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月の足る宮 富士に登った左文字の話(一旦中断中)
富士講の愚痴
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道玄坂には小売の店が立ち並んでいた。この坂は宮益坂にある青物市場の帰りに農家が買い物をする風情の街で、その中にある山吉講講元の吉田家の豪邸には立派な門構えがあり、入ると百人単位で集まれそうな広場がでんと広がっていた。そしてその邸内には富士登山に使用するのだろう、多数の提灯や旗が堂々と立てかけられ、諸所に祈祷文のようなものが垂れていた。
この山吉講は江戸で最も栄えた富士講の1つだ。富士講とは富士参拝のための互助組合で、金銭を出し合って持ち回りで選ばれた者が代表として富士登山をする。そして講元はそのための準備やら手配やらを行う。山吉講は多くの枝講を有する東京一番の講なのだそうだ。富士詣にここから講が出発するときは、それは盛大に祝われた。少し前までは。
「おお、わかってくれるのかい」
「勿論です。わたくしも陰陽師ですので」
「ハァー。そういや土御門さんて仰ったなァ。お互い大変だねェ」
声の主はぺちりと額を打ち、嘆息する。
今は山吉講の屋敷に上がらせてもらい、現先達の吉田某の歓待を受けている。太い眉の体の大きな男だ。知った仲でもないだろうに、既に鷹一郎は吉田と打ち解けていた。
そしていつも通り、話はわけのわからない方向に向く。
「こちらの山菱さんは富士で修行を希望なのです。それで富士の現在の様子をお伺いしたく。最初は一人で登るのは厳しいでしょうしお力添えを頂ければと」
「おい」
「へぇ、本気の富士登山かぁ。今どき珍しいねぇ。なかなか体格も良さそうだしね」
山田某は俺を見てウンウンと頷くが、修行など俺は全く聞いていないのだが。
「けれど1人で登るのはやっぱり危険だよぉ。でも今から修行ってのはどうかなぁ、タイミングがね」
「やはり廃仏毀釈ですか」
「そうだな。だいぶん落ち着いてはきた気はするが、一時はもう酷いもんさ。突然下浅間の仁王門が壊されて梵鐘が鋳潰されたと思いきや、富士山の大掃除だなどと抜かしてよ。奴ら富士山中の仏像を叩き壊して回る始末さ。大日寺の仏像だって頭をぶっこわされたし、お八の地名もかわっちまってわけがわからねぇ」
それは数年前のことだいう。話の流れがさっぱりわからん、どうやらしばらく前の廃仏毀釈によって富士の信仰事情もだいぶかわってしまったらしい。思えば俺の実家の東北の方でも多くの寺が打ち壊されたのだ。富士の山とて同じなのだろう。
吉田某は憤懣やるかたないといった風情で不満を並べ立てるが、対する鷹一郎はどこかニコニコと受け流している。
俺は実家の習いで気楽な浄土真宗だが、宗教事情も御一新とともに大きく変化したと聞く。そうすると左文字の村で古い風習が残っているのは確かに奇跡にも等しく、そして33年後には失われているのだろうなという気はした。
生贄を捧げなければ、どうなるんだろうか。聞いた限りでは生贄は長い年月継続された儀式のようだ。それが突然中止されればどうなる?
ひょっとして、富士の噴火?
