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第7話 雲行き
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月曜日。その日、午後のホームルームが教師の都合により早めに切り上げられ、いつもより早く帰ることができた。
俺は速攻でコウの家へ訪れる。
ここ数週間。すっかり放課後はコウの家に行く事が日課となった俺に、家族も当たり前のように受け止めていた。
丁度、玄関のドアを開けた所で──この頃にはすっかり信用され、合鍵で勝手に入ってきていいとコウに言われていた──ガタンと派手な音が奥から聞こえてきた。浴室の方だろうか。
その後、言い争うような声がして、清が飛び出してきた。顔を真っ赤にして、いつかと同じように口元を拭っている。
それよりも、胸のはだけたシャツに、下着一枚でいることに目が行った。明らかに乱れている。
「清?」
「あ…、すば──」
俺を見て、泣く一歩手前の様な表情になった。その背後、すぐに大きな影が現れて、清の腕を掴んだ。
「逃げんなって。最後までやろうぜ」
どこか面白がるような声音。進士だ。
俺の存在に気づいていないようだったが、石のようにぴたりと動かなくなった清を不審に思い、視線を上げ、そこで漸く俺に気づいた。
「なんだ。お子様が来てたのか? いつもはもっと遅いのにな。せっかく見せつけてやろうと思ったのに。残念」
言いながらも、清の手を放そうとしない。逆に引き寄せ抱きこもうとした。
「放せっ!」
清は思い切り進士の脛を蹴り上げる。
それには流石に進士も手を離さないわけにはいかなかった。
「っ!のぉ…」
逃げ出そうとした清を、進士が直ぐに手を伸ばし押し倒す。
そのままキスしようとしたのを、俺は思い切りその身体に体当たりし跳ね飛ばしていた。
「すばる…」
清が驚いた顔をして見上げている。
俺は正直小柄だ。けれど、これでもスポーツは万能。力にはある程度自身がある。見た目ほどひ弱ではないのだ。
「好きな奴を無理やり襲うって、可笑しいだろ? 何考えてんだよ。あんた」
清を背後に庇い、俺は廊下に仁王立ちになった。進士は跳ね飛ばされ、したたかに壁に背を打ち付けたらしい。
「ったく。面倒くせぇのが…」
身体を起こし、髪をかき上げる。それからゆっくりと顔を上げ。
「別に、いいだろ? 俺と清はもうやったことあるんだし。今更だって。お前こそ、邪魔なんだよ。知りもしないくせにしゃしゃり出てくんじゃねぇよ」
清の肩がビクリと揺れた。進士の鋭い視線。まるで挑戦するような。
やったことある。──そうか。だから清は。
俺はひとつ、大きく息をすいこむと、
「でも、今は嫌がってる。好きなら本気で逃げないだろ?」
「……っ」
清が息を飲んだのが分かった。
そんなの、薄々勘づいていた。何も知らない子供じゃない。
ただでさえこの年齢はそういった事にアンテナを張ってる。興味がない筈がない。
手をつないで終わりなんて、それで済むはずがないのだ。
「俺は、ずっと小さい時から、清と一緒に育ってきた。だから、どんなに隠したって、清が何を感じているかは分かっているつもりだ。今の清は本気で嫌がってた…。もし、あなたが本気で清を好きなら、そんなこと出来るはずがない。あなたは、清を好きなわけじゃない。一方的に手に入れたいだけだ。そんなの自分勝手な押し付けだ。あんたが好きなのは自分だけだ。それに巻き込むなよっ」
進士は睨みつけてくるが、次の瞬間にはふっと口元に苦笑を浮かべ。
「あ~あ。やだね。こんなガキに見透かされてさ。…清、済まなかったな? けど、俺だって自分の為だけにお前を利用してるわけじゃないんだぜ? それだけ覚えとけよ」
