこれも仕事だ。
「そうですね」
自分の頬が少しだけ強張っている。
「彼氏さんに嫌われてしまってないか、心配です」
にやにやとした顔にうんざりする。そうしてその発言を小耳に挟んでやってきた何人かにも。
「先生、お付き合いされている方がいらっしゃるんですか?」
「……ええ。まあ」
「それが凄くきれいな人ですよ」
「それはお似合いそうですね。是非クロージングに連れてきてくださいよ」
ああ、本当にうんざりする。本当は恋人じゃないのに。第一、お前は樹のことを何もしらないだろう。なんだかその、全てを知っているかのように得意げに口を開く様子が腹立たしい。
「来るって言ったらね」
「絶対ですよ」
何が絶対なんだろう。よいとは言っていないのに。樹がどんな人なのか、根掘り葉掘り聞かれる。
「社会人ですよ」
「画家ではありません」
「……物静かな人です」
「そのへんはプライバシーなので」
その繰り返しだ。でも、俺自身もあんまり樹のことを知らないことに気がついた。いつも物静かに俺の隣りに座っている。家にいる時はずっと近くに。それで何も過不足はない。丁度飽和していて、足しも引きもする必要性なんて感じない。
樹とした会話を思い出す。何を食べても美味しいという。そうですね。嫌いじゃないです。悪くない。それなりに面白いです。どれもこれも、無くてもいい会話だ。先生のことが好きですよ。それも?
「樹君は俺が好きなの?」
「まさか」
記憶の中の樹が愉快そうに微笑む。その言葉と微笑みに、何故だか頭が少しふらつく。樹は俺をそういう意味で好きなわけじゃない。そういう意味ってどんな意味だろう。
「樺島先生? 大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色が悪くいらっしゃるので」
「……あぁ。パーティーは久しぶりですから、気疲れしたのかもしれません」
薄く作られたハイボールを片手に人から離れて窓に近づく。壁の一面がまるまるガラス張りになっていて、このあたりで最も高い26階からの眺めは眼下に広がる街灯りを遠くまで眺め渡せた。たくさんの建物のそれぞれにへばりついた小さな窓に、たくさんの明かりが灯っている。あの光の中の光景を俺はいちいち知らないし、大した興味もない。樹が俺に向ける興味は、せいぜいそれと同じようなものだろう。たまたま今、目に入っているだけなんだ。そうして薄っすらとガラスに反射する俺自身も、見えた。
樹は個展をきっと見に来てくれるだろう。それは樹の仕事の一環でもあるだろうし。この個展は1ヶ月弱ほど行われる。クロージングに呼べば、きっときてくれるだろう。でも呼ぶつもりはない。そんな行為になにも意味はない。だってただのふりなんだから。
少しだけ酔っ払って帰ったら、リビングのソファに座っていた樹が振り返る。
「おかえりなさい」
どこか平板な声に安堵する。
「ああ。ただいま」
「ケーキ買ってきました。お茶を淹れます」
「ケーキ?」
樹は立ち上がり、眼の前を、そしてキッチンを横切って冷蔵庫から茶色の小さい箱を取り出す。焦げ茶のリボンのラッピングは、ベクセンハウザーのものだ。知る人ぞ知るという洋菓子店だが、この家からは少し遠い。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「ええ。あのへんで取材があったのでついでに。個展おめでとうございます」
樹が祝ってくれるのはなんだか嬉しかった。現れたのは2ピースのザッハトルテと、それから樹の淹れたショットのエスプレッソ。どこまでも茶色いのがなんだか面白い。色味は地味だけど金色のリボン小さな飾りがついて少しだけ豪華。そのビターな味わいは妙に心に沁みた。