まさか。噴火というのは自然現象だ。神霊が引き起こすものではない。そうだよな。
「ええ、本当に。酷いものです。けれども村山修験の方々は未だ残って居られるのでしょう?」
「残っているったってほんとど活動してないんじゃないかね。今川様の時代には山全域を自由にしてたもんだが、入会権の許可が降りてからは縮小の一途でさ。それから宝永噴火だよ。大事な村山口がやられちまった。そんで止めはお上の修験道禁止令。今村山は30戸くらいだがみんな還俗しちまってさ、その中で御師をやってる家は1戸くらいしかいないんじゃないかねぇ」
「それはご災難ですねぇ。こちらも3年ほど前に富士講禁止となりましたでしょう?」
「富士講は徳川様の時からちょくちょく禁止されてっからな。けど前は禁止っつってもたいしたお咎めはなかったけどよ、今は捕縛されるやつが出てるからなぁ」
急に吉田某は声を顰める。
「それに富士塚も次々打ち壊されてる。富士講だけじゃなく地蔵尊や道祖神も同じだけどよ。そんなわけで兄さん、修験に出るなら今じゃないほうがいいぜ」
そうして心配そうに俺を眺め上げた。
富士塚というのは東京にもそこかしこにある富士山を模した小山だ。御一新前は女人は富士は登山禁止だったものだから代わりにと登っていたのと、そうでなければ気軽に登れることから人気があったのだが、そういえば最近はあまり見ない気もするな。
「やはり目が相当厳しいのでしょうか。そうすると富士のお八で修行なんて難しいのでしょうねぇ」
「修行、修行ねぇ」
吉田某は頭をぐるりとまわして俺に目を向け、上から下まで眺め下ろす。
「兄さん、そんなに登りたいのかい?」
「いえ」
「そういえば食行身禄師は33回登られたでしょう? みなさんも生涯33回登られることを悲願にされておられる」
「あんたよぉ、33回なんてマジで生涯を通じてやるこったぞ」
吉田某はぽかんと大きく口を開き、そこから呆れた声が飛んできた。
俺は33回も富士に登るのか? それは勘弁してもらいてぇ。それじゃ本当の修験者じゃないか。
「その33回というのは何か特別な理由があるのでしょうか」
「はて、俺らは先達にあやかって登ってるからな。あのな兄さんよ、必ずしも33回登らなきゃならねえもんでもねぇし、そんなに登るのは大変なこったぞ。願掛けでもあるのかい?」
そう言って吉田某は心配そうに俺の目をジッと見た。
完全に俺を除外して進められる話に俺はすっかり困惑していた。どのタイミングで口を出していいのかも、もはやわからん。
左文字の件は願掛けといえば願掛けのような気もしないではないなぁなどと考えていると、当然のように俺ではなく鷹一郎が答えるのだ。
「助けたい人がおりまして、いずれにせよ登らねばならぬのです」
「ふうん。そんなら宍度さんがさんざん人集めしてる富士講社に紛れ込むしかないんじゃないのかねぇ。あそこは集まっても捕縛されないしよ。そんなことを堂々と公言してるしな」
「ふうん、なるほど。ああ、それから最後にお一つお伺いしたいのですが、金明水というものは存在するのです?」
「……あんた陰陽師だもんな。そういう相談なのか」
「藁にもすがる思いなのです」
吉田某は気の毒そうに俺を見る。
本当に何がなんだかわからない。俺は一体何がどうなっていることになっているのだ。仕方がないから俺は口を噤んだまま仏頂面を続けるしかない。鷹一郎に背中をこづかれたから、仕方がなく頭を深く下げた。
「これは本当は秘密だから言っちゃぁ駄目なんだけどよう。正直富士講も長くねぇ気はするしな。今どき修行に登るなんざ、兄さんは他人事に思えねぇ気がするんだよな、うん」
「ご迷惑でなければ、どうしても得たいのです。東北奥宮と奥宮で振る舞われている金明水銀明水は本物ではないのでしょう?」
吉田某は神妙そうに声を顰める。
「ああ。あれは偽物でただの水だよ。けど昔は本当にあったんだ。今もあるかもしれんが、どこにあるのかはもう俺にもわかんねぇ」
「そうですか。誠にありがとうございました」
「いいってことよ。吉田や須走の御師には伝手があるからよ、何かあれば協力するぜ」
深く礼を述べて辞すると、太陽はそろりと西に傾いている。坂を登って見えた富士はまるで金屏風の中に黒くぽっかり浮かび上がるように神々しい。その山頂の少し上を照らす陽が俺と鷹一郎の後ろに長く影を伸ばしている。
「さすが哲佐君です。徳がお高い。どうして哲佐君がいるとこうもトントン拍子に話が転がるのでしょうね」
「俺を除いてな。俺には何がなんだかさっぱりわからん」
「富士講というのは近年最も富士に登っている方々なのです。それはご存知ですよね」
「うん、知ってる」
「最盛期には数万という人間が江戸を発し、富士に登りました」
「すげえな」
遥か遠くの富士に続々と向かう人々の姿が脳裏に浮かぶ。そんなに登りたいものなのかね。
「それを取りまとめ、指揮したのが富士講元の方々で、さらにその中で江戸で最大規模なのが今の山吉講」
「そんなにすげえようには思えなかったが」
「廃仏毀釈というものは宗教者の側に回れば本当に厳しいのですよ。なにせ見知らぬ民衆にある日突然、その全てを叩き壊されても何も言えぬのですから。それに神道以外の宗教は集まるだけで捕縛されかねないのでね」
