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5.おかえりなさい
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夕方、夕食作りに取り掛かっていると、玄関でガチャリとドアノブを引く音がした。
俺はペットの犬猫よろしく、その音を聞き逃さず玄関に顔を出す。
見れば亜貴がむっつりとした顔で入ってきた所だった。
人恋しくなっていた俺はついはしゃいだ子どもの様に飛び出す。
「おかえり!」
いや~、こういうの久しぶりだなぁ。
親父は出ていくのも帰ってきたのもいつか分からず、いつもこの瞬間を逃していたのだ。
「……」
亜貴は靴を脱ぐのも忘れて、ぽかんとこちらを見ていた。
「なんだ? どうかしたか?」
問えば、我に返ったのかすぐに気まずげに顔を背け。
「…別に」
相変わらずの可愛げだ。俺は気にせず続ける。
「お前、先風呂使ったらどうだ? 汗かいて来たんだろ?」
「なにそれ」
「いつも、寝る前にはいってんのか? 食事前に入るのも気分いいぞ? すっきりするし。後回しにすると面倒くさくなる奴もいるらしいからな? お前もそのくちか?」
「…うざ」
「うざくて結構だ。いいから入ってこい。風呂から上がったら飯にする。これは岳からの命令だと思え」
「なんで? 兄さん、そんなこと言ったの?」
「岳は俺を兄と思えと言っただろう? だからだ。亜貴チャンは大好きなお兄ちゃんには背かないんだろ? だったら俺にだって背かない筈だ」
「っとに、うざいな…」
そう言い残し、ジロリと睨んだ後、亜貴は自室へと向かった。
まあいい。
入るか入らないかは本人に任せるしかない。
結構、早めに入ると気分がいいんだけどなぁ。外の汚れもすっきり落とせて気持ちいし。
かくいう俺は、バイトの合間にささっとシャワーで済ませる口だったが。
いつかのんびり風呂につかるのが夢だった。だからたまの休みに近くの銭湯につかりにいくのが至福の時で。
ああ、いつか各地の温泉に浸かって回りたい…。
それは俺のささやかな夢だった。
湯治とでもいうのか。気に入った温泉に暫く滞在するのだ。風呂に入って飯食って。ちょっと散策してまた風呂に入って食って寝て。
いいなぁ。
そうこうしていれば、廊下をドタバタと走る音がしてリビングのドアが乱暴に開かれた。
「おい! 俺の部屋、勝手に掃除した?!」
「おいじゃない。俺は大和だ。そうだ。掃除したぞ。お前の汚れた部屋の埃を吸い取ってやった。だが、ものは一ミリも動かしてねぇ」
いや、一旦はどけたが、すべて元通りにおいたはず。
「勝手にすんなよ! やるなら言えよ!」
「はいはい。分かったよ。次から言う。ただ、掃除機は毎日かけるからな? 洗濯物はちゃんと脱衣所にある籠にいれとけよ? 部屋汚くしてんじゃモテねぇぞ?」
「モテなくったっていいっていってんだろっ! なんなんだよ、お前!」
「大和だ。俺は君の兄貴に雇われた家政婦だ。文句があるなら兄貴に言え。風呂入ったら飯だ」
「っ!」
先ほどと同じことを繰り返すと、それ以上、口答えはしてこなかったが、すっかり頭に血が上ったようで。
それでもどしどし廊下を踏み鳴らしつつ、浴室に向かった音が聞こえてきた。
案外、素直なのか?
拗ねて部屋に閉じこもってハンガーストライキでもするかと思ったが。
俺は一つ息をついてから、再び夕飯作りに取り掛かった。
今日は男子に受ける事間違い無しのハンバーグだ。これを嫌いという奴は少ないだろう。
ただ、中身は半分キノコでかさましし、カロリーオフにしている。若いから気にしなくてもいいだろうが、肥満は大敵だ。
それでなくとも、今まで適当に食べてきた様子から、少しカロリーは抑えたほうがいいだろう。デブにしてやってもいいと思ったが、それはそれで可愛そうな気もして。
あれだけ、見てくれはいいんだからな?
