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温泉と故郷と泣き叫ぶ豆

長雨

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 窓の外は暗い。少しうるさいくらいの雨音は、止む気配もない。
 あの偽物の魔法使いが消えた日の朝方から降り始めた雨は、既に三日ほど続いていた。春先はあまり長雨がないと宿の人も首をかしげるほどだった。

 宿のオーナーはあまり続くと道が崩れるかもしれませんねと不安そうにしていた。ここに来るまでの道はそれほど危ない場所はないようだったが、山の中ではあるので土砂崩れが怖いのだという。
 早く止むといいのですがと空を見上げながら言っていたのを聞いたのは今日の昼過ぎくらいのことだった。エリックはそれについてはそうだなと簡単に返した。なにかあった場合の処理を任されそうな予感はするが、言われもしないうちから切り出すつもりはない。

 この宿に留まり続けているのは雨だけが理由ではなかった。

「止みそうにありませんね」

 アリカが気だるそうに呟く。微熱と体調不良でベッドの住人をしている。なにも今じゃなくてもとぼやきながらも大人しくしていた。
 眠っている時間のほうが多く、起きている時間も半ばぼんやりしているようで反応も鈍い。

 最初は魔素不足のせいかと思ったが本人は違うと主張していた。
 足りなかったところを満たされたから、この世界に完全になじむための準備なんですと彼女は言っていた。このまま一日か二日程度爆睡するんですってと彼女はふてくさている。
 エリックが額に手を当てれば、気持ちいいと微笑むのが儚げに見えて落ち着かなかった。

「すぐに良くなりますよ。パワーアップの準備です。新生のあたしにご期待ください」

「無事ならそれでいい」

「病気でも怪我でもないんですけどね。
 ふぁっ、本格的に眠くなってきました。そろそろ、目覚めないかもしれません」

「ゆっくり休むように」

「いやぁ、修行みたいって聞きましたよ。遠慮したいですねぇ」

 断りたかったとアリカはつぶやいて、少し困ったように眉を下げた。手を伸ばして、エリックの頭をなでる。

「貴方を置いてどこにもいきませんよ。大丈夫。
 ちょっとお留守番をよろしくお願いしますね」

「留守番は嫌いだ」

 怪訝そうに視線を向けてきたアリカにエリックは理由を答えようとしてやめた。

「目が覚めたら、話す」

「俄然やる気が出てきました。最短を目指しますよ」

 おやすみなさいと元気そうに言ってアリカは目を閉じた。すぐに寝息が聞こえてきて、想定を超えた寝つきの良さがおかしく思える。
 エリックは小さく笑って、掛布を直す。彼女は寝相が良いというより、あまりに動かないので生きているか確認してしまうほどだ。

 眠っている間は保護されて安全とアリカは言っていたが、エリックはその場を離れる気はなかった。
 ベッドのそばに椅子を置くと何冊かの本と手紙を用意した。
 アリカの意識がないうちに、気がつかれないうちに済ませたいことはいくつかある。異界の本の確認、あの魔法使いに押し付けられたものの検討。

 一番重要なのは封を開けていない手紙。

 自分から送った手紙の返信を確認するのは気が進まない。彼と手矛盾していることは承知している。
 ため息をついてエリックは手紙を開封することにした。いつまでも先延ばしにしてしまいそうであるし、内容によっては準備が必要になる。

 紙には綺麗に印字された文字が整然と並んでいる。
 印刷された文字は読みやすさのためで、軽んじているわけではないと以前書かれていた。職業柄特殊文字を使うのでそのくせが普通の文字にも現れて、読みにくいとのことだった。最後の署名だけ自筆だったが、確かにうねっている線にしか見えなかった。

 返事をくれたのは、アリカの母親だった。一行目からの謝罪に面食らい、読み進めても困惑するような文面が続く。

 家族の問題に巻き込んで申し訳ない。
 つまりはそう言う認識であるらしい。
 迷惑であったのなら娘を引き取ると書かれているあたり、事実認識の溝は深い。誘拐未遂とは思われていないが、それはそれでなんとなく居心地が悪い。

 エリックはため息をついた。
 この件は気にしないことにする、なかったことにする、その二択のような気がしてきていた。
 エリックは少し考えたがその問題には今後触れないことにした。既に解決済みであると処理したほうが皆が穏やかに過ごせるように思えた。