そういえばあの家の中もガランとしていたな。さすがに信徒の多い講元だ、民衆の襲撃を受けたりはしていないのかもしれないが、今は大っぴらには人を集めづらいのだろう。
富士に登るのは旧暦6月頭から7月末。もう少し先だ。富士講は富士詣での期間の間以外は護摩炊き祈祷をしたり病気快癒の呪いをしたり、信者の家々を回って指導をしたりするらしい。最盛期はさぞ賑わっていたのだろうな、という風情はあの屋敷中に掲げられた提灯や、講紋と講名が書かれたマネキが吊り下げらた壁からも見て取れた。
「さて、それで哲佐君に最初のお仕事です」
「なんだよ急に」
「富士講社に潜入してきてください。紹介状は先程吉田さんから頂きました。宍度さんは江戸の富士講全てを傘下に引き込もうとしていますから、講の先達の紹介といえば嫌とはいえないでしょう」
「ちょっとまてよ、俺は富士講のことなんざ何もしらねえぞ!」
大慌てで断りを入れる。
何かあればご先祖様と仏様に祈るくらいが相応で、宗教なんぞ興味がねぇ。だから信心なんぞたいしてありはしねぇ。そんな俺が宗教に加入なんてまねができるかよ。
「大丈夫ですよ、富士講はとてもゆるいのです。教義はご存知ですか?」
「知らねぇよ」
「富士は日の本の柱です」
「うん」
確かにだんだんと暮れなずむ世界で、一段高いその姿は確かに世界の柱のようにも思われた。
あそこから煙があがるなら、なおさらそう思うだろう。
「これを信仰すれば天下は泰平、国家は安全、さらに自分も家族も幸福です」
「おう」
「以上です」
「はぁ?」
「簡単でしょう?」
「いや、つかそれ宗教なのかよ」
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へいける」
「浄土真宗か」
それだって、俺はさほど詳しくはないのだ。
「それと同じです。単純であればあるほど民衆にウケがいい。小難しい教義なんていらないのです。だから爆発的に広がったのですよ、富士講は」
「そんなものでいいのかね」
心の底からそう思いはしたが、そんな単純なものであれば俺にもなんとかできそうだ。それが顔に出てしまったのだろう。断れない一言が飛んでくる。
「富士講社に赴かれる1日につき1円差し上げます」
「ぐ、む。いや、そんな簡単なのならお前がいけばいい」
「私は調べれば、というより名前から土御門の末であることがバレますからね。宍度某らとは敵対するつもりはありません。それに哲佐君くらい何も知らないほうがよいのですよ」
最後の抵抗は何の意味もなさず、鷹一郎は夕闇に暗く染まる中で返事も聞かずににやりと笑った。このようにして、俺はやはりなにもわからず宗教に入信することになったのである。
この山吉講は江戸で最も栄えた富士講の1つだ。富士講とは富士参拝のための互助組合で、金銭を出し合って持ち回りで選ばれた者が代表として富士登山をする。そして講元はそのための準備やら手配やらを行う。山吉講は多くの枝講を有する東京一番の講なのだそうだ。富士詣にここから講が出発するときは、それは盛大に祝われた。少し前までは。
「おお、わかってくれるのかい」
「勿論です。わたくしも陰陽師ですので」
「ハァー。そういや土御門さんて仰ったなァ。お互い大変だねェ」
声の主はぺちりと額を打ち、嘆息する。
今は山吉講の屋敷に上がらせてもらい、現先達の吉田某の歓待を受けている。太い眉の体の大きな男だ。知った仲でもないだろうに、既に鷹一郎は吉田と打ち解けていた。
そしていつも通り、話はわけのわからない方向に向く。
「こちらの山菱さんは富士で修行を希望なのです。それで富士の現在の様子をお伺いしたく。最初は一人で登るのは厳しいでしょうしお力添えを頂ければと」
「おい」
「へぇ、本気の富士登山かぁ。今どき珍しいねぇ。なかなか体格も良さそうだしね」
山田某は俺を見てウンウンと頷くが、修行など俺は全く聞いていないのだが。
「けれど1人で登るのはやっぱり危険だよぉ。でも今から修行ってのはどうかなぁ、タイミングがね」
「やはり廃仏毀釈ですか」
「そうだな。だいぶん落ち着いてはきた気はするが、一時はもう酷いもんさ。突然下浅間の仁王門が壊されて梵鐘が鋳潰されたと思いきや、富士山の大掃除だなどと抜かしてよ。奴ら富士山中の仏像を叩き壊して回る始末さ。大日寺の仏像だって頭をぶっこわされたし、お八の地名もかわっちまってわけがわからねぇ」
それは数年前のことだいう。話の流れがさっぱりわからん、どうやらしばらく前の廃仏毀釈によって富士の信仰事情もだいぶかわってしまったらしい。思えば俺の実家の東北の方でも多くの寺が打ち壊されたのだ。富士の山とて同じなのだろう。
吉田某は憤懣やるかたないといった風情で不満を並べ立てるが、対する鷹一郎はどこかニコニコと受け流している。
俺は実家の習いで気楽な浄土真宗だが、宗教事情も御一新とともに大きく変化したと聞く。そうすると左文字の村で古い風習が残っているのは確かに奇跡にも等しく、そして33年後には失われているのだろうなという気はした。
生贄を捧げなければ、どうなるんだろうか。聞いた限りでは生贄は長い年月継続された儀式のようだ。それが突然中止されればどうなる?
