落蝉 ホラー版

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落蝉 ホラー版

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 大正11年の夏は茹だるように暑かった。
 中天へ登る太陽を追い立てるように熊蝉がワシャワシャと鳴き続ける。
「今日も本当に暑いですね。勘弁してもらいたいよ」
 手代の吉三きちざが呟く。その少々下品な口調は生まれの悪さもあるし、俺の駿河屋するがやの教育不足にもあるだろう。俺が何も言わぬことに不満を覚えたようで、不機嫌そうな臭いが漂った。
 降り注ぎ続けた熱射は、小瀧川おたきがわ沿いで漸く落ち着く。とはいえ、昨今のこの川の風情は良いとはいえなかった。焼け尽くすような猛暑だ。昨日の夕刊では東京でも華氏96度摂氏35.6度を超えたというから、全国どこも暑い。日露戦争の後に世情は悪化の一途をたどり、貧民が雲霞のごとく水と涼を求めて小瀧川を訪れ、水に落ちて死ぬ者も多いと聞く。死体となれば疫病対策に片付けるようだが手が回らぬらしく、吉三は鼻を押さえている。
 ふと、橋の袂がキラリと光り、強い死の気配を感じて目を細めた。
「いい匂いだ」
「またまた。旦那様はそういうことを仰るから、気味悪がられるんですぜ。ちょっと、旦那様」
 それは丁度、足先に転がっていた。貧民が何人か欄干にもたれて死んでいる。周りには家財道具か、薄汚れた塵が溜まっている。気力も尽きたのか、まるで消毒されるように顔を空に向け、ただその真っ白な顔を太陽の光に焦がすがままにしていた。その開きっぱなしの瞳が、陽光をきらきらと反射していた。
「臭っせ。早く過ぎちまいましょう。反物に臭いが移っちまいます」
 その言葉で、死体の前で立ち尽くしていたことに気づいた。振り返れば吉三は相変わらず鼻をつまんでいる。
 呉服は俺の仕事で、吉三たちを食わせるには必要だ。しかしこれほど純粋な死の匂いを嗅ぐのはいつぶりだろう。大抵の死体はごちゃごちゃと情念が絡み合い、生臭く近寄りがたい。
 ふと、一筋汗が垂れた。つられて見上げる。きっとこのカンカンと照りつける太陽が菌を滅するのと同時に、厭らしいものを消し去っている。
「旦那様!」
「わかったわかった」
「それにしても嫌ですねぇ、最近は貧民ばかりでさ」
 俺が足を進めたことに安心したのか、吉三は軽口を叩く。

