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月の足る宮 富士に登った左文字の話(一旦中断中)
御来光と酒の肴
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「それにしても山菱さんは元気だねぇ。寝てないんだろう?」
「まあ、そうですね」
「普段から修行してるの?」
「そんなわけでは」
「じゃあ普段は勉強ばっかしてるんだ。そうすっと神様のご加護なのかねぇ」
徹夜はそれなりに慣れている。
けれどもそれは同行の道者に言われる修験のためでもご加護のためでもなくて、単純に賭場というものが夜に開いて朝閉まるからだ。そして俺は種銭を作るために日々せっせと日雇仕事をしているからで。
そんなわけでそれなりに元気な俺は話しかけられるのを避けて再び先頭を歩いていた。
本来は真っ暗なのだろう。星灯りしかないはずのところを、目の前をじぐざぐと一本の光の列が続いている。俺の隣を歩く御師も提灯を掲げている。それがあたかも光の数珠のように山頂に一本に繋がっている。
その様子は何やら奇妙だ。強風が吹き荒れる山肌を一塊になり、少し進んでは少し止まり、止まっては進む。その遅々とした歩みで最後の急勾配を超えると、真正面から強風が吹いた。風が正面から吹くということは山頂だろうか。大分目は慣れたけれども、頂上に到達した光は塊ごとに腰を下ろして次々と明かりを消すものだから、その全景はよくわからない。そうして全ての光の数珠がばらけて再び真っ暗となった。
とても静かで、けれどもたくさんの息遣いが近くにあるのだろう。見えない昂揚というものがどこからともなく体中に伝わってくる。
御師が背中を叩く。
「もうすぐ御来光だよぅ。山菱さんの天女は現れるかねぇ」
「天女?」
「大丈夫かい? 徹夜だもんね。もうすぐ日が登るからさ。ほら」
御師がまっすぐ腕を上げた先、黒一色だった世界にわずかなオレンヂ色がふわりと平たく境界のように横に広がり世界を裂き、その縁から世界をこじ開けるかのように何かが闇を紺色に変えてくいく。そうしてそれまで俺たちに猛烈に吹き付けていた風が同じように世界、つまり目の前に広がるたくさんの雲を同じように吹き流していたことに、その光が形作る雲の凹凸でようやく気がついた。
同じように揺れ動き、同じように凹凸を形作る。世界と自分が重なっているかのような静かな一体感。これが全一というものなのだろうか。
不思議な感動に浸っているうち、世界が平面からすっかり立体になった瞬間、ふいに、その端っこに金色の液体を垂らしたかのような光が溢れ輝いた。
その時既に、世界は随分と明るくはなっていたにはいたのだけれど、その境界線から唐突に顔を出した真ん丸な光は神々しく後光を放ちながらするりとこの世に姿を表す。
それはまさに顕現と呼んでしかるべきもので、これまでの世界を薄明るく照らしていた光とこの御来光というやつは、全く存在が異なっていた。
何が違うかってまず温度だ。御来光は熱い。
その正面から来る光は紛うことなく強い熱を放ち、凍えた体を温める。そうして世界を包み込んで温めていく。
そして眩しく光り輝く。
これまで薄っすら明るい程度だったのに、その光は目を穿ち、その神々しさ故に直視できないのだ。
その姿はまさに世界を統べる何者かとしか思われず、それと対峙した時、それまで体を震えさせていた寒さとはまた異なる何かによって新たな震えがもたらされた。
これが御来光。正しく神だ。そうとしか思われない。
昨夜に陽が落ちると同時に待ち望んだ如来の訪れ。世界の再生。欠けた世界が再び満ちていく奇跡。気づけば思わず手を合わせていた。気づけば周りの道者たちはみな無心に祈っていた。
冷静に考えれば太陽は恒星なのだからもとよりそのようなもので、この世界の熱源ではあるのだが、そんな理屈は理屈としても、それこそが神の働きであるといわれれば納得しようがない神々しさと美しさが溢れていた。