立ち上がって、そのまま俺と清の横を通り過ぎ、玄関を出ていった。
俺はほっと肩で息をすると。
「清、大丈夫か?」
「ん…」
まだ座り込んだままの清の二の腕に鳥肌が立っているのに気付いて、着ていたパーカーを脱いで肩にかけると、そこへ手を置いた。
震えている。しゃがみこんで清を見つめると。
「俺、お前と進士さんに昔何があったとか、今何が起きてるかとかは聞かない。けど、お前が真から嫌なら、俺が守るから。だから、嫌なら言って──」
言いかけた俺の胸元に、清が額をこすり付けてきた。
「…清?」
「すばる。俺、無理やりされかけた。あんなの、なんの合意もない…。あいつは、俺が誘ったとか欲しそうな眼をしてるとか、色々薄汚い言葉を吐くけど、俺はそんなこと一度も…」
俺はそっとその震える肩を抱きしめる。
「身体って面倒だよな? 好きでもないのに、変に触られれば反応しちまうし。でも、それとこれとは別だ。ほんの少しでも思いがあるなら別だけど。そうじゃないなら、それは無理強いだ。心とは関係ない」
「…すばる」
「な。もう、帰ろう。ここでなくたって、お前はお前でいられるだろ? それに、家にいる清ももう一人の清だ。俺はもう、両方の清を知っているから、だから」
ぎゅっと背に腕が回され、更に身体が密着する。素肌の清からは早くなった鼓動が伝わって来る。
「すばる、俺はすばるが好きだ。大好きなんだ…」
「うん。分かってる」
そうして清が落ち着くまで、その身体をずっと抱きしめていた。
その日のうちに、俺は清を連れて家に帰った。
帰ったとたん、俺の両親が大喜びで出迎え、家に招き入れる。もちろん、そこには清の母親もいて。
久しぶりに皆で賑やかな食卓を囲んだ。
次の日から、清は俺と一緒に高校へ通いだした。後半年もない。貴重な清との高校生活だった。
俺は漸く清との穏やかな日々が戻ってきた気がして、返事のことも忘れるくらい、充実した時間を過ごしていた。
放課後、ふと端末を見ると珍しくコウから連絡が入っていた。
『放課後にちょっと寄って欲しい』
何だろ? 清じゃなくて俺なんて。
清には頼めない何かがあったのか。
それとも、頼んでおいたウェットスーツが出来上がったのか。確か来週になると言う話しだったけれど。
慌てて清を探すと、丁度、担任に呼び止められている所だった。
雰囲気的に時間がかかりそうだ。
「清、俺、ちょっとコウさんの所、行ってくる! 先に帰ってていいからな? 多分、ウエットのことだと思う」
「え? ああ、分かった…」
清は首を傾げつつも、頷いて見せた。
もう、いつかの様にバスは乗り継いでいない。案外自転車で行けない距離ではない事を知り、今は殆どそれで通っていた。
濃いブルーの車体のスポーツバイクは、実はコウさんのものだ。もう乗っていないからと譲り受け。
古いタイプだが、乗りやすいし、フレームも渋くて格好いい。その自転車で坂を登り切り、玄関先に乗り付ける。
汗だくだ。着ているシャツを脱ぎたいと思いつつ、鍵を使いドアを開ける。
「コウさん?」
何故か室内はシンとしている。月曜日はランチ営業はしていない。そのせいもあって、個人的な用で今日の呼び出しかと思ったのだが。
取り敢えず、玄関を上がり、背負っていたバックパックを肩から下ろした所で。
廊下の奥から人の足音が聞こえた。床が軋む。
「コウさん? ウエットスーツ、出来た──」
のかと問おうとした途中で言葉が止まった。
奥から出て来たのは見知らぬ男だったからだ。
随分体格のいい、日に焼けて茶髪の、ピアスが耳や鼻、口、至るところに開けられている、見るからにガラの悪い男だ。
泥棒?