 目指す神津新地しんちは眼の前だ。楼閣で仕立ての仕事を承っている。気は乗らない。遊郭とは本当に臭い所だ。けれども気味が悪いらしい俺が得られる仕事など、あの場所くらいだ。全てを金と引き換えに受け入れるあの場所では、仕事をする限り、俺をも受け入れる。
 この仕立ての仕事自体は嫌いではない。それに俺には兄の不幸とともに転がり落ちてきたこの家業以外、すべき仕事はなかった。注文を取り、好みを伺い、採寸を終わらせ、いくつかの荒書きを見せて漸く何枚かの着物の注文を取りまとめ、吉三が再び反物を風呂敷につんで抱え上げた時、大門の鐘がなる。
 暮六つ午後6時。大勢の人間が押し寄せてるのに逆らい西を眺めれば、日はすっかり籠屋山かごややまに落ち、残光が山際を淡く茜に染めていた。
 いまだ華やかで明るい往来を暗き方に進みこの辺りだったかとふと足を止めた。そこら中に漂う死の匂いから、あの透き通った臭いを嗅ぎ分けようとした。そんなことが本当にできるのかはわからなかった。試したこともない。けれどもう一度、あの匂いを嗅ぎたいと思ってふと傍らを見ると、来た時と同じようにその男は顔を真上に上げていた。目はぼんやりと開き、その口元は閉じていたが、目元や鼻筋にはぶんぶんと小蝿がたかっている。その瞳がぎろりとこちらを向いた、気がした。
「まだ死んで、いないのか」
 思わず漏れ出た呟きにそれは何の反応もしめさず、その首筋に手を当てれば、浮かれるように暑かった。しばらく触れていれば気づいたようにトクリと波だち、その口がぱかりと開いて、新しい死の香りが溢れた。
「これから、死ぬのか」
 その香りは、微動だにしない目鼻からもだらだらと漏れているように思われた。
「君が死ぬところをみたい」
 思わずそう尋ねたのと同時に、何かの僅かなバランスが崩れたのだろう。どさりと地に崩れ落ちた。首に触れたことによって僅かに体内に残っていた呼気が肺腑から溢れたのかもしれないが、その様は死にかけた蝉が地に落ちるようにも見え、そして最早、ピクリとも動かない。じっと眺めていれば吉三が帰りを急かす声と共にカナカナと蜩の声が響く。その音は頭の中でけたたましく反響を繰り返し、断末魔のように増大し、そしてふっと、音は途絶えた。世界が死んだように。
 風が吹き、香りを散らす。
 最早これは誰にも顧みられることはない。その投地を俺は肯定と捉えることにした。
「吉三、これをもって帰れ」
「だ、旦那様、何を仰るんです?」
 心底驚いた臭いがする。
「こいつが死ぬのを見たい」
「勘弁してくださいよ」
 吉三は心底嫌そうに男に手を伸ばし、すぐに引っ込め、再考を求めるように俺に視線をくれた。
「こいつ、臭っせぇんですもん」
 吉三は俺に背かない。だから置いていけば、連れ帰るより他にはない。
 家に就いて三十分もすれば、吉三が耐えられぬといった風情であれを背負って戸口をくぐる。その様子に女中も顔をしかめる様に、汚いのだと改めて気づいた。蝿もたかっていたくらいだ。そのあたりが、昔から俺にはよくわからん。
「こいつを洗え」
 今度は女中から悲鳴が上がる。
「吉三、お前が洗え」
「旦那! 殺生な!」
「駿河屋が欲しいのだろ」
 そう呟けば、吉三はぐぅと呻き、苦虫を噛み潰すように俺を睨む。

「旦那、終わりました」
「随分かかったな」
「そりゃあもう、垢にまみれておりましたので。今は客間に布団に寝かせています。ようござんすね!」
 ぶすくれた吉三の声と入れ違いに、女中が夕膳を運ぶ。縁側を見れば暗く、日が落ちて久しい。この家は変化がない。音が、そもそも人が少ない。俺と吉三と、あとは下男と女中の夫婦だけだ。少し前は家も店も賑わっていた。
「あのう、旦那様。お連れの方の食事はどういたしましょうか」
「食事?」
「ええ。大分弱られておりまして、粥でしたら作りますが」
 吉三が忌々しそうに女中の肘を突く。吉三は早く追い出したいのだ。
「その方が良いか」
「そりゃぁまあ」
 女中に指示を与えれば、吉三の困惑げな臭いが漂う。
「不満か」
「そりゃぁ、まぁ」
「お前が気に事ではない」
 吉三と女中が部屋から出て改めて膳の上を眺めれば、米と香の物、焼魚と芋の煮付け。ひとおり食べて再び文机に向かえば、いつのまにか女中が現れ膳を運び出す。あの男は今は寝ているらしく、粥は後で出すという。
「随分と気にしてくれるのだな」
「ええ、人が増えるのはいつぶりでしょうねえ」
 女中の嬉しそうな言葉に思い当たる。この家から人は去るばかりだった。
 けれどあれはそれほど長くは保たぬだろう。あれほど濃い死の香りを漂わせていたのだ。