ひょっとして、富士の噴火?
まさか。噴火というのは自然現象だ。神霊が引き起こすものではない。そうだよな。
「ええ、本当に。酷いものです。けれども村山修験の方々は未だ残って居られるのでしょう?」
「残っているったってほんとど活動してないんじゃないかね。今川様の時代には山全域を自由にしてたもんだが、入会権の許可が降りてからは縮小の一途でさ。それから宝永噴火だよ。大事な村山口がやられちまった。そんで止めはお上の修験道禁止令。今村山は30戸くらいだがみんな還俗しちまってさ、その中で御師をやってる家は1戸くらいしかいないんじゃないかねぇ」
「それはご災難ですねぇ。こちらも3年ほど前に富士講禁止となりましたでしょう?」
「富士講は徳川様の時からちょくちょく禁止されてっからな。けど前は禁止っつってもたいしたお咎めはなかったけどよ、今は捕縛されるやつが出てるからなぁ」
急に吉田某は声を顰める。
「それに富士塚も次々打ち壊されてる。富士講だけじゃなく地蔵尊や道祖神も同じだけどよ。そんなわけで兄さん、修験に出るなら今じゃないほうがいいぜ」
そうして心配そうに俺を眺め上げた。
富士塚というのは東京にもそこかしこにある富士山を模した小山だ。御一新前は女人は富士は登山禁止だったものだから代わりにと登っていたのと、そうでなければ気軽に登れることから人気があったのだが、そういえば最近はあまり見ない気もするな。
「やはり目が相当厳しいのでしょうか。そうすると富士のお八で修行なんて難しいのでしょうねぇ」
「修行、修行ねぇ」
吉田某は頭をぐるりとまわして俺に目を向け、上から下まで眺め下ろす。
「兄さん、そんなに登りたいのかい?」
「いえ」
「そういえば食行身禄師は33回登られたでしょう? みなさんも生涯33回登られることを悲願にされておられる」
「あんたよぉ、33回なんてマジで生涯を通じてやるこったぞ」
吉田某はぽかんと大きく口を開き、そこから呆れた声が飛んできた。
俺は33回も富士に登るのか? それは勘弁してもらいてぇ。それじゃ本当の修験者じゃないか。
「その33回というのは何か特別な理由があるのでしょうか」
「はて、俺らは先達にあやかって登ってるからな。あのな兄さんよ、必ずしも33回登らなきゃならねえもんでもねぇし、そんなに登るのは大変なこったぞ。願掛けでもあるのかい?」
そう言って吉田某は心配そうに俺の目をジッと見た。
完全に俺を除外して進められる話に俺はすっかり困惑していた。どのタイミングで口を出していいのかも、もはやわからん。
左文字の件は願掛けといえば願掛けのような気もしないではないなぁなどと考えていると、当然のように俺ではなく鷹一郎が答えるのだ。
「助けたい人がおりまして、いずれにせよ登らねばならぬのです」
「ふうん。そんなら宍度さんがさんざん人集めしてる富士講社に紛れ込むしかないんじゃないのかねぇ。あそこは集まっても捕縛されないしよ。そんなことを堂々と公言してるしな」
「ふうん、なるほど。ああ、それから最後にお一つお伺いしたいのですが、金明水というものは存在するのです?」
「……あんた陰陽師だもんな。そういう相談なのか」
「藁にもすがる思いなのです」
吉田某は気の毒そうに俺を見る。
本当に何がなんだかわからない。俺は一体何がどうなっていることになっているのだ。仕方がないから俺は口を噤んだまま仏頂面を続けるしかない。鷹一郎に背中をこづかれたから、仕方がなく頭を深く下げた。
「これは本当は秘密だから言っちゃぁ駄目なんだけどよう。正直富士講も長くねぇ気はするしな。今どき修行に登るなんざ、兄さんは他人事に思えねぇ気がするんだよな、うん」
「ご迷惑でなければ、どうしても得たいのです。東北奥宮と奥宮で振る舞われている金明水銀明水は本物ではないのでしょう?」
吉田某は神妙そうに声を顰める。
「ああ。あれは偽物でただの水だよ。けど昔は本当にあったんだ。今もあるかもしれんが、どこにあるのかはもう俺にもわかんねぇ」
「そうですか。誠にありがとうございました」