俺は手にしたバックパックを握りしめ、後退する。
「どちら様ですか?」
男は軽く首を回すと、
「え? ああ、知り合いだよ。留守番、頼まれてさ」
手にしているのはコウの端末。何故、この男が持っているのか。
「俺、コウさんに会いに来たんですけど。コウさんは?」
「う~ん、さあ? ちょっと海出て来るってさ。直ぐ帰って来るから、よろしくってね。これコウが忘れてったんだよ」
男は言いながら、端末を振って見せ、ごく自然に近づいて来る。
「中で休んでくれって言ってたぜ?」
俺の正面まで来ると立ち止まった。
「そう、ですか」
俺は何故か緊張が解けない。これが奏介の様な人物だったら、きっとこうはならないだろう。
とても、男と一緒にリビングに入る気にはならなかった。
男は不思議そうな顔をして、その後、ああと頷いて笑い出す。
「俺のこと、警戒してんの? 大丈夫だって。俺、女のコ大好きだからさ」
「あ、いえ! その、今まで見たことなかったんで──」
「ウン。だと思う。けど、俺は結構見てたぜ? 良くここに遊びに来てただろ?」
男は髪をかきあげつつ、先にリビングへと入って行った。先に行ったことで、幾分ホッとした。
俺の視界には男の背しか映っていない。これなら何かあっても逃げられる。
俺が恐る恐る、リビングへと足を進めた所で、唐突に背後のドアが音を立てて閉まった。
ハッとして、思わず振り返ると、そこには腕を組み、にこりと笑んだ進士が立っていた。
「進士、さん?」
「この前は、色々言ってくれたね? せっかく色々ご指摘頂いたからには、充分、そのお礼をしないとと思ってね」
「……!」
俺は後ずさるが、その肩を背後から掴まれた。がっしりとした手が肩に喰い込む。
「俺、付き合うのは女のコだけどね、遊ぶならどっちでもいけんの」
男の息が耳元を掠め、鳥肌が立つ。
「何、するつもりだよ…。俺みたいなガキ、興味ないんだろ?」
「俺の趣味じゃないな。けど、遊びならなんだっていい。清だってこれくらい普通にやってたんだぜ? アイツがどれだけ乱れてたか知らないだろ?」
「清は違うっ!」
思わず突っ掛かれば、急に肩を引かれ、隣にあったソファに押し倒された。見知らぬ男が、上から伸し掛かって来る。
「ここで、二度と清には近づかないって約束したら、逃してやる」
男の手が汗ばんだシャツをはぎ、下のTシャツまでたくし上げた。
「うわっ、高校生ってだけで唆るな」
「は、離せっ! 未成年に手を出すのは犯罪だ!」
すると進士は苦笑し。
「そんな脅し、効くと思うか? 証拠写真は撮るつもりだ。動画もね。清にも外部にも漏らされたくなかったらうんと言えよ」
「お、俺なんか、ちっとも良くないぞ! 顔だって十人並み出し、か、身体なんてガリガリだし──」
そうだ。俺なんて、その辺のよくいる高校生で──。
「だからいいんじゃね?」
俺に覆いかぶさっていた男が、感触を楽しむ様に胸を撫で上げた。見知らぬ男の手に、ゾゾッと背筋に冷たい物が走る。
「…それ以上、触んなっ! 楽しくもなんともないぞ!」
「うるせぇガキだな? まじでウンって言うまで待つ気か。進士」
俺に覆いかぶさった男は、面倒くさそうに進士を振り返る。進士は軽く息を付くと。
「返事は?」
「そんなの、ウンなんて言うと思うか? 言っとくけどな、こんな事したって俺は清の傍、離れたりしないからな? 一体、何年傍にいたと思ってんだよ。こんな事位、なんとも──」
「へぇ。でも、肝心の清が嫌がるんじゃねぇの?」
進士の言葉に、流石にビクリと身体が震えた。
俺がもし、ここでこいつらに何かされて、その後、清はどう思うだろうか?
俺はいい。百歩譲って自業自得だ。ろくに確認もせずに飛び込んだのだから。
けれど、清はどう思うだろう。
間違って自分を責めたりはしないだろうか。俺を見るたび、この事を思い出して。
そんな事になれば二人の関係もどこかギクシャクしたものになるのではないか。
その不安が過ぎった。
ここであった事は、何にせよ、清には言えない。
「なんだ? 急に大人しくなったな?」
「あんたって、ホント最低だ…。こんな汚い手使ってまで、清に振り向いて欲しいって。もっとちゃんと、心からぶつかればいいだろ? そしたら清だって…」
「清はお前がいいんだと。振られてもまた何度でも告白するって言ってたな。まともにやってたら勝ち目ないんだよ。お前が潔く身を引けば全て上手くいく。二度と清が追ってこないように、きれいに振ってやれ」
「…あんたに指図されることじゃない」
「強情だな? いいよ。もう。こいつは何を言ってもダメだ」
「ふうん。じゃ、遠慮なく──」
「っ! ふざけんなっ! 俺が大人しくやられると思うなっ」
両腕は拘束されているが、辛うじて身体は動かせる。必死に身を捩り、男の迫りくる手を避けようとするが、思うように行かない。
「ったく。面倒くせぇな!」
余りに暴れるため、無理やり身体を反転させられ、今度は背後から羽交い締めにされる。
これには抵抗の仕様がなかった。それでも、諦めるわけにはいかない。
「大人しくしてればいい思いさせてやるって」
冗談じゃない!
