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2章 僕らと新谷坂高校の怪談 ~恋する花子さん~
アルチンボルドと騙し絵の気持ち悪さ
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いつもお読みいただき、ありがとうございます。
今日のテーマは、「第二章 恋する花子さん」からめて『だまし絵』についてです。
どうしてだまし絵に騙されるのかとか、そういう話を書こうと思います。ニワカなので間違いはご容赦ください。
2章にでてきたアルチンボルドっていうのは画家の名前です、詳しい話は後程。
そういえば、『恋する花子さん』は恋話的な気もするので、『口だけ女』みたいな姿の詳細描写はしないぞ!
あ、でも折角だからこのコーナーの最後に入れようかな。
1.エッシャーの不可能図形
だまし絵といって思い浮かぶのは何でしょうか。
なんとなくエッシャーが浮かぶ人が多い気がします。
登ってるのにいつの間にか下ってるやつ。
エッシャーは多分だまし絵界でトップクラスに有名な画家さんです。
エッシャーが使っている手法は不可能図形。
でもこれ言葉で説明するのはすごく難しいな。絵なら簡単なんだけど。
不可能図形っていうのはその名の通りユークリッド空間では成立が不可能な図形です。
登ってるのにいつの間にか元に戻ってる階段(ペンローズの階段)とか、三角形の影が交差してなんだかメビウスの輪みたいになったやつ(ペンローズの三角形)という、シンプルでありえないやつ。
幾何学図形ってなんかロマン感じますよね。
特にペンローズの三角形とか階段とか、不可能図形はロマン。
エッシャーはどっちかっていうと工学とか幾何学的な視点の面白さの人です。
人の脳には情報を補完する能力があって、エッシャーの絵は過去に見た景色とかの記憶から色々と紐付けて不可能な立体を脳内で画像処理して見せている。
つまり脳の高度な計算処理によって、自動であたかもありえない風景がありえるように見える。
でも、ここには心の動き自体はあんまり関係ない。だからなのか、気持ち悪さも感じにくい気がする。オート発生。
この幾何学的な錯視をリアルで再現しようっていう試みも、結構昔からあります。
不可能図形って不可能に見えても単視点で見るだけなら、現実世界で再現は可能。
固定の視点で見る必要があるけど、様々なパーツを複層的に組み合わせることによって、特定の場所から見ると、あたかも不可能図形が現実空間に再現できているように見える。うまく説明できなくてごめんなさい。
これは錯視関係の美術展ではよく企画されているけどリアルで見るとものすごく不思議な感じがして楽しい。
「不可能図形 再現」で検索すれば結構でてきます。
錯視・錯聴コンテストっていうのが毎年行われていて作品がHPで更改されているけど、これを見るとすごく精神的に不安になれる。
手近なところでは杉原厚吉という先生が錯視の立体工作の本を出しています。結構簡単に作れるので、興味があるなら面白いです。昔、東京の淡路町で錯覚美術館てのを明治大学がやってて、結構面白かったからまた復活しないかな。
2.エドガー・ルビンのルピンの壺
もう一つ錯視といえば有名なのは、1つの絵で二つの見方ができるもの。
女の人にもおばあさんの横顔にも見える絵、とか、ドクロにも月にも見える絵、とかの類型があるけど一番有名なのは「ルビンの壺」かな。
これは「壺」と「二人の人物が向かい合っている様子」に見えるやつ。
ああ、あれか、と思い浮かべて頂けたでしょうか。
エッシャーはどっちかっていうと工学とか幾何学的な視点の面白い錯視だけど、ルビンの壺は認知心理学の観点からエドガー・ルビンという心理学者が作ったものです。
ルビンの壺に働くのは心理的影響。図地反転図形っていうんですが、壺と顔のどちらかを図(内容)と認識すると自動的に他方が地(背景)と認識されて浮かび上がり、意図的に認識を切り替えないと再反転しないという性質がある。
つまり選択的に見るものを選んでる。壺と人の顔を同時に見ることができない。
初見でどちらを見るかは、見たいものを見るっていうバイアスも働いてる気がするけど。
ちょっと話は飛ぶけど確証バイアスについて。
確証バイアスってのは簡単に言うと、人は見たいものを見る、ってやつ。
たとえば、「これはこうだ」と思い込んで物を見ると、その見方が優先されて、反対の考えに基づくものはみえづらくなる。
どちらかというとこれは3章に絡む話だな。そっちで書いてもよかったのかも。
例えば肝試しに行くと幽霊がいると思ってる人は何でも幽霊に見えて、全然みえない人は見えない現象。