そしてそれを打ち消そうと背中から吹き寄せた冷たい風に思わず振り返る。
そこには富士の火口があった。ポッカリと口を開けていた。その火口というものは、想像したより遥かに巨大で、深かった。八合目まで降りるほどの深さがあるのではないか。そしてそこからさらに富士の底、地の底まで続いていくような恐ろしさ、を感じて思わずゴクリと喉が鳴る。その火口はあたかも瘡蓋が抉れるかのような歪な穴だ。蟻地獄のように窄まり、その奥はわずかに雪が残っている。
「さぁさ、皆様お八巡りに参りますよ。この周りをぐるりと周りますからねぇ!」
「この周りを? 危なくはないか?」
「狭いけどね、勾配はそれほどでもないからゆっくりいけば大丈夫さ」
見渡すと、真っ暗な中ではよくわからなかったが、かなりの人数が山頂にいた。それが順番にお八を巡る。左手は火口だ。途中に少し急勾配の剣ヶ峰を登り、御師からここを下った所に金明水があると聞く。そうして表口にある奥宮から火口を眺める。そして祈りを捧げる。
その富士の中心に穿たれた深い大穴を正面に見る景色に圧倒される。ここに神がいるのだな。そう自然に思う景色。
左文字はここで体を清め、真っ直ぐにあの火口の内に降りる、というのか。それはまさに神に捧げられるのだ、としか思えなかった。
ドクンと心臓が鳴った。改めて見直しても人が立ち入るような場所には思われない。というよりここはわかりやすく紙のおわす禁足地なのだ。
この火口の広さ。一度神が怒ればこの広い火口全体が炎で満ち、遥か高くまで炎を吹き上げる。そう考えると、やはり恐れ多くて足がすくむ。ここは人がいるべき場所ではない。この異界の底は、どこかにつながっているのだろうか。
なのに他の道者たちは転げ落ちないかという心配はしているものの、ありがたそうに火口とそれぞれの社と、俺に祈りを捧げている。
なんだか嫌だな。特にここで祈られるのは。自分の矮小さ加減が身に染みて嫌だ。
「山菱さん、居心地悪そうだね」
「なんだか嫌だ」
本当に神仏の怒りを買いそうで嫌なのだ。だんだん気持ち悪くなってきた。遅れてやって来た山酔いなのかもしれないが。
お八を巡ればあとは下山だ。結局天女は見えなかったが、というより見えるはずもないのだが、無事にその日のうちに上吉田まで戻ってようやく人心地ついた。ずっと緊張していた。肩や手足が強張り続けていた。徹夜の疲れというだけではないだろう。なんだかそれほど、あの富士の火口というものは俺の心をどこかに縛り付けたのだ。
富士山講社の連中は無事の下山を祝った後、ここから河口湖や西湖なんかを回って大山に登ったり江ノ島を巡ったりして行きとは違うルートで東京に戻るそうだ。
本当に観光だなと思いつつ、俺は御師の家の隅で倒れるように寝かせてもらった。宍野から滞在費は支払われているそうなのだが、どうにも次々と訪れる他の講の道者たちと同様に豪華に歓待されるのは気が咎める。俺はなんだかすっかり妙な立場にいたのもある。あの御師の家には天命を受けた人がいる、という、まあいわゆる客寄せパンダ状態なのだ。そんなわけであまり人前に出たくもない。
もう一度登ってみるかいといわれたが、どうにもまた祈られる未来しかみえずに気が進まない。
だから御胎内巡りというものをしてみたり、色々な御師に話を聞きながら過ごした。
再び登って反対側の村山まで行ってみようとも思ったが、富士を異なる道で降りるのは富士を割るといって良くないそうだ。
そうこうしているうちに鷹一郎が俺が滞在する御師の家を訪れた。23日の夕方だった。そして今は御師の家を引き払って下吉田で飲んでいる。
御師町である上吉田では酒は飲みづらい。言えば出してはくれるのだろうがいかんせん、俺の立場はかなり特殊で、飲みつぶれているところを他の道者なんかに見られるのは……まずいよなぁと思うのもあった。
そんなわけで十日ぶりほどの酒は随分と身にしみた。
「哲佐君。しばらく見ない間に随分精悍になられましたね。なんだかソレっぽい」
「ソレって何だよ。お前は何をやっていたんだ?」
「何を? いつも通り私は私で調べ物です。歌とか伝承とかね」