 俺には昔から、不思議な力があった。
 人の死が匂いとしてわかる。人は多かれ少なかれ、死の匂いを纏う。夏特有の強い緑や土の香りに似ている。そして間もなく死ぬ、という刻には体中から強い死の香りが溢れ始める。不可逆的に死に足を踏み入れた者からは殊更だ。
 あれからは確かに、死の匂いがした。そうして不思議なことに、それ以外の匂いがしなかった。
 純粋な、死匂。
 ドクリと心臓が揺れ動く。
 気づけばランプと供に寝静まった廊下を進んでいた。部屋住みの吉三も、屋敷外の小屋で暮らす女中らも、もう寝てしまったのだろう。静かで、自身の足の音だけがひたひたと廊下に響く。
 客間の襖を開けた瞬間、大きく生きを吸い込んだ。間違いようのない死の香りに満ちている。
 ああ。こいつはもうすぐ死ぬ。
 そう思って見下せば、僅かな月明かりが部屋を照らしていた。縁側は開け放たれ、薄い風が吹いている。幾分気温が下がったらしい。
 蚊帳の隙間に足を踏み入れれば、ハァハァと早い息の音が聞こえた。じっと耳を澄ませてもそれ以外音はない。寝ているらしい。傍らに座り額に触れれば熱をもっていた。喉元に触れれば脈は早い。その髪をかき上げれば、こめかみからよい匂いがする。不純な臭いはしなかった。ということは、これは随分長い間、考え事をしていないのだ。感情を動かしていない。どのくらいの時間、朦朧としていたのだろう。昼間を思い浮かべても、生きているようには思えなかった。
 もう目を開けることはないのだろうか。

 ずっと気になっていた。
 この匂いは、何だ。全ての人間が持つこの匂いは、死が近づくほど濃厚になる。最早体が匂いを保持できないとでもいうように、ぶわりと体内から漏れ出てくる。今も。
 う、とそれは小さなうめき声を濡らした。気づけば、その顳顬を嗅いでいた。
 顔を離せば長いまつげが揺れ、げふりと喉が鳴り、ごふごふと続き、生臭い苦しみの臭いが溢れた。
 枕元の吸口を取り上げ、頭を僅かに持ち上げて口に含ませる。持ち上げた頭は汗でぐたりと湿っていた。喘鳴に合わせて水が布団に飛び散り、手ぬぐいで拭き取る。浴衣もじとりと湿り、重い。
 ふうーふうーとゆっくりと熱い息が漏れるのをしばらく眺める。
「……ぁ」
「無理に喋らなくていい。寝ていたまえ」
「……」
 ふらふらと膜を貼ったような視線が彷徨う。
 手桶の水に手ぬぐいを湿らせて絞り、汗を拭く。首筋まで拭い、汗を拭こうと抱え上げれば酷く軽かった。布団もぐしょりと濡れている。明日、吉三に頼むほうがよいだろうと再び寝かせた。額に手ぬぐいを乗せれば呼気が落ち着く。
 それにしても何と強い香りだ。兄が行った旅順も、この香りに満ちていたのだろうか。
 俺の兄、駿河屋の跡継ぎは日露戦争に従軍し、死んだ。
 出立前、兄から強い死の匂いがした。帰ってこないと思った。けれど俺は何も言わなかった。言えなかった。
 旅順では多くが死んだ。戦争で死ぬ者はどんな匂いが交じるのだろうか。
 それにしても。
 男の顔に触れる。熱い。苦しそうな呼吸を除き、ピクリとも動かない。再び寝たのか。耳をその口に近づけた。先程漏れた苦しみの臭いは既に立ち消えていた。僅かに開いた口元からはただ、香炉のように死の香りだけが立ち上る。