それを保護してやるのも年上の役割だろうと思い直した。岳も弟を肥満児にはしたくないだろう。
そういえば、今晩は岳、顔を見せんのかな?
特に帰って来るとは言っていなかったが。
一応、明日の弁当分と、今晩の分とを作って取り置いておいた。来なければそのまま冷凍して俺の昼飯にでも回せばいい。
とりあえず、皿を二枚用意していると。ガチャリと玄関ドアのノブの音が聞こえてきた。
ここでも俺は素早く反応をしめし、玄関先に出迎えに出る。
丁度、ドアを開けて岳が入ってきた所だった。背後には洲崎の姿も見える。岳は心なしか疲れているようにも見えた。
「おかえり。お疲れさんだったな?」
「……」
そう声をかければ、岳も亜貴と同じようにこちらに顔を向けて固まった。その背後で洲崎が唐突に肩を揺らして笑い出す。
相変わらずぼうっとしている岳に。
「んだよ。ただいまとか言えねぇのかよ? 亜貴といい、そういう習慣ねぇのか?」
「あ、いや…。ただいま」
「おかえり。洲崎さんもな? 二人とも夕飯は?」
洲崎は玄関先で立ったまま。
「俺はここで失礼する。まだ事務所にもどって仕事があるからな。…でも、機会があればお邪魔させてもらってもいいか?」
最後のセリフは岳に向けられている。岳は靴を脱ぎながら置いておいたスリッパに履き替えると。
「ああ。いいさ。…じゃあな」
「ふふ。じゃあ、また明日」
洲崎は俺にブリーフケースを手渡すと、謎の笑みを残してそこを去って行った。
俺は岳とともに玄関先でその背を見送りつつ。
「これからまた仕事かぁ。案外、大変なんだな? ヤクザも」
「ヤクザは職業じゃないって言ったろ? てか。なんか新鮮だな…」
「何が?」
その言葉に俺は傍らに立つ岳を見上げた。
相変わらず三つ揃えのスーツが嫌というほど似合っている。髪型は朝より幾分乱れた様だが、それがまた妙に色気が漂って見えた。
これは、男女構わず相当モテるだろう。
「帰った時、出迎えがあるってことさ。いつも玄関は真っ暗が当たり前だし、亜貴は部屋に閉じこもりっきりだしな」
「もしかして、今までそういうのなかったとか?」
「いや。俺は母子家庭だが、そういうのはあったな。だが相当昔の話だ。成人してからはないな」
「まあ、一人暮らししてればそんなもんだろうな。でも組の事務所に行けばみんな出迎えてくれるんだろ?」
すると大きな手が俺の頭に振ってきて、子どもにするようにくしゃりと撫でる。
けれど嫌だとは思わなかった。多少、くすぐったい気がするくらいで、逆に岳の手の温もりが心地いい。
「それとこれとは違うさ。時に亜貴はそういうのはきっと今までなかったはずだ。…大和を雇って正解だったな」
「正解? 俺が? 可愛いメイドさんの方が亜貴には良かったんじゃないのか?」
「…それは目的が違うだろう。ちゃんと家族らしくふるまってくれるのがいいんだ。亜貴には普通を知って欲しいからな」
「けどさ、これは普通じゃないと思うけど?」
「いいんだ。やってることは普通の家庭と同じだろ?」
岳は笑うと再び俺の頭にぽんぽんと手を置きながら、ネクタイを緩める。
「あ、兄さん、お帰り…」
まだホカホカと湯気が立つような亜貴がそこに立っていた。今しがた、風呂から上がったばかりなのだろう。上気した頬が可愛い。(みてくれは)
「ああ、ただいま。俺も先風呂にしていいか?」
俺を振り返る岳に。
「勿論だ。それから夕飯だな。亜貴も待てるだろ?」
俺の問いに亜貴はむすっとしたまま。
「当たり前だろ! 待てないわけないっての」
「そうそう。お前の大事なお兄ちゃんだもんな? じゃ、そう言うことで、岳はゆっくり入ってくれ」
