上 下
25 / 37
二年間の関係 side 樺島成彰

1年と3ヶ月前(1)

しおりを挟む
「樺島先生、海以来ですね」
 ああ、やっぱりいた。辟易する。
 夏も盛りでギラギラとした太陽が投げつける光の放射熱がようやく冷める兆しが見えた時間帯。スカイタワーギャラリーで行われた小さな個展のオープニングパーティーにその男はやってきた。けどこれも仕事だ。
「そうですね」
 自分の頬が少しだけ強張っている。
「彼氏さんに嫌われてしまってないか、心配です」
 にやにやとした顔にうんざりする。そうしてその発言を小耳に挟んでやってきた何人かにも。
「先生、お付き合いされている方がいらっしゃるんですか?」
「……ええ。まあ」
「それが凄くきれいな人ですよ」
「それはお似合いそうですね。是非クロージングに連れてきてくださいよ」
 ああ、本当にうんざりする。本当は恋人じゃないのに。第一、お前は樹のことを何もしらないだろう。なんだかその、全てを知っているかのように得意げに口を開く様子が腹立たしい。
「来るって言ったらね」
「絶対ですよ」
 何が絶対なんだろう。よいとは言っていないのに。樹がどんな人なのか、根掘り葉掘り聞かれる。
「社会人ですよ」
「画家ではありません」
「……物静かな人です」
「そのへんはプライバシーなので」
 その繰り返しだ。でも、俺自身もあんまり樹のことを知らないことに気がついた。いつも物静かに俺の隣りに座っている。家にいる時はずっと近くに。それで何も過不足はない。丁度飽和していて、足しも引きもする必要性なんて感じない。
 樹とした会話を思い出す。何を食べても美味しいという。そうですね。嫌いじゃないです。悪くない。それなりに面白いです。どれもこれも、無くてもいい会話だ。先生のことが好きですよ。それも?
「樹君は俺が好きなの?」
「まさか」
 記憶の中の樹が愉快そうに微笑む。その言葉と微笑みに、何故だか頭が少しふらつく。樹は俺をそういう意味で好きなわけじゃない。そういう意味ってどんな意味だろう。

「樺島先生? 大丈夫ですか?」
「え?」
「顔色が悪くいらっしゃるので」
「……あぁ。パーティーは久しぶりですから、気疲れしたのかもしれません」
 薄く作られたハイボールを片手に人から離れて窓に近づく。壁の一面がまるまるガラス張りになっていて、このあたりで最も高い26階からの眺めは眼下に広がる街灯りを遠くまで眺め渡せた。たくさんの建物のそれぞれにへばりついた小さな窓に、たくさんの明かりが灯っている。あの光の中の光景を俺はいちいち知らないし、大した興味もない。樹が俺に向ける興味は、せいぜいそれと同じようなものだろう。たまたま今、目に入っているだけなんだ。そうして薄っすらとガラスに反射する俺自身も、見えた。
 樹は個展をきっと見に来てくれるだろう。それは樹の仕事の一環でもあるだろうし。この個展は1ヶ月弱ほど行われる。クロージングに呼べば、きっときてくれるだろう。でも呼ぶつもりはない。そんな行為になにも意味はない。だってただのふりなんだから。

 少しだけ酔っ払って帰ったら、リビングのソファに座っていた樹が振り返る。
「おかえりなさい」
 どこか平板な声に安堵する。
「ああ。ただいま」
「ケーキ買ってきました。お茶を淹れます」
「ケーキ?」
 樹は立ち上がり、眼の前を、そしてキッチンを横切って冷蔵庫から茶色の小さい箱を取り出す。焦げ茶のリボンのラッピングは、ベクセンハウザーのものだ。知る人ぞ知るという洋菓子店だが、この家からは少し遠い。
「わざわざ買ってきてくれたの?」
「ええ。あのへんで取材があったのでついでに。個展おめでとうございます」
 樹が祝ってくれるのはなんだか嬉しかった。現れたのは2ピースのザッハトルテと、それから樹の淹れたショットのエスプレッソ。どこまでも茶色いのがなんだか面白い。色味は地味だけど金色のリボン小さな飾りがついて少しだけ豪華。そのビターな味わいは妙に心に沁みた。
「やっぱここのケーキは美味いな。せっかく神津まで行ったんだから、俺も何か買ってくればよかったかな、つまみとか」
 でもまた行く機会はある。その時は何か買って帰ろう。そんなことを思っていれば、次第にまぶたが落ちてくる。なんだか眠い。酒の酔いのところに、カロリー過多な甘いケーキだからだろう。
「大丈夫ですか? だいぶん疲れてそうですよ」
「わかる? だいぶん眠いんだ」
 油断するとそのまま寝てしまいそうだ。一口ケーキを口に運ぶごとに上質な糖とカカオの香り、そしてブランデーの風味が溢れて、その度に目を開けるのが億劫になる。