「やっぱここのケーキは美味いな。せっかく神津まで行ったんだから、俺も何か買ってくればよかったかな、つまみとか」
でもまた行く機会はある。その時は何か買って帰ろう。そんなことを思っていれば、次第にまぶたが落ちてくる。なんだか眠い。酒の酔いのところに、カロリー過多な甘いケーキだからだろう。
「大丈夫ですか? だいぶん疲れてそうですよ」
「わかる? だいぶん眠いんだ」
油断するとそのまま寝てしまいそうだ。一口ケーキを口に運ぶごとに上質な糖とカカオの香り、そしてブランデーの風味が溢れて、その度に目を開けるのが億劫になる。
「成彰さん、せめて部屋でねましょう」
「少しだけ、ここで落ち着いたら部屋に戻るよ」
「駄目です。風邪ひいたらどうするんですか」
「樹君?」
樹は俺の右腕を肩にかけて起き上がらせようとしたものだから、やむなく立ち上がればふらついた。
「成彰さんはお酒に弱いんですか?」
「あんまり強くはないかな」
それでも少し飲みすぎた気はする。誰とも話したくなかったから。そうして右を向けば至近距離にあった樹の頬に思わずキスをした。
「え?」
「あ、ごめん。酔った勢いだ。おかしいな」
樹から小さなため息が漏れた。普段はこんなこと、しないのに。
「すまない」
「いえ、いいですよ、このくらいなら」
このくらいなら?
そうして部屋まで運ばれて、ベッドに寝転がった俺に布団がかけられる。
「おやすみなさい。明日は適当に朝ご飯を食べますから、ゆっくり寝てください」
「あぁ……おやすみ」
そうしてパタリと扉が閉まる音がした。
「もう少し一緒にいたほうがいいですか?」
眼の前の薄ぼんやりした蜃気楼は、間もなく消えてしまうだろう。ぼんやりと見ていると、次第に顔が近づき、唇が触れる間際に消え去った。
変だな。樹はさっき部屋から出てったのに蜃気楼が少し残っていた。酔っ払ってるからだ、きっと。
ああ、やっぱりいた。辟易する。
夏も盛りでギラギラとした太陽が投げつける光の放射熱がようやく冷める兆しが見えた時間帯。スカイタワーギャラリーで行われた小さな個展のオープニングパーティーにその男はやってきた。けどこれも仕事だ。
「そうですね」
自分の頬が少しだけ強張っている。
「彼氏さんに嫌われてしまってないか、心配です」
にやにやとした顔にうんざりする。そうしてその発言を小耳に挟んでやってきた何人かにも。
「先生、お付き合いされている方がいらっしゃるんですか?」
「……ええ。まあ」
「それが凄くきれいな人ですよ」
「それはお似合いそうですね。是非クロージングに連れてきてくださいよ」
ああ、本当にうんざりする。本当は恋人じゃないのに。第一、お前は樹のことを何もしらないだろう。なんだかその、全てを知っているかのように得意げに口を開く様子が腹立たしい。
「来るって言ったらね」
「絶対ですよ」
何が絶対なんだろう。よいとは言っていないのに。樹がどんな人なのか、根掘り葉掘り聞かれる。
「社会人ですよ」
「画家ではありません」
「……物静かな人です」
「そのへんはプライバシーなので」
その繰り返しだ。でも、俺自身もあんまり樹のことを知らないことに気がついた。いつも物静かに俺の隣りに座っている。家にいる時はずっと近くに。それで何も過不足はない。丁度飽和していて、足しも引きもする必要性なんて感じない。
樹とした会話を思い出す。何を食べても美味しいという。そうですね。嫌いじゃないです。悪くない。それなりに面白いです。どれもこれも、無くてもいい会話だ。先生のことが好きですよ。それも?
