叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼(旧Ver

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第4章 芸術家変死事件

絵に落ちる 凶器

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 もうすぐ午後2時。昼下がり。
 駅に向かう坂を下っていると少し日が陰って肌寒くなってきた。両手で反対側の二の腕をこする。少しだけ体積が小さくなって、少しだけ暖かくなった。
 辻切ツインタワーの壁面は全てガラスに覆われて、そこに雲がぷかぷかと浮かぶ姿が反射している。ガラス張りの窓は夏は熱い熱をも反射するように見えるけど、寒いときはなんだかその冷たさがガラスの表面に反射しているみたいで、なんだか少しだけ薄寒い。
 寒いときは湯豆腐とか食べたい。鍋もいいな。
「公理さん、ぼーっとしてないで行くぞ、ほら」
 現実逃避してたのに。
 俺もできることしたい。そう思ったけど、それはあくまで『扉』と『夢』の話だ。
 柚に追い出されたって聞いた後じゃ、なんだか声がかけづらい。ハルは俺が後ろを向いてたから気が付かれてないはずって言ったけどさ。こっそり侵入してたの、バレてないかな。女の子の一人暮らしの家に男2人で行ったとか、通報ものじゃん。呪いを解くためで他意は全然ないんだけれど。気まずいな。

 気づけば無意識にまぶたをこすっていた。最近ちょっと目に負担かかってるのかもしれない。心理的な意味で。そんなことを考えているうちに、いつのまにかカルセアメンタの前についた。ここまで来たなら仕方がない。
「おはよう~」
「公理さん。だからもう昼過ぎてますってば」
「まあ業界的に~」
「何の業界ですか。あ、好きそうな新作入ってますよ」
 靴かぁ。ショッピングも気分転換に悪くないんだけど。
「今日は俺じゃなくて甥っ子の靴買いに来たんだ」
「甥御さんですか?」
 ハルを押し出す。そして柚の様子を伺う。よく考えたら柚はお店出てるときは営業スタイルだ。違いってわかるものかな。
「そうそうこの子」
「こんにちは。この間おじさんが履いてた靴がかっこよくてさ」
 おじさんと言われると妙に引っかかるな。柚の表情には変化はなさそうだ。
「ありがとうございます! でもここの靴少しお高いんですけど大丈夫ですか?」
 少し心配げな柚の視線に、ハルはそれはもう爽やかに笑うんだ。
「今日は公理さんのおごりだろ?」
 一足5万くらいはするんだけどさ、別にそのくらい構わない。そのくらいなら。あのスプラッタハウスを見るのと比べれば全然まし。ハルの営業スマイルが営業過ぎて引く。そう思っていたら肘でつつかれた。
「いいよ。一番高いやつじゃなきゃ」
 でもそんなことより、俺は気がついた。柚の視線は扉に向いている。ああ、見えるんだな。今は割れているし閉じているから中は見えないだろうけど。
 これで中身が見えたらアレだな。自分の家をいつも見られてるってことがバレてしまう。落ち着かないし嫌だよな。割れててよかったのかも。ハルが意識しないと家の中は見えないんだけど。
 ハルはいくつか試し履きして、柚はハルにサイズの合う靴を探しに行った。
「公理さん、あの人は明らかに扉を見てたよな。家の中を見せるべきだと思う?」
「やめといたほうが、いいんじゃないかな。なんとなく」
「そうだな……今はやめておこう。不確定事項が多い」
 今は? 今は、か。少しだけ気が重い。
「気になってることがある。一昨日北辻の家を見に行った帰りに目が合った。だから俺の顔自体は知られている可能性がある。一瞬じゃなくて視線をしばらく感じた。その時の俺と昨夜の俺が同じ人物と認識されているのかどうか。それを知りたかった」
「ちょっとわからないな」
「そうだな。まあ、普通に接客されてるけど、わかったとしてもわざわざ指摘なんてしないだろうし」
 視線以外は通常営業だ。
 その後も柚はチラチラ扉を見てたけど、やっぱり指摘はなかった。逆に言えば扉ばかり見ていて、ハルを見てなさそうだった。どうかな、ハルのことは認識していないのかな。ハルはかなりカッコいいほうだと思う。印象には残りやすい? 認識してれば顔を見ていてもおかしくない気はするけれど。扉が気になってそれどころじゃないとか?
 ハルに買ってあげた靴、結構かっこいいな。俺も欲しい。今度色違い買おうか。

 家に戻ってハルと手を組む。ハルの手はちょっとひんやり冷たい。
 嫌だな、見たくない。でも見ないと。今なら柚は家にいないから。
 越谷泰斗の時ほど酷くなければいいんだけどな。うん、俺は俺のできることをすることをする。そう決めた。だから一緒に生き残ろう。ハルが死ぬなんて嫌だ。
 ゆっくりハルが目を閉じる。長い睫毛が目の下の皮膚に触れる。それを合図にハルの背後の扉は薄い油膜を張ったように一瞬震え、そして細かい振動が収まるにつれてゆっくりと澄み渡っていった。少しだけ残っていたヒビも油膜に溶けていく。

