Take On Me

マン太

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29.過去

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波瑠子はるこが来た?」

 部下の報告にきよしは思わず聞き返したが、直ぐにその来訪の意味に得心し。

「…分かった。通せ」

「は」

 部下は波瑠子を連れに下がる。
 波瑠子は岳の母親であり、潔の元恋人でもある。
 このタイミングで来たと言うことは、言いたい事は一つだろう。たけるの跡目相続。
 それ以外にない。元々、この仕事を手伝うのは腹違いの弟亜貴あきの成人までと言う約束だった。
 当時、岳がそれを了承したと知って、波瑠子は初めて向こうから連絡を取って来た。
 ひとりで必死に育てて来た息子だ。それが一時的にでもヤクザ者になるなど、納得がいかないのだろう。
 しかし、久しぶりに会った波瑠子は、岳の決めた事に文句はないと言った。
 ただ、弟の亜貴が成人した際は、岳を必ず自由にする事を誓わされた。
 岳は写真家として自立しようとしたばかりだったのだという。苦労して掴んだ夢を自分の勝手で潰さないでほしいと口にした。
 私達の二の舞いにさせないで欲しいと。

 二の舞いか。

 潔は昔を思いをはせる。波瑠子と出会った当時の事を。
 波瑠子はまだ大学生になったばかり。それなりに裕福な家庭のひとり娘だった。
 潔は二十代後半。自分の未来に明るい兆しを見つけられず、暗澹たる思いでいた。
 そんな時、波瑠子と偶然出会い、互いにぶつかり合いながらも惹かれ合い、それは波瑠子が二十歳になるまで続き。
 そして、波瑠子が妊娠する。波瑠子は大学を中退した。
 自分の家業に彼女を巻き込みたくなかった潔は、子どもを認知したものの結婚する事はなく。
 それまで潔の家業を理解し、頻繁に潔の家にも訪れていた波瑠子は、当然結婚するものと思っていた。覚悟を持って付き合っていたのだ。
 しかし、潔は一方的に別れを告げ、詰め寄る波瑠子を家から締め出し、それ以降、会うことはなかった。
 波瑠子はその後、実家にも帰らず、ひとり岳を出産し立派に育て上げ。
 潔は毎月、養育費として波瑠子の口座に相当の金額を振込んだが、それらには一切手をつけずにいたらしい。
 岳が成人した日、父親の素性は伏せ過去の出来事を話し、通帳に貯めてあったそれを父親の気持ちだと手渡した。
 潔は岳にとって、架空の人物のようだっただろう。
 それが突然、二十一才になったある日、呼び出され、将来の選択を迫られた。
 それまで放っていたも同然、岳が応じるかは賭けだった。しかし、もし断られれば、幼い亜貴を誰に託すのか。
 幸い自分の病は手術で一旦は治まったが、いつ再発するか分からない。亜貴の成人まで生きられるかは不透明だった。
 託すのはくすでも良かったが、その家族、特に弟の素行が良くなかった。
 そんな者がいるところへ託すことは出来ない。それに、亜貴には『家族』の中で暮らさせたい。
 それに比べ、岳はまともだった。呼び出す前、その素行も調べ上げ。
 地元の国立大に進学し、山岳部に所属。最後には部長もしていた。
 母親の苦労を見てきたせいか、何事も弱音を吐かず、どんな状況でも乗り越える強い人間に育っていた。
 人にも優しい。女性より男性を恋愛の対象にしている事も知ったが、構わなかった。
 相手が異性であれ同性であれ、真面目に付き合っていることが伺えたからだ。

 岳なら亜貴を託せる。

 そうして、岳を自分の都合とは分かって呼び出した。

 二の舞い。そうかも知れない。

 自分の都合で何もかも切り捨て進んできた。相手の思いもすべて見ないよう蓋をして。
 岳は今回の相続で、夢も大切に思う存在も失う事になる。
 しかし、岳以外に継げる者はいない。
 楠にあんな事が起きなければ、とは思うが後の祭りだ。組長を襲った者をそこへ据えるのは岳や自分を慕う者に取って、認められない事だろう。