「むかつく!」
亜貴はなおも突っかかってくるが、それを無視して、ブリーフケースを手に岳とともに部屋までついて行った。
+++
岳の書斎はかなりシンプルだった。
木目調のデスクに本棚。質はいいのだろうがこだわりはないようで。
隣にある寝室も似たようなものだ。まるでモデルルームの様に人の気配がない。趣味の物が何一つ置かれていないのだ。
けれど、ここには違和感半端ないものが、一つだけ鎮座している。
「カバン、ここでいいか?」
「ああ。そこでいい」
デスクの横にある脇机へとケースを置く。
その間に岳は寝室のクローゼットへと向かって行った。
俺が覗くと岳はちょうどスーツのジャケットを脱ぐ所だ。すかさず脱ぐのに手を貸す。
「ああ、済まない」
「疲れてるみたいだな?」
受け取ったジャケットには岳の温もりがまだあった。
それをハンガーにかけ、元々あった専用ブラシをあてる。これはネットで調べたお手入れ方法だ。あとは洲崎に聞けば色々有益な情報を教えてくれそうだ。
また明日聞いてみよう。
岳はその様を見ながら。
「まあな。色々あるのさ。しかし、なんだか…」
「どうした?」
振り返ると岳は口元を抑え、何かを必死にこらえている様子。
「いや。言うと怒るからやめておく」
「ならやめとけ」
笑いたいのを堪えているのだろう。
俺は手入れを続けた。
カフスやネクタイを外ず音が背後でする。
それと共に微かに香水らしき薫りもした。
体臭と混じり合ったそれは、ともすると人を不快にさせるのだが、岳から薫るそれはちっとも嫌ではなかった。寧ろ岳の香りになっている。強すぎない香りは好感が持てた。
流石できる男が違うのか。
時々いる、ありったけつけましたと薫りをばらまく輩もいるが、あれには辟易する。ほんのり香るくらいで丁度いいのだ。
「着替え、バスルームには下着だけ用意しとくか? いつもどうしてる?」
「そうだな。バスローブだけ置いといてくれ。こっちに戻ってきて着替えるから」
「了解」
ブラッシングを終えると、背後を振り返った。
と、ワイシャツの襟元を寛げた岳がこちらを見つめていた。今までに見たことのない種類の視線にドキリとする。
「どした?」
「いや。甲斐甲斐しいなと思ってね」
「家政婦ならこれくらい普通だろ? 俺は自分の仕事はきっちりこなしたいタイプだからな? ただ、やって欲しくないことは先に言えよ? こっちの引き出しは絶対開けるなとか、ここの本棚はさわるなとか。スタンドの下にはぬいぐるみが隠れてるから見るな、とか」
「見たか?」
「見た…」
今もスタンド下に、それは置かれていた。
頷けば、岳は笑って。
「言うなればライナスの毛布だな。あれは。子どもの頃、突然、不安に駆られて眠れなくなったとき、母親がくれたんだ。『友だちだよ』ってね。この子が悪いものから守ってくれるよってな。それ以来、どうにも手放せなくてな。お守りみたいなもんだ」
ライナスの毛布ね。
ないと寝られないってやつか。
案外カワイイ所がある。
「特に見られたくないものはない。どこを見られても別に構わない。…大和」
そういうと、こちらに手を差し伸べてきた。いったい何事かと、その手をまじまじと見つめていると。
「手、握手だ」
「あ、なる」
俺もおずおずと右手を差し出し、岳の手を握り返した。
大きく骨ばった右手。俺の手は水仕事の所為か荒れている。
なんか、生活感ばっちりだな…。
その手を岳はぎゅっと包み込む様に握り返すと。
「これからもよろしく。家政婦さん」
妙に眼差しが熱かったのには、ちょっと動揺してしまったが。
