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第1章 北辻の呪いの家
リビングの扉の幽霊 秘密の抜け穴
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指先に触れた布の感触で目を覚ます。
パリッとして、柔らかい、上等な肌触り。嫌な匂いのしない本物の羽毛の香り。身を起こせばかしゅかしゅと軽い音がなり、目を開ければ、わずかに目が眩んだ。
嫌な夢を見た。すごく嫌な夢だった。けれども内容は覚えていない。すごく幸せな夢のはずなのに、印象は最悪だ。夢の中で俺は、これから嫌なことが起こる、そんな確信を持っていた。
「起きた?」
声の方に首を向ければ、高級そうなソファから公理さんが立ち上がるところだった。そのシルエットの背後、壁全面のガラス窓の向こうには、辻切センターの高層ビル群が建ち並び、その華やかなネオンで艶やかに彩られていた。
夜。
そうするとここは公理さんの部屋か。グランタワー辻切。辻切ヒルズに位置する億ション。その値段に値する光景が広がっていた。酔いつぶれた公理智樹を何度かエントランスまで送ったことがあるが、中に入るのは初めてだ。酔いつぶれてばかりいては豚に真珠だろう。
「起きた。……運んでくれたのか?」
「うん。下までおりてタクシー呼んだ。ねぇ、腹減ってるよね? ピザとるから」
公理さんは返事も聞かずスマホを弄る。
壁の時計を見れば20時半。今から寮に帰っても晩飯はない。やっぱりろくなことにならなかった。
さっきから妙にイライラする。本来俺が倒れたのは公理さんのせいだ。人に借りを作るのは嫌いだ。けれども今回ばかりは飯ぐらい奢らせても撥はあたらない。
「友達はマジであの家に住んでんの? 九里手って」
その途端、鋭い痛みとともにぐわんと頭蓋骨の中で音が反響する。グラグラと意識が揺れ、気づけば布団に倒れこんでいた。
「大丈夫?」
慌てて駆け寄る公理さんから、珍しく酒の匂いがしないことに気がついた。この時間に飲んでないということは、一応俺を心配してくれたんだろうか。けれども、その気持ち悪さはすぐに溶けて消え、体を起こす。
「呪われた気分だ」
「あー、えーと。呪われてる、ほんと、ごめん」
呪われてる?
謝るように両手をぱちりと合わせた公理さんから溢れた言葉が、咀嚼できない。公理さんは俺の肩越しをじっと見つめている。幽霊でも取り憑いたのか。
「どんなやつが憑いてる?」
けれども公理さんの視線は困惑げに綺麗な長四角を描く。
「なんていうか、俺も全部の幽霊が見えるわけじゃない」
妙な前置きだな。
「家」
「家? 何だって?」
「そんな変な目で見ないで。でも、なんていうか、うん。人じゃないことは確かだ。人ならそんな魂の形はしてない」
公理さんは再び四角く視線を彷徨わせながら、呟く。
「魂? 魂って形があるのか?」
人魂みたいな。
幽霊は死んだ人の姿をしているものじゃないのか?
「それに幽霊、だとは思うんだけど死んでない」
「生霊ってやつ?」
「いや、生きてもないんだけど」
全く意味がわからない。生きてなく、人の姿でもない魂。
「多分あの家だ。ハルに憑いてるのは多分、リビングの扉の幽霊」
リビング、の扉?
妙に具体的だ。そんなもんが霊になるのか?
