春と冬

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冬をわたしに side紫帆

4月20日 葭始生

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4月20日 晴れ時々雨 葭始生あしはじめてしょうずるころ
 よわよわしく漂う葦がそっとその芽を吹き始める季節。
 春は記憶に残らない。記憶に残るのは夏へのいざない。

 とうとう来た。大義名分が。
 熱力学の第1回目の授業の日。
 授業をとっていれば質問をしに行っても何ら問題はない。話しかけても不自然はない。
 今日は朝早くに自然に目を覚ました。私の頭より先にわたしの心臓があの人を求めたのだろう。ふうと息を整えて身だしなみを整える。変なところはないだろうか? 鏡の前でキョロキョロと確認する。わからない。あまり自分の容姿を気にしたことがなかったから。困惑する。

 その教室を開けるとざわめきに溢れていた。見ると9割5分は男子学生で、おそらく女性というだけで私に視線が集まった。あの人にもこんなふうに私を見てほしい。
 そう思って真ん中の端あたりの目立たない席に着いた。万一あてられたら何も答えられないから。熱力学の薄い教本を買ってみたけど、文系の私には何が何だかさっぱりわからなかったから。

 予鈴がなって少しあと、カラリと教室の扉が開き運命の人が現れた。
 心臓が射抜かれる。やはり入学式の時に会ったあの人だ。パズルのピーズがパチリとはまるように、私の世界は現実と整合した。私の運命はあの人に出会うものとして形作られていて、あの人は私のものなのだ。それははるか昔から決められていたこと。おそらく私が生まれる前から?
 そんな思いを抱いているのに、あの人は教室の席の方を一切見なかった。淡々と講義を始め、レーザーポインタでプロジェクタに写された資料を示す。あの人は誰も見ていなかった。私も見ていなかったけど、この教室の他の誰をもあの人は視界に写さなかった。そのことに妙な安心を覚えた。

 授業は淡々と進み、意味がわからないながらも私の耳はその音声を記憶する。心地よく耳に染み入るその声。でも他の人の耳にも届いていると思うと少し腹立たしい。あの人の全ては私のものなのに。
 そうしているうち、まもなく90分が経過しようとしたとき、ふいにあの人は私を振り向いた。目があった。少し驚いたようにその瞳孔を広げたのがわかった。私の視線はその目に吸い込まれ、何も写さなくなった。全くの静寂。全くの暗闇。世界のすべてがこの視線に収束する。優しく暖かく凍りつく時間。
 気がつくとその人は私の目の前にいて、私にそっと口づけた。その瞬間、まるでスイッチが押されたかのように世界は再び色を取り戻して、私は呼吸を再開した。

「私は春夜 紫帆はるよ しほ
「僕は雪村 成ゆきむら なり

 なりって読むんだ。珍しい名前。
 それからまたキスをした。私を気遣うような優しいキス。ふいに窓の外から雷が聞こえる。冬を追いやる春の不確かな嵐。その稲光は私を不安定にさせた。成の目を見る。目があう。その目は冬の湖のように静かで私を固定する。優しそうな瞳。成にとっても私は運命だったんだ。深く納得した。
 成は私の手をとって微笑んだ。ここが私の居場所。
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