 いつのまに寝ていたのか、ぺたぺたという音に顔を上げれば、襖が開いて吉三が現れた。
「旦那様、お部屋にいらっしゃらないので探したんですよ」
 不満そうな臭いがする。
「随分大事にされているようで」
「お前だけだよ。俺を気味悪がらん奴は」
 それで少しは気を取り直したらしい。
 俺は人の持つ感情の発する臭いが我慢できない。吉三からは強い欲の匂いがするが、それだけだ。俺に向けられる事もなく、いずれこの店をやると言えば居座った。
 駿河屋は明暦から続く呉服屋だ。兄が戦死した直後、両親も追うように死に、残されたのは出来損ないの俺だけだった。誰も彼もが駿河屋は潰れると思った。俺は昔から愛想がなかった。何故そのような仏頂面をするのかと言われたが、人と話す時、その悪臭に笑うことなどできなかった。だから番頭に破格の値で暖簾を分け、その結果残ったのが箸にも棒にもかからぬ吉三と行きどころのない女中の夫婦だけだった。
 部屋で帳面をつけていれば、襖の外から吉三の声がし、それから死の匂いが漂った。
「入れ」
 吉三に肩をかりて俺の前に現れたそれは、新しい浴衣を着ていた。そうして、吉三が座らせようとして、そのまま床に倒れ込むのを吉三が慌てて支える。
「旦那様、こいつが是非お礼を述べたいと」
「寝ていればよい」
 客間からの移動が堪えたのだろう。はぁはぁと一息ごとに大きく死の臭いを吐くそれに目を細めた。今にも死にそうだ。
「俺が君に言ったことは覚えているか」
 記憶を探るような香りがする。
「死、を」
「そうだ。気に病む必要はない。君が死ぬ所を見る為に連れ帰っただけだ」
 一息吐くごとに魂を削るように息が荒くなり、良い香りがする。
「では、私をこの、部屋、に」
 げふと蹲り咳き込む背中を擦れば体は鶏ガラのように細く、熱を持っていた。やはり、感情の臭いは感じられなかった。ただ、心地よい死の香りが部屋に満ちてゆく。
「何のつもりだ」
「いつ、死ぬ、か」
 少しの混乱にふわりと感謝と恩義という感情の臭いが混じり混む。吉三が吸口をもって走り込んでくる。
「死に急ぐ真似はよしてくだせぇ」
「吉三。こいつは私の部屋で見るから布団をもってこい」
「はぁ?」
 吉三から再び漂う疑念の臭いに辟易する。これが嫌だから人付き合いなどしたくないのだ。
「客間との往復はお前も大変だろう?」
 自分から漂う嘘の臭いに気持ち悪くなる。男の瞳がきらきらといつまでも焦点が定まらぬのに気がついた。
「目が見えていないね」
 男は僅かに頷いた。路上でずっと太陽を見つめていたのだ。道理だろう。だから余計、ただ光を反射するだけの瞳がきらきらと輝いて見えたのだろうか。
 俺の言うまま吉三は布団を敷き、男を横向きに寝かせる。吉三が吸口を含ませれば、小さな声でありがとうございますと絶え絶えに礼を述べた。
「悪ぃ奴じゃぁねえんだよなあ」
 安心したのか限界なのか、男は意識を失った。男は一日の大凡は寝て、薄い粥をすするときだけ身を起こして吉三が甲斐甲斐しく与えていた。小鳥の世話をするようだ。
 その日から、隣に布団を敷いて寝るようになった。毎晩濃い死の匂いに包まれて横たわるのは妙な気分だ。まるで一緒の墓に入っているようだ。
「君はいつごろ死ぬ」
「ぁ」
「声を出さなくてよい。私はただ……死ぬのを見たい」
 柔らかい髪をなでれば、何も映さない瞳が瞬き、僅かに首肯する。少しの覚悟の香りがした。
「ただ、自然に死んでくれればいい」
 困惑の臭いが混ざり、すぐに消えた。病状が思わしくないのか他の感情を持つ余裕もないのだろう。その体からは奇妙なことに苦しみを恨む臭いはしなかった。ただ、その死について諦めているようだった。陽炎のように全身から立ち昇る苦しみが次々と空中に昇華していく以外は、小さな感謝のような感情をぽつぽつと浮かべるだけだった。俺だけが見えるその小さなアブクのような感情は、まるで水槽の底に落とした万華鏡を外から覗いているように不確かに揺れた。

 四日経ち、様態は益々悪化した。時折痙攣する。昼が過ぎ、その日も暑く油蝉がジリジリと鳴いていた。蝉の一生は短い。夏中鳴いているように聞こえるあれらも、順番に羽化しては鳴いて死ぬのを繰り返しているだけだ。その生の期間は一定で、元に戻ることはない。
 こいつも同じ様に悪化の一途を辿っているはずだ。もうすぐ死ぬ。
「橋で死んだ方が楽だったかもな」
 この家に来たばかりに死期が遅まった。かひゅかひゅと息を吐く首が左右に揺れる。そろりと手指が伸ばされ、はくはくと咳の間に唇が開閉する。何か言っているのだろうが、音はでない。苦しそうな吐息の中でも強い感情は湧き出なかった。ただ、吐息で死を撒き散らしている。その体が完全に死ぬまで。
「一度医者にみせてはどうですかい?」
 吉三に小さく耳打ちする。
「熱中症だ。熱はもう下がらん。お前はもう、来るな」
 吉三の瞳から様々な匂いが溢れた。
 これは死ぬ。だから俺は拾ってきた。
 人は生まれてからずっと、死に向かって進む。蝉が一度地上に出れば、死ぬしか無いように。ただ人はその生の長さから様々な物事に意識が移ろう。死が視界から見えにくくなる。けれど俺の目にはそれが見えていた。人は死ねば、いつもゴトリと音がする。死の瞬間、香りが膨らんで人間を包みこむ。死に近づくに連れ強い恨みや悲しみ、執着といった感情がその死の香りを絡め取り、まるで悪い油が食材にべとべと絡まるように嫌な臭が刻みつけられる。骨になっても臭いは消えることはない。死んだ体に残る死は悪臭でしか無く、仕方がなくその肉を焼き、目に触れぬように土の下に埋めるのだ。その穢らわしき何かは、地を伝って地獄へ降りていく。それが業というものかもしれない。
 父の時は酷かった。兄への未練や苦しみといったものが妄執となり、酷い臭いを放っていた。その瞬間が嫌いだった。
 けれどこいつは。今もハアハアと荒い息を吐くこいつからは、そんな嫌な感情の臭いはしなかった。こいつが死んだ時、ひょっとしたら死の香りは嫌なものに絡め取られずにそのまま全て天に登っていくのではないか。

