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二年間の関係 side 樺島成彰
1年と4ヶ月前(2)
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俺の水槽に投げ入れられた絵の具は、どこからやってきたんだろう。
「おやすみなさい、成彰さん」
「ああ。樹君、おやすみ」
樹ははにかむように微笑み、ドアが開いて閉じた。小さくため息を付いた。わかっている。どこまでが現実で、どこからが俺の認識なのかは。
部屋に戻って香に火を付ける。香りは心を落ち着ける。布団に潜って目を瞑る。
「成彰さん、か」
おかしいな。何故そんな妄想が交じるんだろう。ひょっとして俺は樹にそう呼ばれたいんだろうか。いや、多分あの海で名前を呼ばれたのが妙に印象に残っているだけだ。あの笑顔も車で見た表情だ。
大きめの枕を抱きしめる。
もし樹が恋人だったら?
そんなことを思うのも、恋人のふりをすることにしたからだ。その事実に頭が妙に引きずられている。恋人のふりなんて、そんなことをしたことはないから。
でも、恋人のふり?
一緒に映画に行ったり動物園に行ったり。いや、でもそうするというふりだけで、実際に行ったりはしない。行く理由もない。俺はだいたい日中は家にこもっているし。
そうして毎朝朝夕の食事を作り、隣り合ってテレビを見た。外形的にはたしかに、恋人のようだな。でもそれは模型のようなものだ。俺と樹で作った恋人の模型。
ふり。ふりとはなんだろう。よくわからない。ふりと、ふりじゃないのは何が違う? 俺はこの穏やかな生活で満足だ。
「本当に?」
「え?」
思わず隣でテレビを見る樹を振り向けば、俺の方を向く蜃気楼に現実の樹の姿が重なる。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。そろそろ寝ようかと思って」
樹は壁の時計を見上げたけれど、蜃気楼は俺を見つめたままだった。
「そうですね。少し早いけれど寝ましょうか」
「ああ」
「ルイボスティーでもいれましょう。よく寝れるから」
そう言うと、樹は立ち上がる。
「俺、疲れてそうに見える?」
「そうでもないですよ。俺も飲みたかったし」
赤褐色の液体を含むと、穏やかな甘さが口中に広がる。なんだか少し、心がざわついている。
「多分、俺は今スランプなんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。少しあたりが悪くなるかもしれない。でも作れる限りご飯はちゃんと作るから」
樹は僅かに目を細める。
「大変なら飯はどっかで食べてきますよ。もともとそうしてたし」
「いや、料理は好きなんだ。やってたほうが落ち着くから。だから作れる間は作りたい」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
大丈夫だ。まだ、見える。
「うん。じゃあ寝ようか」
カップをシンクに片付ける。これは明日の朝洗えばいい。何となく、ぐったりと疲れていた。きっといろいろ考えすぎたんだと思う。恋人とか、恋人じゃないとか。昔から、一度気になればいつまでも気にしやすいたちだ。
「じゃあ、お休みなさい、成彰さん」
「……樹君もおやすみ」
樹はドアを開けて、閉める前に蜃気楼だけが僅かに振り返った。
「どうかしてる」
翌日、新しくキャンバスを張る。
灰色の絵の具と赤、それから昏い青と緑をパレットに出す。それをくるくると混ぜてキャンバスに置く。いつもより強い色合いだなと思う。
あれは何色だったんだろう。俺は何を描きたい?
