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二年間の関係 side 樺島成彰
1年と5ヶ月前(1)
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「今日はサーフィン行こうと思うんだけど、樹君も一緒に行く?」
「今日? そうですね……」
パンケーキを食べながら、なんとなく声を掛けた。
今日は日曜だ。
いつもなら樹は一人で取材もかねて、色々なところに出かけている。俺と樹は朝と夜は時間をともにするけれど、日中に一緒にいることはほとんど無い。だから正直、全く期待していなかった。海開きされたばかりだが、サーフィン自体に目新しさはなにもない。ただ、人の多い海に行くだけだ。
俺は丁度絵が完成して、久しぶりに気晴らしも兼ねて海に行こうと思っていただけだ。ずっと座って描いていると、体がなまる。海は好きだ。運動にもちょうどいいし、ざぶんと潜れば水しか見えなくなる。きっと俺の水槽の水もぐるりと撹拌されて、少しだけ澱が減る、気がするから。
「いいですよ。でもサーフボード持ってません」
だからきっと、断られると思っていた。
「ボードなら予備があるから平気……。水着は……なかったら海の家とかで買えるけど」
「そうします」
まさかOKされるとは思っていなかった。
なんだか不思議な気分だ。日曜日に樹と出かけるのは。
電車で行く予定だったけど、樹が運転するというので車に乗り込む。この車は3人前の同居人が海外に行くからと置いていったもので、名義は変えたもののほとんど使っていない。俺はそもそも免許を持っていない。時折うまく現実を認識できない俺が車を運転なんてできるはずがない。だからたまに車屋が来て車検をしていくだけの車。
ハンドルを握る樹の髪を開けた窓から吹き抜けていく風が柔らかく撫でている。
「ちょっと意外だった。樹君てサーフィンするの?」
「前の彼女が好きだったから。少し付き合っただけというレベルです。上手くはありません」
前の、彼女。
改めて樹を眺める。ファイバーな繊維のようにパラパラに風になびく真っすぐでつややかな髪。長いまつげに大きめの瞳。少し大ぶりの唇が目立つ。これだけ綺麗だと、当然彼女もいるか。前の、ということは今はいないのかな。
半年ほど一緒に住んでいるけれど、今は誰かがいる素振りはない。それほど毎朝夕を俺と過ごしている。少なくとも外泊したことはない。
ぼんやりと樹を眺めていたかったけれど、俺の座る助手席のほうが海側だ。樹の方ばかり見ているのも不自然だろう。仕方なく海の方に目をやれば、紺色の水面にキラキラと光りの破片が舞い散っている。ここからは海の中までは見えない。俺の目に届く光は屈折しているから。
遠目に見た海岸は人でごった返していて、少し後悔した。
そういえば例年より少し暑いと天気予報で言っていた。海開き直後だから人も少ないと思ったのに。
レンタルスペース近くの駐車場に停車して預けてあったボードを2枚を引き出し、海の家で水着を買う。樹が選んだのは予想外にも紺地にヤシの木が描かれた南国風のものだった。でも、やっぱり痩せっぽちだ。
「変ですか?」
「そんなことはないよ。ちょっと意外性があっただけ。行こう」
そう呟いて、無意識に樹の手を取った。樹はびくりといつにない反応をみせた。慌てて手を離す。
「ごめん、つい」
「いえ、少しびっくりしただけです」
「ほんと、すまなかった。つい海のノリでさ」
肩をすくめれば、少しだけ警戒心を帯びた樹の瞳がようやくいつもと同じものに戻る。普通、手は繋がないよな。なんでまた手を繋いんだんだろうと自分の心を思い返せば、人が多くて樹が迷子になるのがいやだったから、だろうか。
「大丈夫ですよ、行きましょう」