こうなったら何が何でも抵抗を──。
「すばる!」
え──。
そこで、聞こえるはずもない声を耳にした。
俺は速攻でコウの家へ訪れる。
ここ数週間。すっかり放課後はコウの家に行く事が日課となった俺に、家族も当たり前のように受け止めていた。
丁度、玄関のドアを開けた所で──この頃にはすっかり信用され、合鍵で勝手に入ってきていいとコウに言われていた──ガタンと派手な音が奥から聞こえてきた。浴室の方だろうか。
その後、言い争うような声がして、清が飛び出してきた。顔を真っ赤にして、いつかと同じように口元を拭っている。
それよりも、胸のはだけたシャツに、下着一枚でいることに目が行った。明らかに乱れている。
「清?」
「あ…、すば──」
俺を見て、泣く一歩手前の様な表情になった。その背後、すぐに大きな影が現れて、清の腕を掴んだ。
「逃げんなって。最後までやろうぜ」
どこか面白がるような声音。進士だ。
俺の存在に気づいていないようだったが、石のようにぴたりと動かなくなった清を不審に思い、視線を上げ、そこで漸く俺に気づいた。
「なんだ。お子様が来てたのか? いつもはもっと遅いのにな。せっかく見せつけてやろうと思ったのに。残念」
言いながらも、清の手を放そうとしない。逆に引き寄せ抱きこもうとした。
「放せっ!」
清は思い切り進士の脛を蹴り上げる。
それには流石に進士も手を離さないわけにはいかなかった。
「っ!のぉ…」
逃げ出そうとした清を、進士が直ぐに手を伸ばし押し倒す。
そのままキスしようとしたのを、俺は思い切りその身体に体当たりし跳ね飛ばしていた。
「すばる…」
清が驚いた顔をして見上げている。
俺は正直小柄だ。けれど、これでもスポーツは万能。力にはある程度自身がある。見た目ほどひ弱ではないのだ。
「好きな奴を無理やり襲うって、可笑しいだろ? 何考えてんだよ。あんた」
清を背後に庇い、俺は廊下に仁王立ちになった。進士は跳ね飛ばされ、したたかに壁に背を打ち付けたらしい。
「ったく。面倒くせぇのが…」
身体を起こし、髪をかき上げる。それからゆっくりと顔を上げ。
「別に、いいだろ? 俺と清はもうやったことあるんだし。今更だって。お前こそ、邪魔なんだよ。知りもしないくせにしゃしゃり出てくんじゃねぇよ」
清の肩がビクリと揺れた。進士の鋭い視線。まるで挑戦するような。
やったことある。──そうか。だから清は。
俺はひとつ、大きく息をすいこむと、
「でも、今は嫌がってる。好きなら本気で逃げないだろ?」
「……っ」
清が息を飲んだのが分かった。
そんなの、薄々勘づいていた。何も知らない子供じゃない。
ただでさえこの年齢はそういった事にアンテナを張ってる。興味がない筈がない。
手をつないで終わりなんて、それで済むはずがないのだ。
「俺は、ずっと小さい時から、清と一緒に育ってきた。だから、どんなに隠したって、清が何を感じているかは分かっているつもりだ。今の清は本気で嫌がってた…。もし、あなたが本気で清を好きなら、そんなこと出来るはずがない。あなたは、清を好きなわけじゃない。一方的に手に入れたいだけだ。そんなの自分勝手な押し付けだ。あんたが好きなのは自分だけだ。それに巻き込むなよっ」
進士は睨みつけてくるが、次の瞬間にはふっと口元に苦笑を浮かべ。
「あ~あ。やだね。こんなガキに見透かされてさ。…清、済まなかったな? けど、俺だって自分の為だけにお前を利用してるわけじゃないんだぜ? それだけ覚えとけよ」
立ち上がって、そのまま俺と清の横を通り過ぎ、玄関を出ていった。