 柚の家。
 覚悟はしてた。けれども普通のリビングだった。惨状は、ない。
 はぁ、よかった。ほんとに。見回すと、柚の家の家具とは別に、家具が見える。このバイアスの家具の幽霊かな。ということは人が住んでいる。喜友名晋司が。
「ハル、普通だ。幽霊はうろうろしてるけど、普通のリビング」
「そうか、よかった。なら不審死事件のバイアスは消滅したんだろう」
 よかった。本当に。これでまた1つ、扉の解除と柚に近づく。
「次の呪いは恐らく喜友名晋司だ。最初に2階に行く」
 階段を上る。
 違和感がある。
「あれ?」
「どうした?」
「落書き? 廊下に線が描かれてる」
「線? 絵じゃなくて?」
「絵じゃないな。まっすぐとかぐるぐるした線」
 階段を上がるにつれ、白い廊下や階段に線や模様が増えていく。子どもの落書きというにはなんだか整然とした線だ。変なのとは思ったけれど、画家の家だもんな。壁は白いしキャンパスなのかもしれない。
 模様は2階に上がってより派手になる。赤、青、オレンジ。ポロックのような軽快な流線、マティスのような躍動感、カンディンスキーのような具象と色の荒々しく鮮烈な邂逅。そういえば喜友名晋司はもともと具象の画家なんだっけ。そういう変化が現れているのかな。こういう移り変わりは興味深くて楽しい。けれどもそれらの一つ一つはバラバラだ。妙に統一感がない。

「振り向くぞ」
 そうだ、部屋を見るんだった。なんとなく、壁の絵に見惚れていた。なんだかこれまでの家の中は酷いものばかりだったから、少し安心する。きっと大丈夫だ。
 声と共に視界が回転した。
 俺の目に映った部屋の光景、それは強いオレンジ色。それから少しの藍、ばら撒かれる赤、降ってくる白と黄色。そこには世界が広がっていた。部屋中の色が共鳴し、共振し、たわむように複雑なシンフォニーを奏で、耳元で俺にそっと話しかける。ざざりと何かが背骨を通り、俺をオレンジ色に染め上げていく。
 この不思議な絵の一部になる。その期待と陶酔的な誘惑。少し息を吸い込むと空気と一緒にオレンジ色が吸い込まれて、ふわりと肺に広がって、なんだか心地いい。

 !!
 ……! ……!!
 なんだ? うるさいな。
 そう思った瞬間、部屋は突然俺の目の前から消失した。
「あれ?」
「……! ……丈夫か!? 公理さん!? おい!!」
「……あ、ハル」
 ハルが俺を激しく揺さぶっていた。
「何? 怒ってる?」
 ハルの目がじっと俺の目の中を覗き込む。
「よかった。手に力が入ってないけど気絶したような感じでもなかったからさ。呼んでも反応がないからどうしていいかわからなかった。何があった?」
 何が? ……。なんだ?
 思わず目をこする。あの部屋を見て、オレンジ色で、それから俺は何を考えてたんだろう。
 あのオレンジ色を思い浮かべると、頭がぐらりと揺れた。そして再び、意識が拡散し始め、肩をゆすられ正気を取り戻す。
「ヤバい」
「公理さん?」
「ヤバい。多分俺、あの絵に魅入られかけた」
「魅入られ?」
「……びっくりだ」
 あんな事があるなんて。
 絵に吸い込まれて、絵を吸い込んで、俺と絵の世界の境界がぐずぐずと崩れだして、すごく不思議な、そして嫌じゃない感じ、がした。
 ……越谷泰斗もあんな感じだったのかな。
「ああ、そうか、『落日の悲歌』に吸い込まれてしまえば、新しい太陽を求めてもおかしくない。むしろそうしないとおかしい」
 すとんと腑に落ちた。
「おい、本当に大丈夫か?」
「ん、あぁ、ごめん。ええと。部屋が絵だった。ええと、正確にいうとオレンジを中心に部屋中に絵が書かれてた」
「何を言ってる?」
「……そうか、これ、目から刺さる呪いだ。どうしよう、俺、あの部屋を見たら取り込まれる」
 見たら飲み込まれる。ぽっと口をついて出たその表現に、俺は身震いをした。冷静に考えて、改めてその効果に動揺した。それは水にインクを垂らすように、俺を汚染するだろう。そして俺は失われる。
 呪いの魂を揺さぶる直接的すぎる効果に、そして俺なんかが足元にも及ばないような存在を揺るがす影響力に激しい恐怖を感じて、そして少し嫉妬した。
 画集じゃわからなかったけど喜友名晋司は神なのか?
 そこには確かに1つの世界と魂が描かれていた。魂の叫び。
「それは……困ったな。呪いは何から刺さった?」
「何? 何って?」
「切掛だ。呪いが公理さんに効果を及ぼした切掛。模様? パターン? 何かのシンボル?」
 うろたえるような、そして酷く心配そうな視線。
 切掛? あの部屋にあったものはなんだ? 線や形が描かれていたけれど、模様やパターンといったものはたいして記憶に残っていない。
「多分色そのもの。とくにオレンジ色」
「よかった。それなら簡単だ」
 簡単? ハルはほっと温かい息を吐いた。
 ハルが俺のアクセ棚から何かを取り出す。
 サングラス。なるほど。これで確かに色は減衰する。
 サングラスの表面を何本かのカラーマジックで適当に塗りつぶす。
「色相じゃなくて彩度とか明度の可能性もあるからな」
「そう……」
 でもあの呪いはオレンジ色の層の揺らぎから漏れ出ていた気がする。なら、サングラスで層を潰せれば大丈夫なのかな? そう言われれば、なんとなくそんな気もする。
「よし。……一度休んだ方がいいかな?」
 怖い。怖い……けど、俺は首を振る。ハルだけにまかせるんじゃなくて、俺も体を張る。そう決めたんだ。だから俺の意思を口から出して明確にする。
「2回戦いこう」
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