いまいちその姿がうかばない。ここのところ俺が描きたいと思っていたのは樹と行った海だった。あの時から、何かが少し変わった気がする。
あの日の空はよく晴れていた。紺色の海に時折白く泡立つ波、淡い空色に白い雲。でもあのときの世界は、樹といた水槽の外の世界は、一体何色だったろう。
描き始める時、時々こうなる。多分これがスランプというものだ。どう描いていいのかわからない。それがどんなものかわからない。そういう時は、俺の心のなかでもよくわかってないときだ。だから試しに何枚も描いてみる、それっぽいものを。そうしているうちに、それがなんだかわかってくる。どんな色をしていて、どんな形なのか。
その過程で長く留まり筆が進まないことが、スランプだと思う。
樹と行った海。
そういえばあの画商に会ったな。少し嫌な気分になり、絵に大きくバツを描く。描いてる時は、描いてるもの意外を思い浮かべちゃだめなんだ。変な色が混ざって取り返しがつかなくなる。
立ち上がり、大きく伸びをする。今日はここまでだ。あまり進まなかったけど。絵の具を片付ければまだ午後の早い時間だった。晩御飯の食材の発注は既に済ませたけれど、手持ち無沙汰だ。テレビでも見ようかと思ってソファに座りボタンを押せば、バラエティ番組が始まった。樹がいないソファはどこか広く感じる。だからごろりと寝転がってみると天井が見えた。
目を閉じる。波の音が聞こえる。あの海。サーフィン。少し飲んだ水の塩辛さ。
預けてたボードを引き出したのはいつぶりだろう。前の記憶を古ぼけた倉庫から引きずり出す。しばらく前の同居人がサーフィンが趣味で、俺が樹を誘ったみたいに誘われた。最初の日はレンタルして、気に入ったから自分のを買った。今使っている俺のボードには俺が描いた絵が引き伸ばされてプリントされている。引き伸ばされすぎて断片になりすぎたそれは、もはや俺にもなんだかわからない。同居人がプレゼントしてくれたものだ。樹が使ったのは最初に俺が買った市販のボード。表面が大きな三日月型の一部の形に区切られて、その中が水色と白のグラデのストライプになっている。なんとなく、フィーリングで買った。随分前だからなんでそれを選んだのかは覚えていないけれど。
樹。
俺が描こうとしている海の絵には樹は含まれているんだろうか。
「わかってますよ。彼氏さんができたんですね」
不意に嫌な言葉が聞こえる。きっとあいつのせいだ。近々個展がある。その立ち上げか打ち上げのパーティー出会うんだろうな。興味津々な顔してたから。
……面倒くさい。
俺はその時、樹が恋人だというんだろうか。一緒に住んでいると。本当は恋人ではないけれど、その外形はとても恋人的だと思う。
「おやすみなさい、成彰さん」
「ああ。樹君、おやすみ」
樹ははにかむように微笑み、ドアが開いて閉じた。小さくため息を付いた。わかっている。どこまでが現実で、どこからが俺の認識なのかは。
部屋に戻って香に火を付ける。香りは心を落ち着ける。布団に潜って目を瞑る。
「成彰さん、か」
おかしいな。何故そんな妄想が交じるんだろう。ひょっとして俺は樹にそう呼ばれたいんだろうか。いや、多分あの海で名前を呼ばれたのが妙に印象に残っているだけだ。あの笑顔も車で見た表情だ。
大きめの枕を抱きしめる。
もし樹が恋人だったら?
そんなことを思うのも、恋人のふりをすることにしたからだ。その事実に頭が妙に引きずられている。恋人のふりなんて、そんなことをしたことはないから。
でも、恋人のふり?