「ふうん」
「そうそう。それより富士講とは違って御師町というのは随分神道色に染まってますねぇ」
俺も御師の家に間借りして少し驚いたのだが、そこは宗教の家というよりは旅籠のようなのだ。
マネキの講紋で見分けているのだろう、上吉田に道者たちがつくとすぐに家から出てきて、ようこそいらっしゃいました、と口上を述べてからは下にも置かない扱いで、あっという間に荷物を預けて室に通され食事を出され、やれ草鞋は何足、金剛杖は何本入用ですかだの強力を付けましょうねだの、全ての登山の手配を整えてしまうのだ。
そして御師たちは神道や神道で使われる祝詞についてもそれなりに詳しかった。その一方で、富士講の道者たちを連れて回るには六根清浄と叫び、そして仏教的な説話を所々でする。なんだかその姿はちぐはぐなのだ。
「それも仕方がないのですよ。時代の流れです」
「時代?」
「ええ。御師は御一新前は神職でしたがそれを廃されてしまいました。御師はもともとは武士でしたが現在は今の形態、ようするに道者の案内と世話を仕事としている人たちです。少し離れると修験を中心にされている御師もいらっしゃるのですがね、現在このような大きな登山口でお仕事でされている方は山案内を主とされる方が大部分です」
思い起こせば一緒に登った御師もやけに観光的に手慣れていた。
女中が新しい徳利を運んでくる。ふわりと甘い香りが漂う。標高のせいか東京より幾分涼しいものだから、この熱燗が丁度心地いい。
「社会が変わりましたから、いずこも変革を余儀なくされているのです。御師町は神道を取り入れることで、富士講は宍野さんがなされているように教派神道としてまとまることで、生き残ろうとされているんですよ」
「お前……やっぱわざとだな」
「何がです?」
にこにこと微笑む鷹一郎を見て、どうせ聞いてもすっとぼけられるだけだろうなと思うわけだ。
「それでこれからどうするんだよ」
「山中湖を回って須走に向かいます。そろそろメンデンホール先生の機材が届く頃ですから受け取らねばなりません」
「山頂から須走に降りるルートもあるそうだぞ」
「今回は私は登りません」
「なんで」
「本番で初めて登るほうがよいような気がしましたから」
初めて登る? それは左文字が生贄になる時っていうことか?
「下調べはいらねぇのか?」
「何をおっしゃるんです? そのために哲佐君に登ってもらうんじゃないですか。ちゃんと宍野さんからは書状を預かってますよね」
「おう。頼んだら普通に書いてもらえた」
「重畳です。メンデンホール先生には哲佐君と秋月さんは工学科の学生で、機材の扱いに詳しいと伝えてあります。だから頑張って登る前に覚えてください」
「ちょ、待てよ、聞いてないぞ」
「それは、言ってないからですね」
鷹一郎は香ばしい田楽を口に運ぶ。
くるみが入った味噌が独特で歯ごたえも小気味よく、風味があって旨い。いや、そうじゃなくてだな。
「天文の道具なんぞ俺は知らんぞ」
「そう難しいものじゃないですよ。設定は数理星科で行いますから、機材の組み立ての手伝いをして頂ければ。お二人を強力としてご紹介しますので」
「まて、まてまて、強力ってアレだろ、荷運びだろ。俺にそんな体力はないぞ」
「メインの強力は秋月さんとそのご紹介の方ですから大丈夫ですよ、持ち運ぶ機材リストを見ればおそらく哲佐君が運ぶ分量はそれほどでもない」
「いやちょっと待てよ、山頂まで登るんだろ?」
「ええ、勿論」
そこで鷹一郎は随分不思議そうな顔で俺を眺め、手酌で酒を注いだ。
気楽に言ってくれるが、俺が登頂できたのは荷物を強力に預けていたからというのが大きい。
「あのな、山頂ってのは荒地で大変なんだぞ。風も強いしな」
「ええ。是非登頂のアドバイスを下さいな。そのために登って頂いたのですから」
「えっ? 俺って荷運びの情報集めに登ったのか?」
「鉄佐君、富士山頂というのはどのような世界なのです?」
「お前、今誤魔化そうとしてるだろ」
「とんでもない。私は本番しか登るつもりはありませんからね。情報収集は大事なのです」