「お、おう」
岳の手はとても温かかった。
俺はペットの犬猫よろしく、その音を聞き逃さず玄関に顔を出す。
見れば亜貴がむっつりとした顔で入ってきた所だった。
人恋しくなっていた俺はついはしゃいだ子どもの様に飛び出す。
「おかえり!」
いや~、こういうの久しぶりだなぁ。
親父は出ていくのも帰ってきたのもいつか分からず、いつもこの瞬間を逃していたのだ。
「……」
亜貴は靴を脱ぐのも忘れて、ぽかんとこちらを見ていた。
「なんだ? どうかしたか?」
問えば、我に返ったのかすぐに気まずげに顔を背け。
「…別に」
相変わらずの可愛げだ。俺は気にせず続ける。
「お前、先風呂使ったらどうだ? 汗かいて来たんだろ?」
「なにそれ」
「いつも、寝る前にはいってんのか? 食事前に入るのも気分いいぞ? すっきりするし。後回しにすると面倒くさくなる奴もいるらしいからな? お前もそのくちか?」
「…うざ」
「うざくて結構だ。いいから入ってこい。風呂から上がったら飯にする。これは岳からの命令だと思え」
「なんで? 兄さん、そんなこと言ったの?」
「岳は俺を兄と思えと言っただろう? だからだ。亜貴チャンは大好きなお兄ちゃんには背かないんだろ? だったら俺にだって背かない筈だ」
「っとに、うざいな…」
そう言い残し、ジロリと睨んだ後、亜貴は自室へと向かった。
まあいい。
入るか入らないかは本人に任せるしかない。
結構、早めに入ると気分がいいんだけどなぁ。外の汚れもすっきり落とせて気持ちいし。
かくいう俺は、バイトの合間にささっとシャワーで済ませる口だったが。
いつかのんびり風呂につかるのが夢だった。だからたまの休みに近くの銭湯につかりにいくのが至福の時で。
ああ、いつか各地の温泉に浸かって回りたい…。
それは俺のささやかな夢だった。
湯治とでもいうのか。気に入った温泉に暫く滞在するのだ。風呂に入って飯食って。ちょっと散策してまた風呂に入って食って寝て。
いいなぁ。
そうこうしていれば、廊下をドタバタと走る音がしてリビングのドアが乱暴に開かれた。
「おい! 俺の部屋、勝手に掃除した?!」
「おいじゃない。俺は大和だ。そうだ。掃除したぞ。お前の汚れた部屋の埃を吸い取ってやった。だが、ものは一ミリも動かしてねぇ」
いや、一旦はどけたが、すべて元通りにおいたはず。
「勝手にすんなよ! やるなら言えよ!」
「はいはい。分かったよ。次から言う。ただ、掃除機は毎日かけるからな? 洗濯物はちゃんと脱衣所にある籠にいれとけよ? 部屋汚くしてんじゃモテねぇぞ?」
「モテなくったっていいっていってんだろっ! なんなんだよ、お前!」
「大和だ。俺は君の兄貴に雇われた家政婦だ。文句があるなら兄貴に言え。風呂入ったら飯だ」
「っ!」
先ほどと同じことを繰り返すと、それ以上、口答えはしてこなかったが、すっかり頭に血が上ったようで。
それでもどしどし廊下を踏み鳴らしつつ、浴室に向かった音が聞こえてきた。
案外、素直なのか?
拗ねて部屋に閉じこもってハンガーストライキでもするかと思ったが。
俺は一つ息をついてから、再び夕飯作りに取り掛かった。
今日は男子に受ける事間違い無しのハンバーグだ。これを嫌いという奴は少ないだろう。
ただ、中身は半分キノコでかさましし、カロリーオフにしている。若いから気にしなくてもいいだろうが、肥満は大敵だ。
それでなくとも、今まで適当に食べてきた様子から、少しカロリーは抑えたほうがいいだろう。デブにしてやってもいいと思ったが、それはそれで可愛そうな気もして。
あれだけ、見てくれはいいんだからな?