あの家を思い出す。確かにこの世のものとは思えないほど禍々しい瘴気を垂れ流していた。けれどもちらりと見た感じでは、外観は普通の家には見えた。
「それで、すごい言いづらいんだけどさ。ハルは今、あの家と繋がっている」
「繋がる?」
酷く不吉な言葉に首筋がチリリと揺れる。
「ええと、あの家の姿を思い浮かべてもらえるかな」
「俺はあの家に入ってないぞ。浮かべようが」
ないと言おうとして目を閉じた瞬間、視界がスゥと移り変わり、見知らぬリビングが現れた。
「見えた?」
公理さんの声に目を開けば再びスゥと視界は切り替わり、心配そうな公理さんの顔が見えた。
「なんだ? 今のは」
映画で場面が切り替わるように、視界が切り替わった。なんだ? これ。
「何が見えた?」
「多分リビング」
「じゃあその扉はやっぱりリビングの扉だと思う。そんな感じに見えるし。ええと、それでリビングの中に女の人いないかな」
公理さんの声に必死さが滲む。女の人? 友達の久里手という人か。
「二十代前半で髪が短め、百七十弱くらいの細めのショートの人なんだけど」
もう一度目を閉じ、先ほどのリビングを思い浮かべる。
左右を見渡す。右手のキッチン奥に人影がある。首は動かしてないのに、思うように視界が動く。VRゲームをコントローラで動かしてるみたいな感じだ。
リビングからも見える対面型のキッチンの内側で、背の高めの痩せぎすな、黒っぽいTシャツを着た女が手もとを動かしている。料理でもしてるのか。
「あれ?」
公理さんの声につられて目を開ければ、当然ながら視界は公理さんの部屋に移り変わった。
「どうした?」
「多分だけど、ハルが見た方向の反対方向に、扉の中の景色が変化した。ハルの視覚に連動して、俺にはハルが見る反対側が見えるのかも」
「なんだそれ。ますますゲームみたいだな」
再び目を閉じ、女に近づこうと思えば、その通りに視界は動く。
「顔色悪い女の人」
「そう、多分それが僕の友達。九里手柚」
その途端、再び激しい頭痛が襲う。万力で締められるように頭が痛み、そしてすぐに痛みは消えた。
「大丈夫!?」
その消失はやはり鮮やかだった。先程は漠然と呪いの影響かと思ったが、この突発的な頭痛の発生には何らかのトリガーがあるのだろうか。共通するものは何だ。
「公理さん。この人は誰だって?」
「柚」
ぐう。頭が再び割れるように揺れる。この女の名前が頭痛のトリガーなのか?
「名前を聞くと頭痛がする」
「大丈夫? ごめん、気をつける。薬持ってくる」
「……いや、多分意味がない。それにすぐ消える」
名前を呼ぶという現象が原因ならば、これは体の不調によってもたらされる痛みではないのだろう。だから体を整える薬に意味はない。
「そっか……熱はなさそうかな」
ヒヤリと額に押し当てられる公理さんの冷たい手の甲を感じるうちに、やはり痛みは溶けていく。
インターフォンが鳴り、目を開ければ公理さんが慌てて玄関に向かう背中が見えた。やけに喉がひりつくと思ったが、今日はろくに水も飲んでいない。栄養も水分も不足している。
薄いマルゲリータとジェノベーゼのハーフアンドハーフ。それからポテトとパストラミ。食べ物の匂いで日常を取り戻し、一息をつく。目を閉じれば繋がる呪いの家。何なんだ、この日現実的な状況は。
「それで公理さんに見えるその扉ってのはどんな奴?」
ソファ前のローテーブルに盛大に広げられたピザを片手に摘んだ公理さんの説明は、やはり訳の分からないものだった。
俺の魂の一部がその幽霊の扉に挟まっている。部屋と部屋の狭間に立っているように、俺の体の前部分は公理さんの目の前にいるが、体の後ろ部分はドアの向こうにめり込んでいる。
「めり込む?」
「そう、見える」
「……俺の体は前後でぶった斬られてんの?」
「いや、ええと。扉は幽霊なんだよ。だから物理的には切れてないけど、魂は切れてるのかも、しれない」
魂が、切れている?
実感は全くない。そもそもそれがどういう状況かわからない。
それで、俺がリビングを見ている時、俺の挟まっている扉が開く。その開いた扉を通して公理さんには俺の背後の室内が見えるのだそうだ。俺がリビングを見てない時は扉は閉じて、室内は見えない。
つまり、あの家のリビングが俺の背後にある、のか?
振り返ったけれども、公理さんの家の壁しか見えなかった。俺に幽霊は見えない。
「というか、家の幽霊ってそもそも何なんだ。家は死なないだろ?」
「わかんない、生霊なのかな。でも生き物以外は幽霊にならないのかっていうと、どうなんだろう? 動物も霊になるし、髪が伸びる人形ってのもあるみたいだし」
動物は生き物だろう?