「腑に落ちねぇ」
それで結局、富士の御来光を肴に気づけば久しぶりの酒は進んでいた。
「まあ、そうですね」
「普段から修行してるの?」
「そんなわけでは」
「じゃあ普段は勉強ばっかしてるんだ。そうすっと神様のご加護なのかねぇ」
徹夜はそれなりに慣れている。
けれどもそれは同行の道者に言われる修験のためでもご加護のためでもなくて、単純に賭場というものが夜に開いて朝閉まるからだ。そして俺は種銭を作るために日々せっせと日雇仕事をしているからで。
そんなわけでそれなりに元気な俺は話しかけられるのを避けて再び先頭を歩いていた。
本来は真っ暗なのだろう。星灯りしかないはずのところを、目の前をじぐざぐと一本の光の列が続いている。俺の隣を歩く御師も提灯を掲げている。それがあたかも光の数珠のように山頂に一本に繋がっている。
その様子は何やら奇妙だ。強風が吹き荒れる山肌を一塊になり、少し進んでは少し止まり、止まっては進む。その遅々とした歩みで最後の急勾配を超えると、真正面から強風が吹いた。風が正面から吹くということは山頂だろうか。大分目は慣れたけれども、頂上に到達した光は塊ごとに腰を下ろして次々と明かりを消すものだから、その全景はよくわからない。そうして全ての光の数珠がばらけて再び真っ暗となった。
とても静かで、けれどもたくさんの息遣いが近くにあるのだろう。見えない昂揚というものがどこからともなく体中に伝わってくる。
御師が背中を叩く。
「もうすぐ御来光だよぅ。山菱さんの天女は現れるかねぇ」
「天女?」
「大丈夫かい? 徹夜だもんね。もうすぐ日が登るからさ。ほら」
御師がまっすぐ腕を上げた先、黒一色だった世界にわずかなオレンヂ色がふわりと平たく境界のように横に広がり世界を裂き、その縁から世界をこじ開けるかのように何かが闇を紺色に変えてくいく。そうしてそれまで俺たちに猛烈に吹き付けていた風が同じように世界、つまり目の前に広がるたくさんの雲を同じように吹き流していたことに、その光が形作る雲の凹凸でようやく気がついた。
同じように揺れ動き、同じように凹凸を形作る。世界と自分が重なっているかのような静かな一体感。これが全一というものなのだろうか。
不思議な感動に浸っているうち、世界が平面からすっかり立体になった瞬間、ふいに、その端っこに金色の液体を垂らしたかのような光が溢れ輝いた。
その時既に、世界は随分と明るくはなっていたにはいたのだけれど、その境界線から唐突に顔を出した真ん丸な光は神々しく後光を放ちながらするりとこの世に姿を表す。
それはまさに顕現と呼んでしかるべきもので、これまでの世界を薄明るく照らしていた光とこの御来光というやつは、全く存在が異なっていた。
何が違うかってまず温度だ。御来光は熱い。
その正面から来る光は紛うことなく強い熱を放ち、凍えた体を温める。そうして世界を包み込んで温めていく。
そして眩しく光り輝く。
これまで薄っすら明るい程度だったのに、その光は目を穿ち、その神々しさ故に直視できないのだ。
その姿はまさに世界を統べる何者かとしか思われず、それと対峙した時、それまで体を震えさせていた寒さとはまた異なる何かによって新たな震えがもたらされた。
これが御来光。正しく神だ。そうとしか思われない。
昨夜に陽が落ちると同時に待ち望んだ如来の訪れ。世界の再生。欠けた世界が再び満ちていく奇跡。気づけば思わず手を合わせていた。気づけば周りの道者たちはみな無心に祈っていた。
冷静に考えれば太陽は恒星なのだからもとよりそのようなもので、この世界の熱源ではあるのだが、そんな理屈は理屈としても、それこそが神の働きであるといわれれば納得しようがない神々しさと美しさが溢れていた。
そしてそれを打ち消そうと背中から吹き寄せた冷たい風に思わず振り返る。