それを保護してやるのも年上の役割だろうと思い直した。岳も弟を肥満児にはしたくないだろう。
そういえば、今晩は岳、顔を見せんのかな?
特に帰って来るとは言っていなかったが。
一応、明日の弁当分と、今晩の分とを作って取り置いておいた。来なければそのまま冷凍して俺の昼飯にでも回せばいい。
とりあえず、皿を二枚用意していると。ガチャリと玄関ドアのノブの音が聞こえてきた。
ここでも俺は素早く反応をしめし、玄関先に出迎えに出る。
丁度、ドアを開けて岳が入ってきた所だった。背後には洲崎の姿も見える。岳は心なしか疲れているようにも見えた。
「おかえり。お疲れさんだったな?」
「……」
そう声をかければ、岳も亜貴と同じようにこちらに顔を向けて固まった。その背後で洲崎が唐突に肩を揺らして笑い出す。
相変わらずぼうっとしている岳に。
「んだよ。ただいまとか言えねぇのかよ? 亜貴といい、そういう習慣ねぇのか?」
「あ、いや…。ただいま」
「おかえり。洲崎さんもな? 二人とも夕飯は?」
洲崎は玄関先で立ったまま。
「俺はここで失礼する。まだ事務所にもどって仕事があるからな。…でも、機会があればお邪魔させてもらってもいいか?」
最後のセリフは岳に向けられている。岳は靴を脱ぎながら置いておいたスリッパに履き替えると。
「ああ。いいさ。…じゃあな」
「ふふ。じゃあ、また明日」
洲崎は俺にブリーフケースを手渡すと、謎の笑みを残してそこを去って行った。
俺は岳とともに玄関先でその背を見送りつつ。
「これからまた仕事かぁ。案外、大変なんだな? ヤクザも」
「ヤクザは職業じゃないって言ったろ? てか。なんか新鮮だな…」
「何が?」
その言葉に俺は傍らに立つ岳を見上げた。
相変わらず三つ揃えのスーツが嫌というほど似合っている。髪型は朝より幾分乱れた様だが、それがまた妙に色気が漂って見えた。
これは、男女構わず相当モテるだろう。
「帰った時、出迎えがあるってことさ。いつも玄関は真っ暗が当たり前だし、亜貴は部屋に閉じこもりっきりだしな」
「もしかして、今までそういうのなかったとか?」
「いや。俺は母子家庭だが、そういうのはあったな。だが相当昔の話だ。成人してからはないな」
「まあ、一人暮らししてればそんなもんだろうな。でも組の事務所に行けばみんな出迎えてくれるんだろ?」
すると大きな手が俺の頭に振ってきて、子どもにするようにくしゃりと撫でる。
けれど嫌だとは思わなかった。多少、くすぐったい気がするくらいで、逆に岳の手の温もりが心地いい。
「それとこれとは違うさ。時に亜貴はそういうのはきっと今までなかったはずだ。…大和を雇って正解だったな」
「正解? 俺が? 可愛いメイドさんの方が亜貴には良かったんじゃないのか?」
「…それは目的が違うだろう。ちゃんと家族らしくふるまってくれるのがいいんだ。亜貴には普通を知って欲しいからな」
「けどさ、これは普通じゃないと思うけど?」
「いいんだ。やってることは普通の家庭と同じだろ?」
岳は笑うと再び俺の頭にぽんぽんと手を置きながら、ネクタイを緩める。
「あ、兄さん、お帰り…」
まだホカホカと湯気が立つような亜貴がそこに立っていた。今しがた、風呂から上がったばかりなのだろう。上気した頬が可愛い。(みてくれは)
「ああ、ただいま。俺も先風呂にしていいか?」
俺を振り返る岳に。
「勿論だ。それから夕飯だな。亜貴も待てるだろ?」
俺の問いに亜貴はむすっとしたまま。
「当たり前だろ! 待てないわけないっての」
「そうそう。お前の大事なお兄ちゃんだもんな? じゃ、そう言うことで、岳はゆっくり入ってくれ」
「むかつく!」