俺はほっと肩で息をすると。
「清、大丈夫か?」
「ん…」
まだ座り込んだままの清の二の腕に鳥肌が立っているのに気付いて、着ていたパーカーを脱いで肩にかけると、そこへ手を置いた。
震えている。しゃがみこんで清を見つめると。
「俺、お前と進士さんに昔何があったとか、今何が起きてるかとかは聞かない。けど、お前が真から嫌なら、俺が守るから。だから、嫌なら言って──」
言いかけた俺の胸元に、清が額をこすり付けてきた。
「…清?」
「すばる。俺、無理やりされかけた。あんなの、なんの合意もない…。あいつは、俺が誘ったとか欲しそうな眼をしてるとか、色々薄汚い言葉を吐くけど、俺はそんなこと一度も…」
俺はそっとその震える肩を抱きしめる。
「身体って面倒だよな? 好きでもないのに、変に触られれば反応しちまうし。でも、それとこれとは別だ。ほんの少しでも思いがあるなら別だけど。そうじゃないなら、それは無理強いだ。心とは関係ない」
「…すばる」
「な。もう、帰ろう。ここでなくたって、お前はお前でいられるだろ? それに、家にいる清ももう一人の清だ。俺はもう、両方の清を知っているから、だから」
ぎゅっと背に腕が回され、更に身体が密着する。素肌の清からは早くなった鼓動が伝わって来る。
「すばる、俺はすばるが好きだ。大好きなんだ…」
「うん。分かってる」
そうして清が落ち着くまで、その身体をずっと抱きしめていた。
その日のうちに、俺は清を連れて家に帰った。
帰ったとたん、俺の両親が大喜びで出迎え、家に招き入れる。もちろん、そこには清の母親もいて。
久しぶりに皆で賑やかな食卓を囲んだ。
次の日から、清は俺と一緒に高校へ通いだした。後半年もない。貴重な清との高校生活だった。
俺は漸く清との穏やかな日々が戻ってきた気がして、返事のことも忘れるくらい、充実した時間を過ごしていた。
放課後、ふと端末を見ると珍しくコウから連絡が入っていた。
『放課後にちょっと寄って欲しい』
何だろ? 清じゃなくて俺なんて。
清には頼めない何かがあったのか。
それとも、頼んでおいたウェットスーツが出来上がったのか。確か来週になると言う話しだったけれど。
慌てて清を探すと、丁度、担任に呼び止められている所だった。
雰囲気的に時間がかかりそうだ。
「清、俺、ちょっとコウさんの所、行ってくる! 先に帰ってていいからな? 多分、ウエットのことだと思う」
「え? ああ、分かった…」
清は首を傾げつつも、頷いて見せた。
もう、いつかの様にバスは乗り継いでいない。案外自転車で行けない距離ではない事を知り、今は殆どそれで通っていた。
濃いブルーの車体のスポーツバイクは、実はコウさんのものだ。もう乗っていないからと譲り受け。
古いタイプだが、乗りやすいし、フレームも渋くて格好いい。その自転車で坂を登り切り、玄関先に乗り付ける。
汗だくだ。着ているシャツを脱ぎたいと思いつつ、鍵を使いドアを開ける。
「コウさん?」
何故か室内はシンとしている。月曜日はランチ営業はしていない。そのせいもあって、個人的な用で今日の呼び出しかと思ったのだが。
取り敢えず、玄関を上がり、背負っていたバックパックを肩から下ろした所で。
廊下の奥から人の足音が聞こえた。床が軋む。
「コウさん? ウエットスーツ、出来た──」
のかと問おうとした途中で言葉が止まった。
奥から出て来たのは見知らぬ男だったからだ。
随分体格のいい、日に焼けて茶髪の、ピアスが耳や鼻、口、至るところに開けられている、見るからにガラの悪い男だ。
泥棒?
