叫ぶ家と憂鬱な殺人鬼（旧Ver

第3章 大量不審死事件

あのひとの鮮度 人物の特定

「ありがとうって、ほんとに休んだほうがいいって」
　公理さんがやけに絡む。まあいい。少しは元気になったのかもしれない。つまり、嫌なんだろうな。少しでも先延ばしにしたいのだろう。
「とりあえず飯作るよ。俺も腹が減ったから」
　公理さんが食べれるもの。
　チキンスープで鶏ももを茹でてスライスし、ニョクマムと塩胡椒で味を整える。好き嫌いが出る調味料だが、公理さんはアジア飯は好きだったはずだ。フォーを茹でてスライスした紫玉ねぎと芽ネギ、もやし、パクチーとミントをトッピングしてライムと砕いたピーナツを添える。砕けたナッツが香ばしくて食欲をそそる。
　並行してぶつ切りにした大正エビと残りの葱をライスペーパーで巻いて蒸す。本当は腸粉粉で作りたい。もちもちした食感がいい。ニョクマムと蜂蜜、生姜でタレを作ってパクチーとミントをトッピングする。たくさん千切ったから、手にパクチーの香りが移ってしまった。ほんとはフライドオニオンも合うけれど、ないから仕方がない。あとは野菜を切ればフォーガーとエビの腸粉もどきとサラダの完成だ。
　皿に盛って運んだら公理さんはぐったりソファに転がっていた。
「できたぞ」
「いただきます」
「大丈夫？」
　やはり心なしか、顔色が悪い。
「うん、俺もなんかしないとと思ってさ」
「無理しなくていいよ、苦手だろ？」
　本当に。倒れなどされたら元も子もない。できることは俺がやる。そのほうが効率がいい。
　公理さんは酔っ払ってなければ妙に真面目なところがある。

　とりあえず対象の特定だ。
　誰のことを考えて『夢』を見ればいい？
　雑誌をめくる。写真８人のうち男は３人。あの男の声はこの中の誰かなんだろうか。小藤亜李沙が腐敗していないなら、男も腐敗していないだろう。なら、身元が特定されたうちの誰かだ。
　いや、わからない。この雑誌に掲載されているのは発見された死人だけだ。あの声の主はひょっとしたら今も生きているのかもしれない。生きていて、ここに名を連ねていないだけかもしれない。
　それなら確実に死んでいる者を狙って『夢』をみるのが良いだろう。それに仮に死んでいたとしても、あの黒い男が小藤亜李沙と同時に死んだのであれば、見えるのは小藤亜李沙と同じ光景になるだろう。危険を冒して同じ映像を見ても仕方がない。
　ということは次に見るのは女だな。あの場には小藤亜李沙と男以外は明確に喋る者はいなかった。いや、喋れないようにされていた可能性かある。
　『足が折られた』という発言は作為を示す。何者かが小藤亜李沙の足を折った。ならば口を塞ぐこともできるだろう。困ったな。
「あの、ハル」
「うん？　なに？」
　公理さんの指はおそるおそる写真を示した。
「この人とこの人、それからこの2人は多分だいたい同じ時に死んでる。あとこの人は他の人より古い」
「……なんでわかる？」
「がんばって思い出した。その、傷み方が同じくらいだった。１番古い人は顔は全然わからないけど、このネックレスしてたと思う、あの、ヒントになった？」
「まじ最高！」
　恐る恐る俺を見上げる公理さんはほっと眉尻を下げた。
　思い出してくれたのか。ありがたい。けれども思い出したからぐったりしてたのか？　……あまり負担はかけたくない。けれどももう思い出したなら。
「小藤亜李沙と他のグループはだいぶ違う？」
「……ん、他は少なくとも目が変な感じだった。あとこの２人はなんか変な色をしてた人のセット。小藤亜李沙は1人だけ目が普通だった、と思うけど自信ない」
「いや、その見立ては多分正しい」
　眼球は最初に傷む部位だ。開眼時は乾燥によって角膜や強膜が褐色に変色する。タンパク質変性によって、死後半日で角膜が混濁し、一日経つと透見が困難となり、二日経てば強濁する。これを早期死体現象という。
　同じような色というのは、死体の腐敗具合によるものだろう。
　血液の腐敗により死体は次第に暗赤褐色に変色する。その後腐敗ガスによって膨張し、乾燥によって体表は黒色に変色する。組織は腐敗汁を出しながら融解を始め、遂には骨が露出する。
　肥満度合いなどによって腐敗の進行は異なるが、写真ではそれほど体型の違いは見られない。とすればこの２人は同じような腐敗状況なのだろう。
　目処が立った。俺には影の見分けがつかない。やはり視覚情報は圧倒的だ。公理さんが倒れないよう注意しなければ。

　１番新しく死んだのが小藤亜李沙だ。小藤亜李沙とあの家で一緒にいた男。あの男は死んでいるなら腐敗していないはずだ。最初に見たリビングで、公理さんは新鮮な男を見ていない。そうすると生きているのか。いや、全ての死人があの場に現れなかった可能性もある。橋屋家も昼にはいなかった。一日を繰り返しているんだ。
「それからさっきの夢の中で、この人がいた」
　越谷泰斗？
　思わず公理さんを見れば、その顔色はますます悪かった。
　扉の中も見たのか。見てくれたのか。
「どうしてわかった」
　見えたとしても、あの状況ではおそらく人の区別などつかないだろう。
「ハルが誰かと話していた時、すぐ目の前、真後ろにこの人がいて……黒いのがたくさんたかってたけど、このタトゥーがチラッと見えた、ごめん、ちょっと休憩」
　公理さんは青い顔でソファにごろんと寝転がる。
　視覚情報は圧倒的だ。まさに百聞は一見にしかずだ。考えてもわからないことがわかる。
　写真の中の越谷泰斗のタトゥー。
　鎖骨を地平線か水平線に見立てた夕焼けまたは朝焼けのタトゥー。それから蝿。俺には黒い粒にしか見えなかったが公理さんにもそう見えたわけだ。つまり、越谷泰斗には大量の蝿がたかっていた。
　この時点で越谷泰斗は生きている、のだよな。流石に幽霊に蝿がたかったりはしないだろう。あるいは動く死体？
　仮に生きているとして、そんな部屋の中にいるなんざ、正気の沙汰じゃない。狂ってるのか？　そういえば『夢』の中でも言動がおかしかった。
　それにても、嫌だな。夢の中ってマスクとか水中眼鏡は持ち込めないよな？　ガスマスクを想像するとポップしないかな。そもそも『夢』じゃ記憶がないから思い浮かべられないものな。俺には黒いノイズにしか見えないし。

　けれどもこれで、次のターゲットが定まった。中是秋名なかこれ あきなだ。
　他より古いと公理さんが指摘した女性。２０代前半くらいだろうか。赤っぽい髪の内巻きのロングヘアが写真の中から俺を見つめている。眼鏡をかけ若草色のノースリーブ、首回りには太陽のマークが連なる個性的なネックレスを身につけている。
　……そういえば家は呪いは層になっているという。層と層の境目は何だ。
　家は以前、１番上は橋屋家のバイアスと言った。ということは、柚は１番上ではない。柚は人を殺し続けているのに、未だ『柚の呪い』のバイアスは構築されていない。今の１番上のバイアスはこの『大量不審死事件』なのだろう。このバイアスの中にはおそらく、長期にまたがる複数の死亡者がいる。この事件でも人は大量に死んでいる。この事件のいわゆる時的限界はどこにある。層とは何だ。バイアスを構築する要因は一体？