幽霊見たり枯れ尾花。幽霊がいると思う人は幽霊にしか見えないし、いないと思う人は枯れ木にしか見えない。
本当はどちらかはおいといて。
順番が行ったり来たりするけど、後でもちょっと出てきます。
3.視覚認識の誤り
ところで今回のテーマの「アルチンボルド」は作中で怪異の比喩で出したものです。
アルチンボルドはかなり写実的な野菜とか動物の絵を組み合わせて人の形に見えるように書いた画家です。横顔が多いかな。この間国立西洋で美術展をやっていた記憶がある。
見れば、あぁ、ってなると思う。
そういえばそもそも今回は元々は歌川国芳で例える予定でした。モロなので。
でも歌川国芳っていっても絵がパッと浮かばないんだよな。歌川国芳も人の顔を沢山の人で描いた人。有名なのは、怒った顔の人の絵を上下ひっくり返すと泣いてる顔に見えるやつかな。
次は人の顔をどうやって認識するかっていう話。
ここからは昔読んだ本の記憶でうろ覚えのところがあるので、間違いがあれば指摘してもらえると嬉しいです。
まず、第一段階目として、人は顔を構成するパーツの存在、目と口の有無で人の顔がどうかを自動的に認識する。その後、第二段階目として、パーツの配置を記憶と照らして誰の顔かを判別するといわれています。
まず第一段階目について。
シュミラクラ現象。これは点が三つあれば人の顔に見えるってやつ。
(∵)?
天井のシミがおばけにみえるというので有名です。
何故こんな機能があるかというと、相対するものの脅威を判別するため。脳に本能的に仕込まれた機能と言われいます。なお、この段階は「相貌失認」という人の顔の判別ができない疾病の人でも効果が働くようで、やっぱりいわゆる本能的なものだと思います。本能って何? ってのはさておき。
二段階目、次は顔のパーツの配置で個人を見分ける。
これは学習の結果で後天的に身に着けるもので、ここの精度は人によって結構違う。「よく似てる人」の範囲が人によって違うのは、どのパーツを中心に見てるかとかどの精度で見分けてるかにもよるんじゃないのかな。
ところで無作為なパターンに意味を見出すってのは視覚に限らず人間の認知としておかしなことじゃないわけです。例えば三回連続でルーレットで赤が出たら次は赤か黒か迷うでしょう? でもディーラーがいかさまして無ければ、考えるまでもなく確率は半々。こういう物事に意味を与えようとする現象はアポフェニアと呼ばれます。
で、それが視覚等に影響を及ぼすものにパレイドリア現象というのがあります。シュミラクラ現象が一段階目に働くとすれば、これは二段階目に働く効果。
具体的には、木とか雲とか石とかが人や動物の顔に見える現象。
これはさきほどのルビンの壺の図地反転図形とは違って、木とか雲であると認識した上で人や動物に見えます。
人というのは案外ざっくりものを見てる。
全部のものをいつも注視して脳内に形作っていると情報量が多すぎてすごく疲れるから、記憶の中の似たパターンに置き換えて自動で再現している。でもパターンで違うものを持ってきた場合に『これ違うだろ』みたいに脳の認知機能としては混乱が発生してしまうと、つまり気になる。
その『これ違うだろ』っていうのがあるから、全体が木だとか雲だとかってのも同時に認識する。
人の顔に見えても木とか雲だってのは理解できるから、面白いなと思っても気持ち悪くはない。
それに木とか雲ははっきり物としても認識できるから、心理的にも『ああなんかエラー出てんな』ってことで納得しやすいんじゃいかなと思う。あと『これは見間違いだ』って知識とかでも補完できる気がする。
では例えば人の顔に見える木が苦しそうに見えたりしたらどうでしょうか。
惑わされてはいけません。それはパレイドリア効果にバイアスが加わっただけで、ただの木です。
でもその木の顔が苦悶に満ちているように見えるなら、意味を見つけ出そうという心理の動きによって気持ち悪さが発生しているんだと思います。
先の認知バイアスや選択理論よろしく、その辺で人が死んだとか祟られるとか聞いたり幽霊を見たいと思っていれば、そういう知識フィルタやバイアスが影響してより意味を見つけやすいかもしれない。
心理学で選択理論ってのがあります。
選択理論では人が物を見るときは、いくつものフィルターを通して物を見ていると考える。
知識と価値観とか、脳内でそういった複数のフィルターを通した結果を認識するので、同じものを見ていても人によって見え方が違うっていうもの。だから同時に複数人が何かを見ても、見え方が違ってもおかしくないって思う。作中でこういう相対主義的な考え方をするのが藤友君だな。
そういう脳の画像処理機能と心的な心理機能のせめぎあいがアルチンボルドの絵の気持ち悪さの原因なんじゃないかな、とちょっと思ってる。
本当に呪いがかかっている可能性?