「樹君は俺が好きなの?」
「まさか」
記憶の中の樹が愉快そうに微笑む。その言葉と微笑みに、何故だか頭が少しふらつく。樹は俺をそういう意味で好きなわけじゃない。そういう意味ってどんな意味だろう。
「樺島先生? 大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色が悪くいらっしゃるので」
「……あぁ。パーティーは久しぶりですから、気疲れしたのかもしれません」
薄く作られたハイボールを片手に人から離れて窓に近づく。壁の一面がまるまるガラス張りになっていて、このあたりで最も高い26階からの眺めは眼下に広がる街灯りを遠くまで眺め渡せた。たくさんの建物のそれぞれにへばりついた小さな窓に、たくさんの明かりが灯っている。あの光の中の光景を俺はいちいち知らないし、大した興味もない。樹が俺に向ける興味は、せいぜいそれと同じようなものだろう。たまたま今、目に入っているだけなんだ。そうして薄っすらとガラスに反射する俺自身も、見えた。
樹は個展をきっと見に来てくれるだろう。それは樹の仕事の一環でもあるだろうし。この個展は1ヶ月弱ほど行われる。クロージングに呼べば、きっときてくれるだろう。でも呼ぶつもりはない。そんな行為になにも意味はない。だってただのふりなんだから。
少しだけ酔っ払って帰ったら、リビングのソファに座っていた樹が振り返る。
「おかえりなさい」
どこか平板な声に安堵する。
「ああ。ただいま」
「ケーキ買ってきました。お茶を淹れます」
「ケーキ?」
樹は立ち上がり、眼の前を、そしてキッチンを横切って冷蔵庫から茶色の小さい箱を取り出す。焦げ茶のリボンのラッピングは、ベクセンハウザーのものだ。知る人ぞ知るという洋菓子店だが、この家からは少し遠い。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「ええ。あのへんで取材があったのでついでに。個展おめでとうございます」
樹が祝ってくれるのはなんだか嬉しかった。現れたのは2ピースのザッハトルテと、それから樹の淹れたショットのエスプレッソ。どこまでも茶色いのがなんだか面白い。色味は地味だけど金色のリボン小さな飾りがついて少しだけ豪華。そのビターな味わいは妙に心に沁みた。
「やっぱここのケーキは美味いな。せっかく神津まで行ったんだから、俺も何か買ってくればよかったかな、つまみとか」
でもまた行く機会はある。その時は何か買って帰ろう。そんなことを思っていれば、次第にまぶたが落ちてくる。なんだか眠い。酒の酔いのところに、カロリー過多な甘いケーキだからだろう。
「大丈夫ですか? だいぶん疲れてそうですよ」
「わかる? だいぶん眠いんだ」
油断するとそのまま寝てしまいそうだ。一口ケーキを口に運ぶごとに上質な糖とカカオの香り、そしてブランデーの風味が溢れて、その度に目を開けるのが億劫になる。
「成彰さん、せめて部屋でねましょう」
「少しだけ、ここで落ち着いたら部屋に戻るよ」
「駄目です。風邪ひいたらどうするんですか」
「樹君?」
樹は俺の右腕を肩にかけて起き上がらせようとしたものだから、やむなく立ち上がればふらついた。
「成彰さんはお酒に弱いんですか?」
「あんまり強くはないかな」
それでも少し飲みすぎた気はする。誰とも話したくなかったから。そうして右を向けば至近距離にあった樹の頬に思わずキスをした。
「え?」
「あ、ごめん。酔った勢いだ。おかしいな」
樹から小さなため息が漏れた。普段はこんなこと、しないのに。
「すまない」
「いえ、いいですよ、このくらいなら」
このくらいなら?
そうして部屋まで運ばれて、ベッドに寝転がった俺に布団がかけられる。
「おやすみなさい。明日は適当に朝ご飯を食べますから、ゆっくり寝てください」
「あぁ……おやすみ」
そうしてパタリと扉が閉まる音がした。
「もう少し一緒にいたほうがいいですか?」
眼の前の薄ぼんやりした蜃気楼は、間もなく消えてしまうだろう。ぼんやりと見ていると、次第に顔が近づき、唇が触れる間際に消え去った。
変だな。樹はさっき部屋から出てったのに蜃気楼が少し残っていた。酔っ払ってるからだ、きっと。
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