そこには富士の火口があった。ポッカリと口を開けていた。その火口というものは、想像したより遥かに巨大で、深かった。八合目まで降りるほどの深さがあるのではないか。そしてそこからさらに富士の底、地の底まで続いていくような恐ろしさ、を感じて思わずゴクリと喉が鳴る。その火口はあたかも瘡蓋が抉れるかのような歪な穴だ。蟻地獄のように窄まり、その奥はわずかに雪が残っている。
「さぁさ、皆様お八巡りに参りますよ。この周りをぐるりと周りますからねぇ!」
「この周りを? 危なくはないか?」
「狭いけどね、勾配はそれほどでもないからゆっくりいけば大丈夫さ」
見渡すと、真っ暗な中ではよくわからなかったが、かなりの人数が山頂にいた。それが順番にお八を巡る。左手は火口だ。途中に少し急勾配の剣ヶ峰を登り、御師からここを下った所に金明水があると聞く。そうして表口にある奥宮から火口を眺める。そして祈りを捧げる。
その富士の中心に穿たれた深い大穴を正面に見る景色に圧倒される。ここに神がいるのだな。そう自然に思う景色。
左文字はここで体を清め、真っ直ぐにあの火口の内に降りる、というのか。それはまさに神に捧げられるのだ、としか思えなかった。
ドクンと心臓が鳴った。改めて見直しても人が立ち入るような場所には思われない。というよりここはわかりやすく紙のおわす禁足地なのだ。
この火口の広さ。一度神が怒ればこの広い火口全体が炎で満ち、遥か高くまで炎を吹き上げる。そう考えると、やはり恐れ多くて足がすくむ。ここは人がいるべき場所ではない。この異界の底は、どこかにつながっているのだろうか。
なのに他の道者たちは転げ落ちないかという心配はしているものの、ありがたそうに火口とそれぞれの社と、俺に祈りを捧げている。
なんだか嫌だな。特にここで祈られるのは。自分の矮小さ加減が身に染みて嫌だ。
「山菱さん、居心地悪そうだね」
「なんだか嫌だ」
本当に神仏の怒りを買いそうで嫌なのだ。だんだん気持ち悪くなってきた。遅れてやって来た山酔いなのかもしれないが。
お八を巡ればあとは下山だ。結局天女は見えなかったが、というより見えるはずもないのだが、無事にその日のうちに上吉田まで戻ってようやく人心地ついた。ずっと緊張していた。肩や手足が強張り続けていた。徹夜の疲れというだけではないだろう。なんだかそれほど、あの富士の火口というものは俺の心をどこかに縛り付けたのだ。
富士山講社の連中は無事の下山を祝った後、ここから河口湖や西湖なんかを回って大山に登ったり江ノ島を巡ったりして行きとは違うルートで東京に戻るそうだ。
本当に観光だなと思いつつ、俺は御師の家の隅で倒れるように寝かせてもらった。宍野から滞在費は支払われているそうなのだが、どうにも次々と訪れる他の講の道者たちと同様に豪華に歓待されるのは気が咎める。俺はなんだかすっかり妙な立場にいたのもある。あの御師の家には天命を受けた人がいる、という、まあいわゆる客寄せパンダ状態なのだ。そんなわけであまり人前に出たくもない。
もう一度登ってみるかいといわれたが、どうにもまた祈られる未来しかみえずに気が進まない。
だから御胎内巡りというものをしてみたり、色々な御師に話を聞きながら過ごした。
再び登って反対側の村山まで行ってみようとも思ったが、富士を異なる道で降りるのは富士を割るといって良くないそうだ。
そうこうしているうちに鷹一郎が俺が滞在する御師の家を訪れた。23日の夕方だった。そして今は御師の家を引き払って下吉田で飲んでいる。
御師町である上吉田では酒は飲みづらい。言えば出してはくれるのだろうがいかんせん、俺の立場はかなり特殊で、飲みつぶれているところを他の道者なんかに見られるのは……まずいよなぁと思うのもあった。
そんなわけで十日ぶりほどの酒は随分と身にしみた。
「哲佐君。しばらく見ない間に随分精悍になられましたね。なんだかソレっぽい」
「ソレって何だよ。お前は何をやっていたんだ?」
「何を? いつも通り私は私で調べ物です。歌とか伝承とかね」
「ふうん」
「そうそう。それより富士講とは違って御師町というのは随分神道色に染まってますねぇ」
俺も御師の家に間借りして少し驚いたのだが、そこは宗教の家というよりは旅籠のようなのだ。