あの家は普通の建売住宅に見えた。木造建築ってことは木材を寄せ集てできてるんだよな? 外から見た分には立ち並ぶ住宅地の1軒で、特におかしなところもなかった気がする。呪われている以外は変なところはなかった。
家、というか物体が幽霊になるなんてことがあるんだろうか。
パリッとして、柔らかい、上等な肌触り。嫌な匂いのしない本物の羽毛の香り。身を起こせばかしゅかしゅと軽い音がなり、目を開ければ、わずかに目が眩んだ。
嫌な夢を見た。すごく嫌な夢だった。けれども内容は覚えていない。すごく幸せな夢のはずなのに、印象は最悪だ。夢の中で俺は、これから嫌なことが起こる、そんな確信を持っていた。
「起きた?」
声の方に首を向ければ、高級そうなソファから公理さんが立ち上がるところだった。そのシルエットの背後、壁全面のガラス窓の向こうには、辻切センターの高層ビル群が建ち並び、その華やかなネオンで艶やかに彩られていた。
夜。
そうするとここは公理さんの部屋か。グランタワー辻切。辻切ヒルズに位置する億ション。その値段に値する光景が広がっていた。酔いつぶれた公理智樹を何度かエントランスまで送ったことがあるが、中に入るのは初めてだ。酔いつぶれてばかりいては豚に真珠だろう。
「起きた。……運んでくれたのか?」
「うん。下までおりてタクシー呼んだ。ねぇ、腹減ってるよね? ピザとるから」
公理さんは返事も聞かずスマホを弄る。
壁の時計を見れば20時半。今から寮に帰っても晩飯はない。やっぱりろくなことにならなかった。
さっきから妙にイライラする。本来俺が倒れたのは公理さんのせいだ。人に借りを作るのは嫌いだ。けれども今回ばかりは飯ぐらい奢らせても撥はあたらない。
「友達はマジであの家に住んでんの? 九里手って」
その途端、鋭い痛みとともにぐわんと頭蓋骨の中で音が反響する。グラグラと意識が揺れ、気づけば布団に倒れこんでいた。
「大丈夫?」
慌てて駆け寄る公理さんから、珍しく酒の匂いがしないことに気がついた。この時間に飲んでないということは、一応俺を心配してくれたんだろうか。けれども、その気持ち悪さはすぐに溶けて消え、体を起こす。
「呪われた気分だ」
「あー、えーと。呪われてる、ほんと、ごめん」
呪われてる?
謝るように両手をぱちりと合わせた公理さんから溢れた言葉が、咀嚼できない。公理さんは俺の肩越しをじっと見つめている。幽霊でも取り憑いたのか。
「どんなやつが憑いてる?」
けれども公理さんの視線は困惑げに綺麗な長四角を描く。
「なんていうか、俺も全部の幽霊が見えるわけじゃない」
妙な前置きだな。
「家」
「家? 何だって?」
「そんな変な目で見ないで。でも、なんていうか、うん。人じゃないことは確かだ。人ならそんな魂の形はしてない」
公理さんは再び四角く視線を彷徨わせながら、呟く。
「魂? 魂って形があるのか?」
人魂みたいな。
幽霊は死んだ人の姿をしているものじゃないのか?
「それに幽霊、だとは思うんだけど死んでない」
「生霊ってやつ?」
「いや、生きてもないんだけど」
全く意味がわからない。生きてなく、人の姿でもない魂。
「多分あの家だ。ハルに憑いてるのは多分、リビングの扉の幽霊」
リビング、の扉?
妙に具体的だ。そんなもんが霊になるのか?