木は苦しく見えても苦しくなく見えても、呪いがかかっているときはかかっているだろうし、木の見え方に関係ないのじゃないかな。
むしろ、普通にしか見えないのに呪いがかかっている木の方が恐ろしい気がします。
でも呪いにかかる時は視覚や聴覚から刺さるという話も聞くので、やっぱり見間違いと思った方が健康的かもしれませんね。
4.アルチンボルドの絵
ここからは特に根拠があるものではない自分の感想です(エッセイっぽい)。
絵という媒体は「見る側の受け取り方の自由さ」があるものだと思う。
さすがに「山の絵」を見て「きれいな海ですね」っていうのはどうかと思うんですが、女の人の絵を見て「楽しそうですね」というのと「悲しそうですね」っていうのは両立する。そういう自由が元来与えられてる。
アルチンボルドの野菜でできた人の顔の絵をリアルで机の上に並べて人の顔にみえるようにしたとしても、多分そんなに気持ち悪さはない気がする。結局これ野菜だねっていうことで納得できるから。
でもアルチンボルドの絵は絵で、絵ってのは紙だから「野菜自体が存在する」方向で脳は納得できない。けれども野菜は写実的で、個別パーツは野菜以外に見えようがない。脳は自動で全体を「人の顔」に変換する。ここに書かれているのは野菜なのか顔なのか、納得できる理由が見つからなくて気持ち悪く思うんじゃないかなって思う。
自分の脳内では絵の見方は自由だからどっちかに確定できるわけじゃないというバイアスが働いている。
人の顔にしか見えないと認識したり野菜にしか見えないと認識すれば違和感が減るのかもしれません。
アルチンボルドの絵のなかでも野菜を描いた絵だと目のパーツを認識しやすくて、だまし絵だなって思えて知識的にも視覚的にも誘導されやすいからいいんだけど、個別に「目」を持つ動物を組み合わせた『大地』とかはなんていうか、個人的にすごく気持ち悪い。この辺は個人の認識にもよるので、他の方は違うのかもしれません。
アルチンボルド に「庭師/野菜」という絵があります。一つの見方では野菜でできた人の顔に見え、逆さにするとポッドに入った野菜にしか見えない。野菜verは野菜にしか見えないからすごく安心できる。
野菜verだと違和感は全然ないから、パレイドリア現象のいい例だって言われています。人verは脳がかなり無理してるんだろうな、と思う。
アルチンボルドの絵は詳細すぎて、デフォルメとかで何かの比喩と思おうとか誤魔化すのもきついから。
そもそもアルチンボルド 、わざと遠近感潰してますよね。その辺も気持ち悪いのかな。部屋に飾ってたら心理的にマイナスの影響が出そうな気がする。
そんなこんなのアルチンボルドですが、結構シリーズがでています。
アルチンボルドは1500年代のイタリアの画家ですが、王様にも進呈されるほどの人気がありました。絵の奇抜さもあったけど、博物学的な価値も高かったのです。
アルチンボルドの生きた時代は大航海時代。世界は広がって、様々なものが持ち込まれた。
でも植物とか生き物は保存ができないから、アルチンボルドが詳細に描いたものは学術的にも価値が高かったようです。
また、当時は「驚異の部屋」いわゆるヴンダーカンマーといわれるけど、珍品奇品を集めるのもはやってた。これが近年の博物館の前身にもなったといわれている。
5.本編の次回予告
今回もあまりまとまりませんでしたが、今日はここまでで。
今後もお読みいただけると、大変嬉しいです。
2章では東矢一人は今回の怪異に好意を持つにつれてバイアスがかかり、認識が歪んでいき、花子さんの容姿は正しく認識できなくなっていく、という裏設定にしてあるので、後半になるにつれ花子さんの描写が不自然に非グロになるのはわざとです。