意を決したように樹の側から伸ばされた手が俺の手を掴む。ひやりと冷たかった。戸惑いながら海に入れば海はもっと冷たい。両手は自然と離れてサーフボードの両脇に向かう。だから手を繋いでいたのも大した時間じゃない。
ちゃぷちゃぷと波間を沖まで漕ぎながら振り返れば、樹はちゃんとついてきていた。なんだか水槽がくっついたみたいで不思議な気分だ。
ちょうどよい沖まで至り少し荒い波間に滑り出して立ち上がれば、ボードは波を切るように揺れる。気持ちいい風が吹いている。太陽の光がじりじりと背中を焦がす。ここには海しかなくて、細かいことを考える必要もない。とても自由だ。
でも樹がいるんだっけ。そう思って振り返れば、樹はしぶきを上げてボードから転げ落ちるところだった。
慌てて戻れば、樹はぷかりと頭を出してボードに捕まった。
「大丈夫?」
「ええ。俺がいつも行ってたところより波が少し荒くて」
荒いかな。俺が来るのはだいたいこの神津海岸だ。家から一番近い。他のところにはあまり行ったことがなかった。
「前の彼女はSUPにはまってたから」
「ああ、なるほど」
俺はやったことはないけれど、確か波が穏やかなところでボードの上でヨガをするんだったと思う。最近流行っている。ヨガならむしろ、浅瀬の方だろう。SUPをする樹を思い浮かべれば、なんとなく似合っているような気はした。
「浅瀬に戻る?」
「……いえ。あの辺はちょっと」
樹の視線を追えば、遠くでたくさんの人間が海水浴をしていた。確かにあそこでは晒し者感がある。
「すいません。上手く出来ないのに迷惑ですよね」
「いや、そんなことないよ。一人で滑ってるのも寂しいし。そうだな、俺が教えようか?」
「……お願いしていいですか?」
「うん。うまくいくかはわからないけど」
とりあえず試してみた。テイクオフはできるようだ。SUPでもボードの上に立ったり座ったりするらしいし。だからきっと、体幹はある。
「波に乗るタイミングがつかめないんじゃないかな。波の斜面を滑り降りる時に立つんだよ。見てて」
波がその頂点を過ぎて海面に向けてふわりと落ちるその重力に乗る。少しだけ空を飛ぶ気分になる。足の指でしっかりとボードを踏みしめてバランスを取る。タイミングさえわかれば、バランスは取れるだろう。そう思ってみていれば、最初の2,3回は失敗したけれど、その次からはコツを掴んだようだ。
ぱしゃりと海に潜って顔を上げた樹は笑顔だった。なんだか変だな。
「上手くいくと楽しいですね。結構勢いがあって」
「それはよかった。上達するのが早いね」
「そうかな」
キラキラと太陽が樹の黒髪に反射している。なんだか綺麗だ。そうして結構な時間を樹が滑るのを見ていた。
「先生は滑らないんですか?」
「滑りたいのは山々なんだけどさ。俺はおっさんだから体力があんまり保たないんだよ。はしゃぐと筋肉痛が辛い。普段運動しないから」
「あ……俺も怖いです」
そういえば樹も運動しているようには見えない。そう思って改めて眺めた肩周りはやはり華奢だった。
「ジムとか行ったほうがいいのかなあ。昔より体が重い気がする」
「先生は俺より筋肉あるじゃないですか」
「まあ、樹君に比べればそうかもだけど、40超えると腹回りが気になってくるんだよ」
けど、そうは言ったもののジムに行く気はなかった。俺は何故だか昔から筋肉がつきやすいから、そこまでの必要性はまだ感じていない。やるとしたらランニングだが、それにしてもあまり家の外に出たくはない。面倒な人間関係は増えないに越したことはない。
「とりあえず休憩しようか」
浜辺に向かってボードに乗って泳ぎながら、明日のことを考えて今日はこの程度にしようかと話す。樹は明日は仕事だから。そうして更衣室で着替えてボードを預けて外に出たときに現れたのは、あまり会いたくない人間だった。にこにこと愛想よく近づく男に気づかないふりをしようと思ったときには話しかけられていた。