あの家を思い出す。確かにこの世のものとは思えないほど禍々しい瘴気を垂れ流していた。けれどもちらりと見た感じでは、外観は普通の家には見えた。
「それで、すごい言いづらいんだけどさ。ハルは今、あの家と繋がっている」
「繋がる?」
酷く不吉な言葉に首筋がチリリと揺れる。
「ええと、あの家の姿を思い浮かべてもらえるかな」
「俺はあの家に入ってないぞ。浮かべようが」
ないと言おうとして目を閉じた瞬間、視界がスゥと移り変わり、見知らぬリビングが現れた。
「見えた?」
公理さんの声に目を開けば再びスゥと視界は切り替わり、心配そうな公理さんの顔が見えた。
「なんだ? 今のは」
映画で場面が切り替わるように、視界が切り替わった。なんだ? これ。
「何が見えた?」
「多分リビング」
「じゃあその扉はやっぱりリビングの扉だと思う。そんな感じに見えるし。ええと、それでリビングの中に女の人いないかな」
公理さんの声に必死さが滲む。女の人? 友達の久里手という人か。
「二十代前半で髪が短め、百七十弱くらいの細めのショートの人なんだけど」
もう一度目を閉じ、先ほどのリビングを思い浮かべる。
左右を見渡す。右手のキッチン奥に人影がある。首は動かしてないのに、思うように視界が動く。VRゲームをコントローラで動かしてるみたいな感じだ。
リビングからも見える対面型のキッチンの内側で、背の高めの痩せぎすな、黒っぽいTシャツを着た女が手もとを動かしている。料理でもしてるのか。
「あれ?」
公理さんの声につられて目を開ければ、当然ながら視界は公理さんの部屋に移り変わった。
「どうした?」
「多分だけど、ハルが見た方向の反対方向に、扉の中の景色が変化した。ハルの視覚に連動して、俺にはハルが見る反対側が見えるのかも」
「なんだそれ。ますますゲームみたいだな」
再び目を閉じ、女に近づこうと思えば、その通りに視界は動く。
「顔色悪い女の人」
「そう、多分それが僕の友達。九里手柚」
その途端、再び激しい頭痛が襲う。万力で締められるように頭が痛み、そしてすぐに痛みは消えた。
「大丈夫!?」
その消失はやはり鮮やかだった。先程は漠然と呪いの影響かと思ったが、この突発的な頭痛の発生には何らかのトリガーがあるのだろうか。共通するものは何だ。
「公理さん。この人は誰だって?」
「柚」
ぐう。頭が再び割れるように揺れる。この女の名前が頭痛のトリガーなのか?
「名前を聞くと頭痛がする」
「大丈夫? ごめん、気をつける。薬持ってくる」
「……いや、多分意味がない。それにすぐ消える」
名前を呼ぶという現象が原因ならば、これは体の不調によってもたらされる痛みではないのだろう。だから体を整える薬に意味はない。
「そっか……熱はなさそうかな」
ヒヤリと額に押し当てられる公理さんの冷たい手の甲を感じるうちに、やはり痛みは溶けていく。
インターフォンが鳴り、目を開ければ公理さんが慌てて玄関に向かう背中が見えた。やけに喉がひりつくと思ったが、今日はろくに水も飲んでいない。栄養も水分も不足している。
薄いマルゲリータとジェノベーゼのハーフアンドハーフ。それからポテトとパストラミ。食べ物の匂いで日常を取り戻し、一息をつく。目を閉じれば繋がる呪いの家。何なんだ、この日現実的な状況は。
「それで公理さんに見えるその扉ってのはどんな奴?」
ソファ前のローテーブルに盛大に広げられたピザを片手に摘んだ公理さんの説明は、やはり訳の分からないものだった。
俺の魂の一部がその幽霊の扉に挟まっている。部屋と部屋の狭間に立っているように、俺の体の前部分は公理さんの目の前にいるが、体の後ろ部分はドアの向こうにめり込んでいる。
「めり込む?」
「そう、見える」
「……俺の体は前後でぶった斬られてんの?」
「いや、ええと。扉は幽霊なんだよ。だから物理的には切れてないけど、魂は切れてるのかも、しれない」
魂が、切れている?
実感は全くない。そもそもそれがどういう状況かわからない。
それで、俺がリビングを見ている時、俺の挟まっている扉が開く。その開いた扉を通して公理さんには俺の背後の室内が見えるのだそうだ。俺がリビングを見てない時は扉は閉じて、室内は見えない。
つまり、あの家のリビングが俺の背後にある、のか?
振り返ったけれども、公理さんの家の壁しか見えなかった。俺に幽霊は見えない。
「というか、家の幽霊ってそもそも何なんだ。家は死なないだろ?」
「わかんない、生霊なのかな。でも生き物以外は幽霊にならないのかっていうと、どうなんだろう? 動物も霊になるし、髪が伸びる人形ってのもあるみたいだし」
動物は生き物だろう?
あの家は普通の建売住宅に見えた。木造建築ってことは木材を寄せ集てできてるんだよな? 外から見た分には立ち並ぶ住宅地の1軒で、特におかしなところもなかった気がする。呪われている以外は変なところはなかった。
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