「いいってことよ。吉田や須走の御師には伝手があるからよ、何かあれば協力するぜ」
深く礼を述べて辞すると、太陽はそろりと西に傾いている。坂を登って見えた富士はまるで金屏風の中に黒くぽっかり浮かび上がるように神々しい。その山頂の少し上を照らす陽が俺と鷹一郎の後ろに長く影を伸ばしている。
「さすが哲佐君です。徳がお高い。どうして哲佐君がいるとこうもトントン拍子に話が転がるのでしょうね」
「俺を除いてな。俺には何がなんだかさっぱりわからん」
「富士講というのは近年最も富士に登っている方々なのです。それはご存知ですよね」
「うん、知ってる」
「最盛期には数万という人間が江戸を発し、富士に登りました」
「すげえな」
遥か遠くの富士に続々と向かう人々の姿が脳裏に浮かぶ。そんなに登りたいものなのかね。
「それを取りまとめ、指揮したのが富士講元の方々で、さらにその中で江戸で最大規模なのが今の山吉講」
「そんなにすげえようには思えなかったが」
「廃仏毀釈というものは宗教者の側に回れば本当に厳しいのですよ。なにせ見知らぬ民衆にある日突然、その全てを叩き壊されても何も言えぬのですから。それに神道以外の宗教は集まるだけで捕縛されかねないのでね」
そういえばあの家の中もガランとしていたな。さすがに信徒の多い講元だ、民衆の襲撃を受けたりはしていないのかもしれないが、今は大っぴらには人を集めづらいのだろう。
富士に登るのは旧暦6月頭から7月末。もう少し先だ。富士講は富士詣での期間の間以外は護摩炊き祈祷をしたり病気快癒の呪いをしたり、信者の家々を回って指導をしたりするらしい。最盛期はさぞ賑わっていたのだろうな、という風情はあの屋敷中に掲げられた提灯や、講紋と講名が書かれたマネキが吊り下げらた壁からも見て取れた。
「さて、それで哲佐君に最初のお仕事です」
「なんだよ急に」
「富士講社に潜入してきてください。紹介状は先程吉田さんから頂きました。宍度さんは江戸の富士講全てを傘下に引き込もうとしていますから、講の先達の紹介といえば嫌とはいえないでしょう」
「ちょっとまてよ、俺は富士講のことなんざ何もしらねえぞ!」
大慌てで断りを入れる。
何かあればご先祖様と仏様に祈るくらいが相応で、宗教なんぞ興味がねぇ。だから信心なんぞたいしてありはしねぇ。そんな俺が宗教に加入なんてまねができるかよ。
「大丈夫ですよ、富士講はとてもゆるいのです。教義はご存知ですか?」
「知らねぇよ」
「富士は日の本の柱です」
「うん」
確かにだんだんと暮れなずむ世界で、一段高いその姿は確かに世界の柱のようにも思われた。
あそこから煙があがるなら、なおさらそう思うだろう。
「これを信仰すれば天下は泰平、国家は安全、さらに自分も家族も幸福です」
「おう」
「以上です」
「はぁ?」
「簡単でしょう?」
「いや、つかそれ宗教なのかよ」
「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土へいける」
「浄土真宗か」
それだって、俺はさほど詳しくはないのだ。
「それと同じです。単純であればあるほど民衆にウケがいい。小難しい教義なんていらないのです。だから爆発的に広がったのですよ、富士講は」
「そんなものでいいのかね」
心の底からそう思いはしたが、そんな単純なものであれば俺にもなんとかできそうだ。それが顔に出てしまったのだろう。断れない一言が飛んでくる。
「富士講社に赴かれる1日につき1円差し上げます」
「ぐ、む。いや、そんな簡単なのならお前がいけばいい」
「私は調べれば、というより名前から土御門の末であることがバレますからね。宍度某らとは敵対するつもりはありません。それに哲佐君くらい何も知らないほうがよいのですよ」
最後の抵抗は何の意味もなさず、鷹一郎は夕闇に暗く染まる中で返事も聞かずににやりと笑った。このようにして、俺はやはりなにもわからず宗教に入信することになったのである。
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