一緒に映画に行ったり動物園に行ったり。いや、でもそうするというふりだけで、実際に行ったりはしない。行く理由もない。俺はだいたい日中は家にこもっているし。
そうして毎朝朝夕の食事を作り、隣り合ってテレビを見た。外形的にはたしかに、恋人のようだな。でもそれは模型のようなものだ。俺と樹で作った恋人の模型。
ふり。ふりとはなんだろう。よくわからない。ふりと、ふりじゃないのは何が違う? 俺はこの穏やかな生活で満足だ。
「本当に?」
「え?」
思わず隣でテレビを見る樹を振り向けば、俺の方を向く蜃気楼に現実の樹の姿が重なる。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。そろそろ寝ようかと思って」
樹は壁の時計を見上げたけれど、蜃気楼は俺を見つめたままだった。
「そうですね。少し早いけれど寝ましょうか」
「ああ」
「ルイボスティーでもいれましょう。よく寝れるから」
そう言うと、樹は立ち上がる。
「俺、疲れてそうに見える?」
「そうでもないですよ。俺も飲みたかったし」
赤褐色の液体を含むと、穏やかな甘さが口中に広がる。なんだか少し、心がざわついている。
「多分、俺は今スランプなんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。少しあたりが悪くなるかもしれない。でも作れる限りご飯はちゃんと作るから」
樹は僅かに目を細める。
「大変なら飯はどっかで食べてきますよ。もともとそうしてたし」
「いや、料理は好きなんだ。やってたほうが落ち着くから。だから作れる間は作りたい」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
大丈夫だ。まだ、見える。
「うん。じゃあ寝ようか」
カップをシンクに片付ける。これは明日の朝洗えばいい。何となく、ぐったりと疲れていた。きっといろいろ考えすぎたんだと思う。恋人とか、恋人じゃないとか。昔から、一度気になればいつまでも気にしやすいたちだ。
「じゃあ、お休みなさい、成彰さん」
「……樹君もおやすみ」
樹はドアを開けて、閉める前に蜃気楼だけが僅かに振り返った。
「どうかしてる」
翌日、新しくキャンバスを張る。
灰色の絵の具と赤、それから昏い青と緑をパレットに出す。それをくるくると混ぜてキャンバスに置く。いつもより強い色合いだなと思う。
あれは何色だったんだろう。俺は何を描きたい?
いまいちその姿がうかばない。ここのところ俺が描きたいと思っていたのは樹と行った海だった。あの時から、何かが少し変わった気がする。
あの日の空はよく晴れていた。紺色の海に時折白く泡立つ波、淡い空色に白い雲。でもあのときの世界は、樹といた水槽の外の世界は、一体何色だったろう。
描き始める時、時々こうなる。多分これがスランプというものだ。どう描いていいのかわからない。それがどんなものかわからない。そういう時は、俺の心のなかでもよくわかってないときだ。だから試しに何枚も描いてみる、それっぽいものを。そうしているうちに、それがなんだかわかってくる。どんな色をしていて、どんな形なのか。
その過程で長く留まり筆が進まないことが、スランプだと思う。
樹と行った海。
そういえばあの画商に会ったな。少し嫌な気分になり、絵に大きくバツを描く。描いてる時は、描いてるもの意外を思い浮かべちゃだめなんだ。変な色が混ざって取り返しがつかなくなる。
立ち上がり、大きく伸びをする。今日はここまでだ。あまり進まなかったけど。絵の具を片付ければまだ午後の早い時間だった。晩御飯の食材の発注は既に済ませたけれど、手持ち無沙汰だ。テレビでも見ようかと思ってソファに座りボタンを押せば、バラエティ番組が始まった。樹がいないソファはどこか広く感じる。だからごろりと寝転がってみると天井が見えた。
目を閉じる。波の音が聞こえる。あの海。サーフィン。少し飲んだ水の塩辛さ。
預けてたボードを引き出したのはいつぶりだろう。前の記憶を古ぼけた倉庫から引きずり出す。しばらく前の同居人がサーフィンが趣味で、俺が樹を誘ったみたいに誘われた。最初の日はレンタルして、気に入ったから自分のを買った。今使っている俺のボードには俺が描いた絵が引き伸ばされてプリントされている。引き伸ばされすぎて断片になりすぎたそれは、もはや俺にもなんだかわからない。同居人がプレゼントしてくれたものだ。樹が使ったのは最初に俺が買った市販のボード。表面が大きな三日月型の一部の形に区切られて、その中が水色と白のグラデのストライプになっている。なんとなく、フィーリングで買った。随分前だからなんでそれを選んだのかは覚えていないけれど。
樹。
俺が描こうとしている海の絵には樹は含まれているんだろうか。
「わかってますよ。彼氏さんができたんですね」
不意に嫌な言葉が聞こえる。きっとあいつのせいだ。近々個展がある。その立ち上げか打ち上げのパーティー出会うんだろうな。興味津々な顔してたから。
……面倒くさい。
俺はその時、樹が恋人だというんだろうか。一緒に住んでいると。本当は恋人ではないけれど、その外形はとても恋人的だと思う。
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