成彰さん先生、せめて部屋でねましょう」
「少しだけ、ここで落ち着いたら部屋に戻るよ」
「駄目です。風邪ひいたらどうするんですか」
浅井君?」
 樹は俺の右腕を肩にかけて起き上がらせようとしたものだから、やむなく立ち上がればふらついた。
成彰さん先生はお酒に弱いんですか?」
「あんまり強くはないかな」
 それでも少し飲みすぎた気はする。誰とも話したくなかったから。そうして右を向けば至近距離にあった樹の頬に思わずキスをした。
「え?」
「あ、ごめん。酔った勢いだ。おかしいな」
 樹から小さなため息が漏れた。普段はこんなこと、しないのに。
「すまない」
「いえ、いいですよ、このくらいなら」
 このくらいなら?
 そうして部屋まで運ばれて、ベッドに寝転がった俺に布団がかけられる。
「おやすみなさい。明日は適当に朝ご飯を食べますから、ゆっくり寝てください」
「あぁ……おやすみ」
 そうしてパタリと扉が閉まる音がした。
「もう少し一緒にいたほうがいいですか?」
 眼の前の薄ぼんやりした蜃気楼は、間もなく消えてしまうだろう。ぼんやりと見ていると、次第に顔が近づき、唇が触れる間際に消え去った。
 変だな。樹はさっき部屋から出てったのに蜃気楼が少し残っていた。酔っ払ってるからだ、きっと。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

手作りが食べられない男の子の話

こじらせた処女
BL
昔料理に媚薬を仕込まれ犯された経験から、コンビニ弁当などの封のしてあるご飯しか食べられなくなった高校生の話

たとえ性別が変わっても

てと
BL
ある日。親友の性別が変わって──。 ※TS要素を含むBL作品です。

年上の許嫁女教師は大胆な帰国子女

naomikoryo
恋愛
里崎亨は、高校生活を送る普通の男子高校生。 彼の幼馴染であり、3歳年上の美咲は、アメリカに移住してから数年後に帰国した。 彼女は英語、数学、体育の教員免許を持つ優秀な帰国子女であり、学校で臨時の英語教師として教壇に立つことになった。 久しぶりの再会に胸を躍らせる亨だが、彼女の存在は彼にとって特別なものであり、心の奥に秘めた思いが浮かび上がる。 美咲は大胆でサバサバした性格であり、教室内での彼女の存在感は抜群。亨は、彼女の教え方や魅力に惹かれ、授業中も彼女のことばかり考えてしまう。しかし、彼女が何気なく送るウインクや、思わず触れた手が心に残り、彼の心は高鳴るばかりだ。 ある日、美咲が亨の家庭を訪れ、二人は楽しい時間を過ごす。 その中で、彼女の過去の経験やアメリカでの生活について話が弾む。 気づけば、彼女との距離が徐々に縮まり、思いがけないキスを交わすことに。 亨は彼女に対する想いが募り、年上の彼女が実は自分の許嫁であることに気づく。 二人の関係は、幼馴染から年上の許嫁へと発展し、甘く、時には困難な恋愛模様が描かれていく。 果たして、亨は美咲との関係を深められるのか。 彼女の大胆さと優しさに触れながら、彼自身も成長していく姿が描かれる青春ラブストーリー。

処理中です...