 このまま、こちらの世界で過ごして問題なければここにいて欲しいこと。それから、異界の魔法についていくつかの質問を書き返信として送る。

 世界が違ってもそこまで法則が違うわけではないらしい。物質的にはかなり似通っている。そうでなければ、以前訪れた小さいアリカも魔法は使えなかったはずだ。
 魔導師は直接的に世界につながっているが、異界では他のモノを介して力を引き出すのが主流だ。もし、直接世界から力を引き出すのならば、既に人外として扱われるらしい。
 アリカの感覚的には魔導師が人外という言い分も理解できる。

 他のモノを介して力を引き出すのは手間ではあるがメリットはある。世界からの干渉あるいは、浸食を最小にできる。
 魔導師の魔法は使用制限がある。魔素を使い切るまで魔法を使ってはならない。通常は、ある程度で使用できないほどに身体症状が出る。それでやめておけばよいがそれを超えて使い切った場合には魔素の使える容量が増えるが、代わりに浸食されていく。
 小さく少しずつ、人間味が失われると言われる。
 かつての魔法使いがそうであったように。

 エリックの魔素の容量はこの数年で確実に増えていた。無理をしたという自覚はあるが、そうしなければいけない状況にあったのだから仕方ない。
 エリックは隠していたわけではないが、師匠に気がつかれてしかられたのは冬の前のことだ。

 争いに関わらせるのではなかったと言われたのは意外だった。エリック自身はそれにとても向いていたと認識していた。やるべきことを淡々と処理するだけのことだと。
 とにかく、使い切ってもなお、何かしようとしないときつく言われた。それ自体は異論はないが、次何かあったらお嬢ちゃんにしかってもらうからねと言われたのは納得がいかない。
 どう考えても無茶をするのはアリカのほうだろう。

 アリカにとってエリックは庇護対象でしかないらしい。対等ではあるもののなにかあったら守るのはあたしと思っている節があった。
 着々と実力を付けて言っているあたり油断ならない。調子に乗って失敗するのがそういうタイミングであったりする。

 力が大きいほどに致命的でその後の人生に影を差す場合もあるので気をつけて欲しいものだが、こればかりは予想がつかない。
 このタイミングで故郷には戻りたくなかった。

 近寄りたくないという忌避感。それ以上に呼ばれていると思うところが不穏だった。元々良い思い出がある場所ではない。アリカに言われるまで、思い出さないようにしていたことにすら自覚がなかった。

 エリックにとっては故郷とは行きたくはないが、後々まで放っておくことができない場所。一人でならば行く気にもならなかっただろう。
 いつかどうにもならなくなるまで。

 孤児院に引き取られて、師匠に拾われるまでの間のことをアリカには話していない。あまり聞いてこないことに甘えて何も言わずに済ませてしまった。
 あの街に行けば知らずに済むことはないだろう。

 知らないうちに魔導師として目覚めさせられ、教えられたことと言えば言われたことを確実に行うということばかり。そこに感情の入る余地はない。
 人を傷つけるほどのことはないが、モノや動物ならあった。
 それをどう思っていたかはもう思い出せない。

 ただ、師匠に拾われてほっとした。そして、記憶自体に蓋をして忘れたことすら忘れた。

 ふと気難しい顔でうなされているアリカに気がつく。そっと頬を撫でると寝ぼけた猫のように鳴いたりする。気の抜けたような声が愛らしいと言えば、バカにしてます? とむくれるに違いない。

 それも可愛いとついやりすぎて、本格的に拗ねられた経験をこの冬の間に積み上げてしまった。この先、二人きりなど望めそうにないと調子に乗ったことも自覚はしていた。

 おそらくはアリカが放っておかれることはないだろう。本人も何かしているのは嫌いではないようだ。大人しく館で引きこもるなど半年もしたら飽きるに違いない。エリックですら、飽きたと思ったのだから。

「最初で最後の旅行かもしれないのに、問題ばかりだな」

 エリックには、後で思い出して、あの時は大変でしたねと言いだすようなことばかりが起きそうな予感がする。
 退屈する暇もない。

 彼は苦笑して、本を手に取った。
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