 もう、これは決められた道なのだ。

 そう思うしかなかった。

三嶋みしま様です」

 部下が波瑠子を伴って座敷に現れる。
 開けられた襖の向こうに懐かしい姿があった。前に会ってから八年は経つ。しかし、五十歳手前の彼女は未だその美しさを保っていた。
 それは作り上げられ取り繕われたものではなく、内面から磨き上げられた美しさに他ならない。
 やはり、自分は波瑠子を好いているのだと思う。亜貴の母親も好ましい人物ではあったが、それは妹に対する様な情で、波瑠子に向ける強い情とは異なっていた。
 強く惹かれ合った者は、いつまでもそれを忘れる事は出来ないのだろうか。
 潔が促すと、座卓の向かいへと座る。そこへ部下がお茶を運んできた。

「久しぶりね。随分老けたとはお互いに言いっこなしね」

 部下が下がると徐ろに口を開く。

「そんな事はない。俺は言えるが三嶋さんは何も変わっていない…」

「イヤね。波瑠でいいわ。早速、本題に入りたいのだけど…私が何を言いに来たか分かる?」 

「見当はつく。岳の跡目相続のことだろう。だが、式はもう明日だ。それに他に道はない。波瑠には約束を守れず済まないが、これは岳も了承済みだ。分かって欲しい」

「随分、勝手なのね…」

 波瑠子の視線も口調も刺すように冷たい。

「私は言ったわ。二の舞いは止めてと。貴方も誓ったはず。それを反故にするなんて、随分男らしくない事をするのね」

 潔は継ぐ言葉もない。

「岳はあなたの持ち物じゃないわ。あの子は優しい。頼まれれば余程道理に叶っていないこと以外、受け入れる。あなたの無理な願いも、結局の所は受け入れた。でも、それも期間が決まっていたからこそ。それを今後、永遠になんて…。あの子を殺す気?」

「…そんなつもりはない」

「でも、あの子は自分を殺すわ。あなたやあなたのもうひとりの息子の為に。決してそのせいとは言わないし、認めないでしょうけど。それに、岳には思う相手がいると真琴から聞いたわ。それも切り捨てさせて…。組を存続させる事がそこまで大事なの? どんな犠牲を払っても続ける事に意味があるの?」

 潔はただ黙って波瑠子を見返す。

「あの子は、岳は身を削ってそのうち破滅するわ。あなたはもう終い支度なのでしょうけど、岳はこれから先がある。だいたい、岳が継いでも後は続かないのは知っているんでしょう? 岳の恋愛対象は同性よ。そこでまた跡目相続の問題が起きるわ。だったらあなたの代で決着を着けるべきでしょう?」

 すると、潔は視線を落としたまま。

「別に子どもを産ませる相手に恋愛感情を抱かなくてもいい。それくらい岳も分かっているはずだ。恋愛なら他で幾らでもするといい。だが、子どもは残してもらう。それが継ぐものの努めだ」

「──!」

 波瑠子は身体を乗り出し、潔の頬をはった。痩せた頬に赤い痣が浮かぶ。

「あなた…。岳をなんだと思っているの? ひとりの人間なのよ? そこまでさせるなんて…。子ども産む女性にも岳に対しても失礼だわ。酷過ぎる…」

 波瑠子の声は震える。

「それも役目の一つだ。組を潰すわけにはいかない」

 潔はきっぱりとそう言い切った。波瑠子は潔を見つめたまま。

「人の人生を犠牲にしてまで続ける意味がある? 人は幸せになるために生きているわ。それを無くして生きる意味があるの? 待っているのは破滅だけだわ。あなた、今まで生きて来て幸せを感じた事はある?」

 波瑠子の強い眼差しに、潔は視線を下げると、

「…ある」

 力のない声でつぶやいた。

「波瑠と…波瑠といた時。あの時だけだ…」

「……」

 波瑠子は気勢を削がれ押し黙る。
 そう。たった数年の思い出が今の自分の救いになっている。

 愛し、愛された日々。

 薄れて行く記憶を手繰り寄せ、必死に留め。
 あれがなかったら、今の潔はとっくに行くところまで堕ちていただろう。

「組が潰れれば、組員も露頭に迷う。組織も荒れる。放り出すわけにはいかない」

「あなたはそれでいい。けれど、同じ思いを岳にもさせる気? それがどれ程辛いことか身を持って分かっているのでしょう? 私は味あわせたくないわ」

 波瑠子は視線を潔から逸らさない。と、そこへ部下が襖越しに声を掛けてきた。

「若頭が到着しました」

「分かった。待つように──」

「いいえ。ここへ通して。どうなるにしろ岳の本心を聞くべきよ」

 波瑠子はそれを遮って、潔と対峙する。それに折れるように。

「…分かった。通せ」

 暫くのち、岳が姿を現した。
 雨に降られたのか、髪も身体もしとどに濡れている。しかし、その表情は何処か晴れやかにも見えた。若い頃の、波瑠子と付き合っていたあの頃を思い起こさせる。