マネキの講紋で見分けているのだろう、上吉田に道者たちがつくとすぐに家から出てきて、ようこそいらっしゃいました、と口上を述べてからは下にも置かない扱いで、あっという間に荷物を預けて室に通され食事を出され、やれ草鞋は何足、金剛杖は何本入用ですかだの強力を付けましょうねだの、全ての登山の手配を整えてしまうのだ。
そして御師たちは神道や神道で使われる祝詞についてもそれなりに詳しかった。その一方で、富士講の道者たちを連れて回るには六根清浄と叫び、そして仏教的な説話を所々でする。なんだかその姿はちぐはぐなのだ。
「それも仕方がないのですよ。時代の流れです」
「時代?」
「ええ。御師は御一新前は神職でしたがそれを廃されてしまいました。御師はもともとは武士でしたが現在は今の形態、ようするに道者の案内と世話を仕事としている人たちです。少し離れると修験を中心にされている御師もいらっしゃるのですがね、現在このような大きな登山口でお仕事でされている方は山案内を主とされる方が大部分です」
思い起こせば一緒に登った御師もやけに観光的に手慣れていた。
女中が新しい徳利を運んでくる。ふわりと甘い香りが漂う。標高のせいか東京より幾分涼しいものだから、この熱燗が丁度心地いい。
「社会が変わりましたから、いずこも変革を余儀なくされているのです。御師町は神道を取り入れることで、富士講は宍野さんがなされているように教派神道としてまとまることで、生き残ろうとされているんですよ」
「お前……やっぱわざとだな」
「何がです?」
にこにこと微笑む鷹一郎を見て、どうせ聞いてもすっとぼけられるだけだろうなと思うわけだ。
「それでこれからどうするんだよ」
「山中湖を回って須走に向かいます。そろそろメンデンホール先生の機材が届く頃ですから受け取らねばなりません」
「山頂から須走に降りるルートもあるそうだぞ」
「今回は私は登りません」
「なんで」
「本番で初めて登るほうがよいような気がしましたから」
初めて登る? それは左文字が生贄になる時っていうことか?
「下調べはいらねぇのか?」
「何をおっしゃるんです? そのために哲佐君に登ってもらうんじゃないですか。ちゃんと宍野さんからは書状を預かってますよね」
「おう。頼んだら普通に書いてもらえた」
「重畳です。メンデンホール先生には哲佐君と秋月さんは工学科の学生で、機材の扱いに詳しいと伝えてあります。だから頑張って登る前に覚えてください」
「ちょ、待てよ、聞いてないぞ」
「それは、言ってないからですね」
鷹一郎は香ばしい田楽を口に運ぶ。
くるみが入った味噌が独特で歯ごたえも小気味よく、風味があって旨い。いや、そうじゃなくてだな。
「天文の道具なんぞ俺は知らんぞ」
「そう難しいものじゃないですよ。設定は数理星科で行いますから、機材の組み立ての手伝いをして頂ければ。お二人を強力としてご紹介しますので」
「まて、まてまて、強力ってアレだろ、荷運びだろ。俺にそんな体力はないぞ」
「メインの強力は秋月さんとそのご紹介の方ですから大丈夫ですよ、持ち運ぶ機材リストを見ればおそらく哲佐君が運ぶ分量はそれほどでもない」
「いやちょっと待てよ、山頂まで登るんだろ?」
「ええ、勿論」
そこで鷹一郎は随分不思議そうな顔で俺を眺め、手酌で酒を注いだ。
気楽に言ってくれるが、俺が登頂できたのは荷物を強力に預けていたからというのが大きい。
「あのな、山頂ってのは荒地で大変なんだぞ。風も強いしな」
「ええ。是非登頂のアドバイスを下さいな。そのために登って頂いたのですから」
「えっ? 俺って荷運びの情報集めに登ったのか?」
「鉄佐君、富士山頂というのはどのような世界なのです?」
「お前、今誤魔化そうとしてるだろ」
「とんでもない。私は本番しか登るつもりはありませんからね。情報収集は大事なのです」
「腑に落ちねぇ」
それで結局、富士の御来光を肴に気づけば久しぶりの酒は進んでいた。
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