「今日? そうですね……」
パンケーキを食べながら、なんとなく声を掛けた。
今日は日曜だ。
いつもなら樹は一人で取材もかねて、色々なところに出かけている。俺と樹は朝と夜は時間をともにするけれど、日中に一緒にいることはほとんど無い。だから正直、全く期待していなかった。海開きされたばかりだが、サーフィン自体に目新しさはなにもない。ただ、人の多い海に行くだけだ。
俺は丁度絵が完成して、久しぶりに気晴らしも兼ねて海に行こうと思っていただけだ。ずっと座って描いていると、体がなまる。海は好きだ。運動にもちょうどいいし、ざぶんと潜れば水しか見えなくなる。きっと俺の水槽の水もぐるりと撹拌されて、少しだけ澱が減る、気がするから。
「いいですよ。でもサーフボード持ってません」
だからきっと、断られると思っていた。
「ボードなら予備があるから平気……。水着は……なかったら海の家とかで買えるけど」
「そうします」
まさかOKされるとは思っていなかった。
なんだか不思議な気分だ。日曜日に樹と出かけるのは。
電車で行く予定だったけど、樹が運転するというので車に乗り込む。この車は3人前の同居人が海外に行くからと置いていったもので、名義は変えたもののほとんど使っていない。俺はそもそも免許を持っていない。時折うまく現実を認識できない俺が車を運転なんてできるはずがない。だからたまに車屋が来て車検をしていくだけの車。
ハンドルを握る樹の髪を開けた窓から吹き抜けていく風が柔らかく撫でている。
「ちょっと意外だった。樹君てサーフィンするの?」
「前の彼女が好きだったから。少し付き合っただけというレベルです。上手くはありません」
前の、彼女。
改めて樹を眺める。ファイバーな繊維のようにパラパラに風になびく真っすぐでつややかな髪。長いまつげに大きめの瞳。少し大ぶりの唇が目立つ。これだけ綺麗だと、当然彼女もいるか。前の、ということは今はいないのかな。
半年ほど一緒に住んでいるけれど、今は誰かがいる素振りはない。それほど毎朝夕を俺と過ごしている。少なくとも外泊したことはない。
ぼんやりと樹を眺めていたかったけれど、俺の座る助手席のほうが海側だ。樹の方ばかり見ているのも不自然だろう。仕方なく海の方に目をやれば、紺色の水面にキラキラと光りの破片が舞い散っている。ここからは海の中までは見えない。俺の目に届く光は屈折しているから。
遠目に見た海岸は人でごった返していて、少し後悔した。
そういえば例年より少し暑いと天気予報で言っていた。海開き直後だから人も少ないと思ったのに。
レンタルスペース近くの駐車場に停車して預けてあったボードを2枚を引き出し、海の家で水着を買う。樹が選んだのは予想外にも紺地にヤシの木が描かれた南国風のものだった。でも、やっぱり痩せっぽちだ。
「変ですか?」
「そんなことはないよ。ちょっと意外性があっただけ。行こう」
そう呟いて、無意識に樹の手を取った。樹はびくりといつにない反応をみせた。慌てて手を離す。
「ごめん、つい」
「いえ、少しびっくりしただけです」
「ほんと、すまなかった。つい海のノリでさ」
肩をすくめれば、少しだけ警戒心を帯びた樹の瞳がようやくいつもと同じものに戻る。普通、手は繋がないよな。なんでまた手を繋いんだんだろうと自分の心を思い返せば、人が多くて樹が迷子になるのがいやだったから、だろうか。
「大丈夫ですよ、行きましょう」
意を決したように樹の側から伸ばされた手が俺の手を掴む。ひやりと冷たかった。戸惑いながら海に入れば海はもっと冷たい。両手は自然と離れてサーフボードの両脇に向かう。だから手を繋いでいたのも大した時間じゃない。