藤友君は召喚者なので最初から強いつながりがある。だからもともと花子さんによって認識が歪められて花子さんの望む姿を見ている。
切ない話にグロはないよな、という理由もあるけど。
冒頭に書いてた第2章の怪異の姿を下に書いて〆てみます。マイルドにする前に書いたのを消すのがもったいないからコピペ保存していたもの。途中で書くのやめたからこなれてないけど。
坂崎さん視点ならこれなんだろうな、坂崎さんパないな。
書いといてなんだけど、悪趣味だからスルー推奨です。
じゃあまた~。
【東矢君と坂崎さんの見た花子さんの姿】
僕が見た花子さん、それは生々しい人体のパーツが複雑に絡まり、それぞれが苦しそうに身悶えをしているものだった。
正面に突き出たヌメヌメとした海藻に絡みとられた腕は苦しみを紛らわすように宙を強く掴み、その隣にはギョロギョロと忙しなく動く左目以外の顔のパーツが全て削ぎ落とされた筋肉もあらわなピンク色の肉塊がびくびくと蠢動し、そのたびに生々しい傷口から赤黒い血溜まりを噴き出していた。その顔のすぐ下には半ば腐敗し赤茶色に変色したじくじくした足が突き出ていて、ゴカイだかムカデだかわからない虫が体液の残滓を引きずりながら皮膚から現れまた戻り、隣のまだ新しくみえる肉溝にその領土を広げようとしている。
これらの様々な部位の皮膚は癒着し引きつれ、少し動くたびに破れては新たに絡みつき、ごぷごぷと音を立てて終わらない苦しみを強調する。それが誰かが強い力で握り込めたようにぐちゃぐちゃに絡まりあって、窮屈に悲鳴を上げていた。
今日のテーマは、「第二章 恋する花子さん」からめて『だまし絵』についてです。
どうしてだまし絵に騙されるのかとか、そういう話を書こうと思います。ニワカなので間違いはご容赦ください。
2章にでてきたアルチンボルドっていうのは画家の名前です、詳しい話は後程。
そういえば、『恋する花子さん』は恋話的な気もするので、『口だけ女』みたいな姿の詳細描写はしないぞ!
あ、でも折角だからこのコーナーの最後に入れようかな。
1.エッシャーの不可能図形
だまし絵といって思い浮かぶのは何でしょうか。
なんとなくエッシャーが浮かぶ人が多い気がします。
登ってるのにいつの間にか下ってるやつ。
エッシャーは多分だまし絵界でトップクラスに有名な画家さんです。
エッシャーが使っている手法は不可能図形。
でもこれ言葉で説明するのはすごく難しいな。絵なら簡単なんだけど。
不可能図形っていうのはその名の通りユークリッド空間では成立が不可能な図形です。
登ってるのにいつの間にか元に戻ってる階段(ペンローズの階段)とか、三角形の影が交差してなんだかメビウスの輪みたいになったやつ(ペンローズの三角形)という、シンプルでありえないやつ。
幾何学図形ってなんかロマン感じますよね。
特にペンローズの三角形とか階段とか、不可能図形はロマン。
エッシャーはどっちかっていうと工学とか幾何学的な視点の面白さの人です。
人の脳には情報を補完する能力があって、エッシャーの絵は過去に見た景色とかの記憶から色々と紐付けて不可能な立体を脳内で画像処理して見せている。
つまり脳の高度な計算処理によって、自動であたかもありえない風景がありえるように見える。
でも、ここには心の動き自体はあんまり関係ない。だからなのか、気持ち悪さも感じにくい気がする。オート発生。
この幾何学的な錯視をリアルで再現しようっていう試みも、結構昔からあります。
不可能図形って不可能に見えても単視点で見るだけなら、現実世界で再現は可能。
