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十日間の関係 side 浅井樹

6日目(1)

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 朝、クィは淡く人が描かれたキャンバスをイーゼルに立てかけた。その後姿はどう見ても樺島だった。
 朝起きた時に感じた温度も額に触れた唇の柔らかさも樺島のものだ。
 クィの言う通りであれば、樺島はあの海で死んだ。そして今、生き返っている途中なのだろうか。そんな馬鹿なことと理性は違和感を感じるものの、俺の感情は半ばそれを受け入れていたのかもしれない。
「浅井さん、何かあった?」
「え?」
 同僚の声に顔を上げれば、随分手が止まっていたことに気がついた。
「集中力なさげだから」
「ああ。樺島先生がいまスランプなんだよ」
「……そうなんだ。大変だね。やっぱスランプの画家っていつもと違うの?」
 いつもと違うかという意味ではだいぶん違う。けれどもそれは、同僚の言ういつもの、とはまた意味が異なるだろう。
「あのさ、前に樺島先生が自殺未遂しようとしたって聞いたんだけど」
「えっ、そんな深刻?」
 同僚の眉が心配そうに下がる。
「……そうなったら困るなって思ったから。ほら、スランプの治し方なんてわかんないじゃないか」
「まあな……。そうだなぁ。高浜たかはま先生はスランプのとき自棄食いするって聞いたけど、あんまり参考にならないよな」 
 同僚は首を傾げながらそう呟く。
 ケーキをたくさん皿に乗せた女性の姿が思い浮かんだ。確かに高浜先生はそんなタイプに思える。そもそも一口に画家と言っても中身は随分違うだろう。ただ、絵を描くという行為が共通するだけで。
「樺島先生はそんなタイプじゃなさそう」
「そうだなぁ。じゃ、パーティー行くとか? パーッと騒ぐ」
「あの人、別にパーティーが好きなわけでもないんだよね」
「え? そうなんだ」
 同僚は意外そうに目を丸くするが、樺島の印象というものは一般的にはそういうものだと思い返す。あの人は騒ぎたい時にパーティーに行っていただけだ。結局騒いで気を紛らわせるだけだ。
 思えば画家というのは孤独な作業なのだろう。多少の外での仕事の機会以外はずっと家でキャンバスに向かっている。だからたまに人に会いたくなったら、パーティに言って気を紛らわす。改めて考えれば、樺島はその明るく派手な様子と違って実は孤独な人間だったのかもしれない。
 そういえば俺が同居するようになってから、樺島はほとんどパーティーに参加していないことに気づく。夜はたいてい家にいた。せいぜい個展の最初と終わり、何かの式典のときくらいだ。
「樺島先生ってどういう人なんだろうな」
「それ、お前が言う? 一緒に住んでるんだろ?」
「それはそうだけど、あんまり話はしないんだよ」
「変なの」
 変だろうか。一緒にテレビを見て、たまに面白かったとかつまらないとか話す。食事をして、美味しかったと話す。思い返してもそのくらいだ。
 ふと、樺島のフォルダを探って過去の記事を開いた。2年前に俺が取材したものだ。

ー樺島先生はいつから画家を志されたんでしょう。
ー画家になりたいと明確に思ったことはないんです。他に何もできなかっただけで。
 その時、樺島は営業用の笑顔で朗らかに微笑んでいた。その時俺は、この人ならモデルでもなんでもできそうだなと思った。
「多分、画家の道がなければ野垂れ死んでいたでしょう」
 だからそのその明るい表情のまま放たれたどこか後ろ向きな言葉を奇妙に感じ、そしてそれは紙面からカットされた。
ー気づけば画家になっていた?
ーいえ、そんなかっこいいものじゃないですよ。描きたいものが描けるまで何も出来ないんです。運良く師匠に拾ってもらって画家としてのノウハウを教えてもらって今なんとか。
ー樺島先生のモチーフはパステル色を基調とした印象画が多いですよね。共通するテーマはあるのでしょうか。
ー印象……。これ、説明が難しいんですが、俺は見たまま、というか感じたままに描いているつもりなんです。
 それなら樺島の世界はさぞ幻想的で美しいのだろうと少しだけ羨ましく思った。俺には少し遠い世界だ。
 その時、樺島はセガンティーニという画家を引き合いに出した。もともとイタリアに生まれたが無国籍となり、様々な理由でスイスの高地に住むようになり、そこでアルプスを描いた。その絵はアルプスの太陽の強さを反映して、平地では考えられないくらい明るい。
「セガンティーニは見たままを描いたんだと思うんです。セガンティーニにとってアルプスの山々は只管明るかった。世界は明るく美しい。もちろん美しいだけじゃなくて厳しさもある。それが絵に現れている。俺も俺の感じる世界を絵に描いているだけなんです。俺にとって世界は美しく見えるから」
 それは雑誌ではカットされた部分だ。ライトな文芸誌にとって、絵の解釈というモチーフは少し難しいと考えられた。だから結局紙面に踊ったのは、樺島が好きな場所やライフスタイルなんかが主だった。そしてそんな話題は樺島の外見にとても合っていたし、完成稿の確認の時も、何も言われなかった。
ー樺島先生の次回作はどういったものを予定されていますか?
 その時、樺島は少し困った顔をした。
ー先ほどお話しした通り、描きたいものを描いています。次に描くものはその時にならないとわかりません。
ーありがとうございます。先生の次回作をお待ちしております。
 描きたいものが描けるまで何も出来ない。描けるけれど描けない。あのオレンジ色に塗られたキャンバスの淡いピンク色の人物。幸せそうなカラーリング。描いちゃだめだったもの。
 そうして今樺島が描いている絵。
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