亜貴はなおも突っかかってくるが、それを無視して、ブリーフケースを手に岳とともに部屋までついて行った。
+++
岳の書斎はかなりシンプルだった。
木目調のデスクに本棚。質はいいのだろうがこだわりはないようで。
隣にある寝室も似たようなものだ。まるでモデルルームの様に人の気配がない。趣味の物が何一つ置かれていないのだ。
けれど、ここには違和感半端ないものが、一つだけ鎮座している。
「カバン、ここでいいか?」
「ああ。そこでいい」
デスクの横にある脇机へとケースを置く。
その間に岳は寝室のクローゼットへと向かって行った。
俺が覗くと岳はちょうどスーツのジャケットを脱ぐ所だ。すかさず脱ぐのに手を貸す。
「ああ、済まない」
「疲れてるみたいだな?」
受け取ったジャケットには岳の温もりがまだあった。
それをハンガーにかけ、元々あった専用ブラシをあてる。これはネットで調べたお手入れ方法だ。あとは洲崎に聞けば色々有益な情報を教えてくれそうだ。
また明日聞いてみよう。
岳はその様を見ながら。
「まあな。色々あるのさ。しかし、なんだか…」
「どうした?」
振り返ると岳は口元を抑え、何かを必死にこらえている様子。
「いや。言うと怒るからやめておく」
「ならやめとけ」
笑いたいのを堪えているのだろう。
俺は手入れを続けた。
カフスやネクタイを外ず音が背後でする。
それと共に微かに香水らしき薫りもした。
体臭と混じり合ったそれは、ともすると人を不快にさせるのだが、岳から薫るそれはちっとも嫌ではなかった。寧ろ岳の香りになっている。強すぎない香りは好感が持てた。
流石できる男が違うのか。
時々いる、ありったけつけましたと薫りをばらまく輩もいるが、あれには辟易する。ほんのり香るくらいで丁度いいのだ。
「着替え、バスルームには下着だけ用意しとくか? いつもどうしてる?」
「そうだな。バスローブだけ置いといてくれ。こっちに戻ってきて着替えるから」
「了解」
ブラッシングを終えると、背後を振り返った。
と、ワイシャツの襟元を寛げた岳がこちらを見つめていた。今までに見たことのない種類の視線にドキリとする。
「どした?」
「いや。甲斐甲斐しいなと思ってね」
「家政婦ならこれくらい普通だろ? 俺は自分の仕事はきっちりこなしたいタイプだからな? ただ、やって欲しくないことは先に言えよ? こっちの引き出しは絶対開けるなとか、ここの本棚はさわるなとか。スタンドの下にはぬいぐるみが隠れてるから見るな、とか」
「見たか?」
「見た…」
今もスタンド下に、それは置かれていた。
頷けば、岳は笑って。
「言うなればライナスの毛布だな。あれは。子どもの頃、突然、不安に駆られて眠れなくなったとき、母親がくれたんだ。『友だちだよ』ってね。この子が悪いものから守ってくれるよってな。それ以来、どうにも手放せなくてな。お守りみたいなもんだ」
ライナスの毛布ね。
ないと寝られないってやつか。
案外カワイイ所がある。
「特に見られたくないものはない。どこを見られても別に構わない。…大和」
そういうと、こちらに手を差し伸べてきた。いったい何事かと、その手をまじまじと見つめていると。
「手、握手だ」
「あ、なる」
俺もおずおずと右手を差し出し、岳の手を握り返した。
大きく骨ばった右手。俺の手は水仕事の所為か荒れている。
なんか、生活感ばっちりだな…。
その手を岳はぎゅっと包み込む様に握り返すと。
「これからもよろしく。家政婦さん」
妙に眼差しが熱かったのには、ちょっと動揺してしまったが。
「お、おう」
岳の手はとても温かかった。
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