固定の視点で見る必要があるけど、様々なパーツを複層的に組み合わせることによって、特定の場所から見ると、あたかも不可能図形が現実空間に再現できているように見える。うまく説明できなくてごめんなさい。
これは錯視関係の美術展ではよく企画されているけどリアルで見るとものすごく不思議な感じがして楽しい。
「不可能図形 再現」で検索すれば結構でてきます。
錯視・錯聴コンテストっていうのが毎年行われていて作品がHPで更改されているけど、これを見るとすごく精神的に不安になれる。
手近なところでは杉原厚吉という先生が錯視の立体工作の本を出しています。結構簡単に作れるので、興味があるなら面白いです。昔、東京の淡路町で錯覚美術館てのを明治大学がやってて、結構面白かったからまた復活しないかな。
2.エドガー・ルビンのルピンの壺
もう一つ錯視といえば有名なのは、1つの絵で二つの見方ができるもの。
女の人にもおばあさんの横顔にも見える絵、とか、ドクロにも月にも見える絵、とかの類型があるけど一番有名なのは「ルビンの壺」かな。
これは「壺」と「二人の人物が向かい合っている様子」に見えるやつ。
ああ、あれか、と思い浮かべて頂けたでしょうか。
エッシャーはどっちかっていうと工学とか幾何学的な視点の面白い錯視だけど、ルビンの壺は認知心理学の観点からエドガー・ルビンという心理学者が作ったものです。
ルビンの壺に働くのは心理的影響。図地反転図形っていうんですが、壺と顔のどちらかを図(内容)と認識すると自動的に他方が地(背景)と認識されて浮かび上がり、意図的に認識を切り替えないと再反転しないという性質がある。
つまり選択的に見るものを選んでる。壺と人の顔を同時に見ることができない。
初見でどちらを見るかは、見たいものを見るっていうバイアスも働いてる気がするけど。
ちょっと話は飛ぶけど確証バイアスについて。
確証バイアスってのは簡単に言うと、人は見たいものを見る、ってやつ。
たとえば、「これはこうだ」と思い込んで物を見ると、その見方が優先されて、反対の考えに基づくものはみえづらくなる。
どちらかというとこれは3章に絡む話だな。そっちで書いてもよかったのかも。
例えば肝試しに行くと幽霊がいると思ってる人は何でも幽霊に見えて、全然みえない人は見えない現象。
幽霊見たり枯れ尾花。幽霊がいると思う人は幽霊にしか見えないし、いないと思う人は枯れ木にしか見えない。
本当はどちらかはおいといて。
順番が行ったり来たりするけど、後でもちょっと出てきます。
3.視覚認識の誤り
ところで今回のテーマの「アルチンボルド」は作中で怪異の比喩で出したものです。
アルチンボルドはかなり写実的な野菜とか動物の絵を組み合わせて人の形に見えるように書いた画家です。横顔が多いかな。この間国立西洋で美術展をやっていた記憶がある。
見れば、あぁ、ってなると思う。
そういえばそもそも今回は元々は歌川国芳で例える予定でした。モロなので。
でも歌川国芳っていっても絵がパッと浮かばないんだよな。歌川国芳も人の顔を沢山の人で描いた人。有名なのは、怒った顔の人の絵を上下ひっくり返すと泣いてる顔に見えるやつかな。
次は人の顔をどうやって認識するかっていう話。
ここからは昔読んだ本の記憶でうろ覚えのところがあるので、間違いがあれば指摘してもらえると嬉しいです。
まず、第一段階目として、人は顔を構成するパーツの存在、目と口の有無で人の顔がどうかを自動的に認識する。その後、第二段階目として、パーツの配置を記憶と照らして誰の顔かを判別するといわれています。
まず第一段階目について。
シュミラクラ現象。これは点が三つあれば人の顔に見えるってやつ。
(∵)?