ちゃぷちゃぷと波間を沖まで漕ぎながら振り返れば、樹はちゃんとついてきていた。なんだか水槽がくっついたみたいで不思議な気分だ。
ちょうどよい沖まで至り少し荒い波間に滑り出して立ち上がれば、ボードは波を切るように揺れる。気持ちいい風が吹いている。太陽の光がじりじりと背中を焦がす。ここには海しかなくて、細かいことを考える必要もない。とても自由だ。
でも樹がいるんだっけ。そう思って振り返れば、樹はしぶきを上げてボードから転げ落ちるところだった。
慌てて戻れば、樹はぷかりと頭を出してボードに捕まった。
「大丈夫?」
「ええ。俺がいつも行ってたところより波が少し荒くて」
荒いかな。俺が来るのはだいたいこの神津海岸だ。家から一番近い。他のところにはあまり行ったことがなかった。
「前の彼女はSUPにはまってたから」
「ああ、なるほど」
俺はやったことはないけれど、確か波が穏やかなところでボードの上でヨガをするんだったと思う。最近流行っている。ヨガならむしろ、浅瀬の方だろう。SUPをする樹を思い浮かべれば、なんとなく似合っているような気はした。
「浅瀬に戻る?」
「……いえ。あの辺はちょっと」
樹の視線を追えば、遠くでたくさんの人間が海水浴をしていた。確かにあそこでは晒し者感がある。
「すいません。上手く出来ないのに迷惑ですよね」
「いや、そんなことないよ。一人で滑ってるのも寂しいし。そうだな、俺が教えようか?」
「……お願いしていいですか?」
「うん。うまくいくかはわからないけど」
とりあえず試してみた。テイクオフはできるようだ。SUPでもボードの上に立ったり座ったりするらしいし。だからきっと、体幹はある。
「波に乗るタイミングがつかめないんじゃないかな。波の斜面を滑り降りる時に立つんだよ。見てて」
波がその頂点を過ぎて海面に向けてふわりと落ちるその重力に乗る。少しだけ空を飛ぶ気分になる。足の指でしっかりとボードを踏みしめてバランスを取る。タイミングさえわかれば、バランスは取れるだろう。そう思ってみていれば、最初の2,3回は失敗したけれど、その次からはコツを掴んだようだ。
ぱしゃりと海に潜って顔を上げた樹は笑顔だった。なんだか変だな。
「上手くいくと楽しいですね。結構勢いがあって」
「それはよかった。上達するのが早いね」
「そうかな」
キラキラと太陽が樹の黒髪に反射している。なんだか綺麗だ。そうして結構な時間を樹が滑るのを見ていた。
「先生は滑らないんですか?」
「滑りたいのは山々なんだけどさ。俺はおっさんだから体力があんまり保たないんだよ。はしゃぐと筋肉痛が辛い。普段運動しないから」
「あ……俺も怖いです」
そういえば樹も運動しているようには見えない。そう思って改めて眺めた肩周りはやはり華奢だった。
「ジムとか行ったほうがいいのかなあ。昔より体が重い気がする」
「先生は俺より筋肉あるじゃないですか」
「まあ、樹君に比べればそうかもだけど、40超えると腹回りが気になってくるんだよ」
けど、そうは言ったもののジムに行く気はなかった。俺は何故だか昔から筋肉がつきやすいから、そこまでの必要性はまだ感じていない。やるとしたらランニングだが、それにしてもあまり家の外に出たくはない。面倒な人間関係は増えないに越したことはない。
「とりあえず休憩しようか」
浜辺に向かってボードに乗って泳ぎながら、明日のことを考えて今日はこの程度にしようかと話す。樹は明日は仕事だから。そうして更衣室で着替えてボードを預けて外に出たときに現れたのは、あまり会いたくない人間だった。にこにこと愛想よく近づく男に気づかないふりをしようと思ったときには話しかけられていた。
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