 翌日、肌は血を失ったかのように白く、息も最早浅くしか紡げない。口にできるものは割れた唇の表面を湿らせる綿紗ガーゼの水分くらいで、水も飲めぬ。それでもその指先を僅かに伸ばし、瞼越しに瞳がふらふらと動いた。そっと指先に触れれば、体全体を包む苦痛の感情の隙間から、何かが僅かにシャボン玉のように浮かび上がって弾けて消えた。以前、幸せや悲しみの小さな感情をのせていた泡の中には、すでに何も含まれていないかった。
「もうすぐ死ぬ」
 ふわり、と透明なアブクがあがる。
 それ以上、話しかけるべきか悩んだ。最早返事はない。ただその頬に触れ、指先に触れるに連れてぷつぷつと何かが湧き上がるのを感じ、まだ生きていることを知る。けれどももうすぐ、死ぬ。死の香りは益々膨らむ。夜に蚊帳の中に二人、純粋な死の香りにとぷりと包まれる。

 美しい。

「旦那様」
 蚊の泣くような声に目を開ければ、瞳がうっすらと開いていた。
「喋るな」
 その力もないだろう。
 感謝などに意味はない。結局、土に埋められる。死は美しい匂いを変質させ、美しいはずの全てをコールタールのように包みこんでただの汚泥と化し、無意味なものにする。結局全ては幻想だ。いつまでも鳴いているように思われる蝉は全て、地に落ちる。それはきっと、俺にも、全ての人間にも訪れる。
 ふつりと透明なアブクが浮かぶ。
「ありがとうございます」
 その聞こえてるのか否かも不明な音とも揺らぎともわからない何かが俺の鼓膜を揺らす。
 ゴトリと音がした。
 その瞬間、ぶわりと死の匂いが広がる。目や鼻や口や耳の全てから濛々と死は吹き上がり、そうして突然、プツリと途絶えて消えた。最早何の音もしなかった。呆然とした。
 首筋に触れれば、少し前まで火傷するほどに熱く感じられた熱すら失われ、既にヒヤリと冷たかった。蟀谷に鼻を埋める。首筋に。肩口に。何の匂いもしない。最後にその唇を開き、体の中に何も残ってないことを知る。
 窓の外を眺めた。藍色に染まる空には入道雲が立ち上がっていた。あいつはきっと、死の匂いと供にあの窓から外に出て、空に登ったのだ。何の感情にも穢されることはなく。気づけば頬が濡れていた。
「吉三。死んだ」
 襖がそっと開いた。しばらく前から居ただろう吉三から、沈痛な匂いが漂う。目を落とせば、その体は哀れに細かった。
「葬儀はどうされますか」
 人は死ねば弔うものと思い出す。けれどもこの、ただそのまま残された抜け殻のような体に土に埋める穢れはない。全ては天に登った。
「捨ててこい」
「捕まっちまいますよ」
 嫌そうな臭いがする。
「焼いて……灰は捨ててこい」
 呆れたように肩をすくめ、頭をかいた。
「せめて、名前はなんです?」
「知らん」
 全てはもう、終わったことだ。
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