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何故こんな機能があるかというと、相対するものの脅威を判別するため。脳に本能的に仕込まれた機能と言われいます。なお、この段階は「相貌失認」という人の顔の判別ができない疾病の人でも効果が働くようで、やっぱりいわゆる本能的なものだと思います。本能って何? ってのはさておき。
二段階目、次は顔のパーツの配置で個人を見分ける。
これは学習の結果で後天的に身に着けるもので、ここの精度は人によって結構違う。「よく似てる人」の範囲が人によって違うのは、どのパーツを中心に見てるかとかどの精度で見分けてるかにもよるんじゃないのかな。
ところで無作為なパターンに意味を見出すってのは視覚に限らず人間の認知としておかしなことじゃないわけです。例えば三回連続でルーレットで赤が出たら次は赤か黒か迷うでしょう? でもディーラーがいかさまして無ければ、考えるまでもなく確率は半々。こういう物事に意味を与えようとする現象はアポフェニアと呼ばれます。
で、それが視覚等に影響を及ぼすものにパレイドリア現象というのがあります。シュミラクラ現象が一段階目に働くとすれば、これは二段階目に働く効果。
具体的には、木とか雲とか石とかが人や動物の顔に見える現象。
これはさきほどのルビンの壺の図地反転図形とは違って、木とか雲であると認識した上で人や動物に見えます。
人というのは案外ざっくりものを見てる。
全部のものをいつも注視して脳内に形作っていると情報量が多すぎてすごく疲れるから、記憶の中の似たパターンに置き換えて自動で再現している。でもパターンで違うものを持ってきた場合に『これ違うだろ』みたいに脳の認知機能としては混乱が発生してしまうと、つまり気になる。
その『これ違うだろ』っていうのがあるから、全体が木だとか雲だとかってのも同時に認識する。
人の顔に見えても木とか雲だってのは理解できるから、面白いなと思っても気持ち悪くはない。
それに木とか雲ははっきり物としても認識できるから、心理的にも『ああなんかエラー出てんな』ってことで納得しやすいんじゃいかなと思う。あと『これは見間違いだ』って知識とかでも補完できる気がする。
では例えば人の顔に見える木が苦しそうに見えたりしたらどうでしょうか。
惑わされてはいけません。それはパレイドリア効果にバイアスが加わっただけで、ただの木です。
でもその木の顔が苦悶に満ちているように見えるなら、意味を見つけ出そうという心理の動きによって気持ち悪さが発生しているんだと思います。
先の認知バイアスや選択理論よろしく、その辺で人が死んだとか祟られるとか聞いたり幽霊を見たいと思っていれば、そういう知識フィルタやバイアスが影響してより意味を見つけやすいかもしれない。
心理学で選択理論ってのがあります。
選択理論では人が物を見るときは、いくつものフィルターを通して物を見ていると考える。
知識と価値観とか、脳内でそういった複数のフィルターを通した結果を認識するので、同じものを見ていても人によって見え方が違うっていうもの。だから同時に複数人が何かを見ても、見え方が違ってもおかしくないって思う。作中でこういう相対主義的な考え方をするのが藤友君だな。
そういう脳の画像処理機能と心的な心理機能のせめぎあいがアルチンボルドの絵の気持ち悪さの原因なんじゃないかな、とちょっと思ってる。
本当に呪いがかかっている可能性?
木は苦しく見えても苦しくなく見えても、呪いがかかっているときはかかっているだろうし、木の見え方に関係ないのじゃないかな。
むしろ、普通にしか見えないのに呪いがかかっている木の方が恐ろしい気がします。
でも呪いにかかる時は視覚や聴覚から刺さるという話も聞くので、やっぱり見間違いと思った方が健康的かもしれませんね。
4.アルチンボルドの絵
ここからは特に根拠があるものではない自分の感想です(エッセイっぽい)。
絵という媒体は「見る側の受け取り方の自由さ」があるものだと思う。
さすがに「山の絵」を見て「きれいな海ですね」っていうのはどうかと思うんですが、女の人の絵を見て「楽しそうですね」というのと「悲しそうですね」っていうのは両立する。そういう自由が元来与えられてる。
アルチンボルドの野菜でできた人の顔の絵をリアルで机の上に並べて人の顔にみえるようにしたとしても、多分そんなに気持ち悪さはない気がする。結局これ野菜だねっていうことで納得できるから。