「着替えたほうがいいだろう」

 そう声をかければ、穏やかな声が返ってくる。

「このままでいいです。で、母さんどうしてここへ?」

 岳は分かっていて、あえて尋ねてきたのだ。来訪の意味などはとっくに知れている。
 岳はすでに腹を括っている。いくら波瑠子が言っても聞かないだろう。

「あなたが一度決めたことは曲げないこともよく分かってる。けど、あえて言わせてもらうわ。跡を継ぐのはやめなさい。これは私の経験からの助言だわ。…今ならまだ、大切なものを失わずいられる。引き返せるわ」

 岳は潔と波瑠子とを交互に見た後。

「俺は親父や母さんと同じ道を歩まない。力は足りないけれど、俺はちゃんと大切なものを失わない選択をするつもりだ。…いや、もうした」

「それは?」

 波瑠子は目を瞠る。岳は少しだけ照れくさそうに笑むと。

「何時になるかは分からない。けれど、俺は大切に思う奴と一緒に生きる選択をする。失くすのが怖くて、一度は遠ざけようとした。けれど、それは消極的な決断だった。俺は俺のやり方であいつが安全であるよう、最善を尽くす。何かが起こったとしても、傍に一緒にいた方がずっといい。それに気付いたんだ」

「岳…」

 呟いたのは潔だった。それは二人にはなかった選択だった。いや。波瑠子はそれを選ぼうとしたが、潔が突っぱねたのだ。

「親父は跡継ぎを心配するだろう。けれど、俺に跡目を任すならもうそこは言いっこなしだ。大事なのは血を残すことじゃない。組を守ることだろう。俺の裁量でどうとでもなる。俺はそういう腹の括り方をした。だから、母さん。俺は全て無くしたわけじゃない。心配してくれてありがとう。でも、俺はこれでいいんだ」

「あんたは…。っとうに。全部自分で決めて。でも、出来れば私はこの世界にあなたを置きたくない。あなたにそれは似合わない。それに、ここで終わりにしたいの。これは、私と潔さんの問題だったのだから。結局あなたを巻き込んで…。あなたと潔さんを会わせるべきじゃなかったわ…」

「母さん…」

「岳。あなたはもう少し我儘になっていいのよ? 充分、苦労してきたのだから。ここでの勤めも弟の面倒もあなたはずっと見てきた。それに、独り身の私をずっと気遣って支えてくれて来た。もう、充分なのよ…」

 それに岳も押し黙る。潔は継ぐ言葉がなかった。自分は何もしてこなかったのだから。

 俺は果たしてこのままでいいのか。

 波瑠子を傷つけ、亜貴の母親に寂しい思いをさせ。跡を継がせるはずだった楠さえ放逐し。今はまた、岳を、大和を犠牲にしようとしている。
 自分の行いは全て誰かを傷つけているように思えた。
 誰も幸せにはなっていない。

 しかし──。

「潔さん。あなたはどう思うの?」

 波瑠子の問いに、潔は眼差しを漸くあげ、波瑠子をまともに見つめた。
 その瞳には厳しさだけでなく、どこか哀しみが含まれている気がした。

「俺は…」

 と、そこへ岳の端末が着信を知らせた。

「すまない。真琴からだ。少し話す」

 表示を見た岳が、部屋を出て席を外す。潔は言いかけた言葉を飲み込み、今一度、思案した。

 俺は、どう思うのか。

 先ほどと同じ言葉を、また繰り返せるのか。
 岳の苦労は想像に難くない。自分を押し殺しずっと生きてきたのだ。それを今後も続けさせようとしている。
 それでも、あの青年、大和がいれば岳は救われると言うが。
 襖の向こう、廊下で話す岳の声が高く、険しくなったのに気付いた。
 暫くして、岳は戻ってきたが、先ほどとは打って変わってその顔色は蒼白だった。

「どうした?」

 潔の問いに、岳は動揺を抑えつつ答える。

「大和が、刺されて…病院に」

「大和君が? 状態は?」

 潔が思わず身を乗り出す。波瑠子はそれが岳の大切な人物なのだと理解したらしい。その表情が険しくなる。

「…重体だ」

 岳の口から洩れた声は、弱く視線は虚ろだった。
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