俺は手にしたバックパックを握りしめ、後退する。
「どちら様ですか?」
男は軽く首を回すと、
「え? ああ、知り合いだよ。留守番、頼まれてさ」
手にしているのはコウの端末。何故、この男が持っているのか。
「俺、コウさんに会いに来たんですけど。コウさんは?」
「う~ん、さあ? ちょっと海出て来るってさ。直ぐ帰って来るから、よろしくってね。これコウが忘れてったんだよ」
男は言いながら、端末を振って見せ、ごく自然に近づいて来る。
「中で休んでくれって言ってたぜ?」
俺の正面まで来ると立ち止まった。
「そう、ですか」
俺は何故か緊張が解けない。これが奏介の様な人物だったら、きっとこうはならないだろう。
とても、男と一緒にリビングに入る気にはならなかった。
男は不思議そうな顔をして、その後、ああと頷いて笑い出す。
「俺のこと、警戒してんの? 大丈夫だって。俺、女のコ大好きだからさ」
「あ、いえ! その、今まで見たことなかったんで──」
「ウン。だと思う。けど、俺は結構見てたぜ? 良くここに遊びに来てただろ?」
男は髪をかきあげつつ、先にリビングへと入って行った。先に行ったことで、幾分ホッとした。
俺の視界には男の背しか映っていない。これなら何かあっても逃げられる。
俺が恐る恐る、リビングへと足を進めた所で、唐突に背後のドアが音を立てて閉まった。
ハッとして、思わず振り返ると、そこには腕を組み、にこりと笑んだ進士が立っていた。
「進士、さん?」
「この前は、色々言ってくれたね? せっかく色々ご指摘頂いたからには、充分、そのお礼をしないとと思ってね」
「……!」
俺は後ずさるが、その肩を背後から掴まれた。がっしりとした手が肩に喰い込む。
「俺、付き合うのは女のコだけどね、遊ぶならどっちでもいけんの」
男の息が耳元を掠め、鳥肌が立つ。
「何、するつもりだよ…。俺みたいなガキ、興味ないんだろ?」
「俺の趣味じゃないな。けど、遊びならなんだっていい。清だってこれくらい普通にやってたんだぜ? アイツがどれだけ乱れてたか知らないだろ?」
「清は違うっ!」
思わず突っ掛かれば、急に肩を引かれ、隣にあったソファに押し倒された。見知らぬ男が、上から伸し掛かって来る。
「ここで、二度と清には近づかないって約束したら、逃してやる」
男の手が汗ばんだシャツをはぎ、下のTシャツまでたくし上げた。
「うわっ、高校生ってだけで唆るな」
「は、離せっ! 未成年に手を出すのは犯罪だ!」
すると進士は苦笑し。
「そんな脅し、効くと思うか? 証拠写真は撮るつもりだ。動画もね。清にも外部にも漏らされたくなかったらうんと言えよ」
「お、俺なんか、ちっとも良くないぞ! 顔だって十人並み出し、か、身体なんてガリガリだし──」
そうだ。俺なんて、その辺のよくいる高校生で──。
「だからいいんじゃね?」
俺に覆いかぶさっていた男が、感触を楽しむ様に胸を撫で上げた。見知らぬ男の手に、ゾゾッと背筋に冷たい物が走る。
「…それ以上、触んなっ! 楽しくもなんともないぞ!」
「うるせぇガキだな? まじでウンって言うまで待つ気か。進士」
俺に覆いかぶさった男は、面倒くさそうに進士を振り返る。進士は軽く息を付くと。
「返事は?」
「そんなの、ウンなんて言うと思うか? 言っとくけどな、こんな事したって俺は清の傍、離れたりしないからな? 一体、何年傍にいたと思ってんだよ。こんな事位、なんとも──」
「へぇ。でも、肝心の清が嫌がるんじゃねぇの?」
進士の言葉に、流石にビクリと身体が震えた。
俺がもし、ここでこいつらに何かされて、その後、清はどう思うだろうか?
俺はいい。百歩譲って自業自得だ。ろくに確認もせずに飛び込んだのだから。
けれど、清はどう思うだろう。
間違って自分を責めたりはしないだろうか。俺を見るたび、この事を思い出して。
そんな事になれば二人の関係もどこかギクシャクしたものになるのではないか。
その不安が過ぎった。
ここであった事は、何にせよ、清には言えない。
「なんだ? 急に大人しくなったな?」
「あんたって、ホント最低だ…。こんな汚い手使ってまで、清に振り向いて欲しいって。もっとちゃんと、心からぶつかればいいだろ? そしたら清だって…」
「清はお前がいいんだと。振られてもまた何度でも告白するって言ってたな。まともにやってたら勝ち目ないんだよ。お前が潔く身を引けば全て上手くいく。二度と清が追ってこないように、きれいに振ってやれ」
「…あんたに指図されることじゃない」
「強情だな? いいよ。もう。こいつは何を言ってもダメだ」
「ふうん。じゃ、遠慮なく──」
「っ! ふざけんなっ! 俺が大人しくやられると思うなっ」
両腕は拘束されているが、辛うじて身体は動かせる。必死に身を捩り、男の迫りくる手を避けようとするが、思うように行かない。
「ったく。面倒くせぇな!」
余りに暴れるため、無理やり身体を反転させられ、今度は背後から羽交い締めにされる。
これには抵抗の仕様がなかった。それでも、諦めるわけにはいかない。
「大人しくしてればいい思いさせてやるって」
冗談じゃない!
こうなったら何が何でも抵抗を──。
「すばる!」
え──。
そこで、聞こえるはずもない声を耳にした。
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