でもアルチンボルドの絵は絵で、絵ってのは紙だから「野菜自体が存在する」方向で脳は納得できない。けれども野菜は写実的で、個別パーツは野菜以外に見えようがない。脳は自動で全体を「人の顔」に変換する。ここに書かれているのは野菜なのか顔なのか、納得できる理由が見つからなくて気持ち悪く思うんじゃないかなって思う。
自分の脳内では絵の見方は自由だからどっちかに確定できるわけじゃないというバイアスが働いている。
人の顔にしか見えないと認識したり野菜にしか見えないと認識すれば違和感が減るのかもしれません。
アルチンボルドの絵のなかでも野菜を描いた絵だと目のパーツを認識しやすくて、だまし絵だなって思えて知識的にも視覚的にも誘導されやすいからいいんだけど、個別に「目」を持つ動物を組み合わせた『大地』とかはなんていうか、個人的にすごく気持ち悪い。この辺は個人の認識にもよるので、他の方は違うのかもしれません。
アルチンボルド に「庭師/野菜」という絵があります。一つの見方では野菜でできた人の顔に見え、逆さにするとポッドに入った野菜にしか見えない。野菜verは野菜にしか見えないからすごく安心できる。
野菜verだと違和感は全然ないから、パレイドリア現象のいい例だって言われています。人verは脳がかなり無理してるんだろうな、と思う。
アルチンボルドの絵は詳細すぎて、デフォルメとかで何かの比喩と思おうとか誤魔化すのもきついから。
そもそもアルチンボルド 、わざと遠近感潰してますよね。その辺も気持ち悪いのかな。部屋に飾ってたら心理的にマイナスの影響が出そうな気がする。
そんなこんなのアルチンボルドですが、結構シリーズがでています。
アルチンボルドは1500年代のイタリアの画家ですが、王様にも進呈されるほどの人気がありました。絵の奇抜さもあったけど、博物学的な価値も高かったのです。
アルチンボルドの生きた時代は大航海時代。世界は広がって、様々なものが持ち込まれた。
でも植物とか生き物は保存ができないから、アルチンボルドが詳細に描いたものは学術的にも価値が高かったようです。
また、当時は「驚異の部屋」いわゆるヴンダーカンマーといわれるけど、珍品奇品を集めるのもはやってた。これが近年の博物館の前身にもなったといわれている。
5.本編の次回予告
今回もあまりまとまりませんでしたが、今日はここまでで。
今後もお読みいただけると、大変嬉しいです。
2章では東矢一人は今回の怪異に好意を持つにつれてバイアスがかかり、認識が歪んでいき、花子さんの容姿は正しく認識できなくなっていく、という裏設定にしてあるので、後半になるにつれ花子さんの描写が不自然に非グロになるのはわざとです。
藤友君は召喚者なので最初から強いつながりがある。だからもともと花子さんによって認識が歪められて花子さんの望む姿を見ている。
切ない話にグロはないよな、という理由もあるけど。
冒頭に書いてた第2章の怪異の姿を下に書いて〆てみます。マイルドにする前に書いたのを消すのがもったいないからコピペ保存していたもの。途中で書くのやめたからこなれてないけど。
坂崎さん視点ならこれなんだろうな、坂崎さんパないな。
書いといてなんだけど、悪趣味だからスルー推奨です。
じゃあまた~。
【東矢君と坂崎さんの見た花子さんの姿】
僕が見た花子さん、それは生々しい人体のパーツが複雑に絡まり、それぞれが苦しそうに身悶えをしているものだった。
正面に突き出たヌメヌメとした海藻に絡みとられた腕は苦しみを紛らわすように宙を強く掴み、その隣にはギョロギョロと忙しなく動く左目以外の顔のパーツが全て削ぎ落とされた筋肉もあらわなピンク色の肉塊がびくびくと蠢動し、そのたびに生々しい傷口から赤黒い血溜まりを噴き出していた。その顔のすぐ下には半ば腐敗し赤茶色に変色したじくじくした足が突き出ていて、ゴカイだかムカデだかわからない虫が体液の残滓を引きずりながら皮膚から現れまた戻り、隣のまだ新しくみえる肉溝にその領土を広げようとしている。
これらの様々な部位の皮膚は癒着し引きつれ、少し動くたびに破れては新たに絡みつき、ごぷごぷと音を立てて終わらない苦しみを強調する。それが誰かが強い力で握り込めたようにぐちゃぐちゃに絡まりあって、窮屈に悲鳴を上げていた。
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