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第三十話 ギーくん

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 教授の講義も毎日あるわけではない。
 暗記するだけの事柄も結構あるのに、毎日来てもらうのは非効率だからだ。
 そういうわけでヴァンはモールト教授に宿題を大量に出され、次回の講義までに覚えなければならないことがたくさんあった。
 
「ん……」
 
 ずっと机に座っていたヴァンはぐっと伸びをし、肩を回す。
 すっかり身体が凝り固まっている気がする。
 
「ヴァン様、かなりお疲れのようでございますね」
 
 様子をじっと見守ってくれていたフィリップが、声をかけてくれる。
 
「そこまでして根を詰める必要はないのではないでしょうか。教授に出された課題はとっくに達成されたのでしょう?」
 
 彼の精霊が、気遣わしげに僕の周囲をふわふわと漂っている気配が感じられる。
 
「それはそうですけど、時間がある限りなるべく勉強を進めておきたいので。僕は人一倍努力しないと」
「ヴァン様……」
 
 彼は悲しそうに眉を下げる。
 ヴァンは、彼が何故そんな顔をするのかよく分からなかった。
 
「ヴァン様、それではせめてお散歩にでも出かけられませんか。お付き合いしましょう」
 
 彼が申し出てくれる。
 
「そうですね、ちょっとは身体を動かさないと健康に悪いですからね」
 
 ヴァンは助言を受け入れ、息抜きに出かけることにした。
 再度身体を伸ばして軽く解すと、部屋を出た。
 
「庭を案内しましょう」
 
 ヴァンは庭へと案内された。大精霊の祠に通じる中庭ではなく、一般に解放されている方の庭だ。
 城を出ると、まず巨大な噴水が目に入る。平民、貴族を問わず数人が噴水のほとりで談笑していた。走り回っている子供の姿も見えた。暖かい春の陽気だからか、王の庭は大人気だ。
 
「噴水の周囲は人目があるので、王の散歩道の方はいかがですか」
 
 フィリップの提案にこくりと頷き、噴水広場を通り過ぎて王の散歩道へと向かう。
 王の散歩道は、生垣の迷路になっている。大人の背丈の二倍ほども高さのある生垣が、ずっと続いている。日当たりが悪く複雑な迷路をわざわざ歩きたい人間はいないらしく、中に足を踏み入れると人の気配は少しもなかった。
 
「懐かしいなぁ……」
 
 曲がりくねった道を歩きながら、ヴァンは呟く。
 
「ヴァン様は、王の散歩道にいらっしゃったことがあるのですか?」
 
 フィリップに問われる。
 
「はい。幼い頃、連れてきてもらったことがあるんですよ」
 
 一般開放されている王城の庭は、ピクニックに持ってこいである。一家で遊びに来たことがあるのだ。
 
「まあ、迷子になっちゃったんですけれどね」
 
 七歳の時のことだった。
 ピクニックに来た先で父も母も、兄にばかり構って笑顔を向けていた。幼いヴァンは透明人間のようだった。家族の傍にいるのが辛くて、ヴァンは一人で王の散歩道に足を踏み入れたのだった。すると迷子になってしまった。
 
「それは心細かったでしょうね」
 
 フィリップが眉を下げる。
 
「……いえ」
 
 彼の言葉に、ヴァンは相反する記憶が呼び起こされる。
 
「それが嫌な思い出だった記憶がないんですよね。むしろ何か嬉しいことがあったような」
「それは妙でございますね」
 
 二人で首を傾げながら迷路の先へと進んでいく。
 不意に目の前が開けた。
 迷路の出口に辿り着いたわけではない。迷路の中に開けた空間があったのだ。
 
「ここが迷路の中心でございます」
 
 高い生垣に囲まれて薄暗いものの、柔らかな芝生が敷き詰められた秘密の空間は居心地が良さそうだ。一人になりたい人間には、ぴったりの空間であるように思われた。
 
「あっ」
 
 その瞬間、記憶が蘇ってきた。
 七歳のあの日、ヴァンもこの空間に辿り着いた。そこで誰かに会ったのだった。


 幼い頃のヴァンは心細い思いで迷路を彷徨っていた。風の精霊も迷路の道は教えてくれない。やがてヴァンは広い空間に辿り着いたので、そこで一休みすることにした。
 
 芝生の上にへたり込み休憩していると、風の精霊が人の気配を感じると教えてくれた。そちらを見やると、迷路の通路から誰かがこちらを窺っているのが見えたのだった。
 それは小さな子供だった。
 
「誰?」
 
 ヴァンが声をかけた瞬間、そよ風がその子の綺麗な金髪を撫でながら通り過ぎた。
 
 金髪碧眼の綺麗な子だった。年は自分よりも二つか三つぐらい下だろうか。とても小さな子だった。蒼くてくりくりのお目目をいっぱいに見開いて、ヴァンの様子を窺っていた。
 金髪の子はおずおずと通路の陰から姿を現した。その少年はヴァンよりも立派な格好をしていて、貴族階級の子であることは確かだった。
 
「お、お、お前こそ誰だ!」
 
 ヴァンよりも背が低いのに、一生懸命に睨み付けてくる。やんちゃそうな印象を抱いた。
 
「あ、僕はヴァン。ヴァン・ミストラルだよ」
 
 今思えば相手の方が家格が高い可能性もあるのだから、もっと丁寧な口調で話しかけるべきだった。けれども七歳のヴァンには、そんな考えは思いつかなかった。
 
「君は?」
「オ……オレさまは、えーと、ギーだ! ギーという名前だ!」
 
 金髪の子はギーと名乗った。
 真っ白なほっぺをぷくぷくに膨らませて、それは可愛らしかった。
 
「ギーくんっていうんだ。こんなとこに一人でどうしたの? ご両親は?」
 
 自分より一回り小さい子が一人でいることが心配になって、尋ねる。
 
「お前だってひとりじゃないか!」
 
 ギーくんは答えるどころか、怒った顔になってさらにほっぺを膨らませる。愛らしさが増して何も怖くなかった。
 
「えっと僕はその、父も母も気にしてないから……」
 
 父も母も、ヴァンがいなくなったことにすら気にしていないだろう。ヴァンが沈んだ顔になると、ギーくんも心配そうに眉を下げた。
 
「……そうか、ヴァンもオレさまと一緒だな」
「ギーくんも?」
 
 聞き返すと、彼はこくりと頷く。
 
「父上も母上も、オレさまのことなんてどうでもいいんだ」
 
 辛いことを思い出したのか、項垂れるギーくん。
 今にも泣き出しそうな気配を感じて、理由は分からなくても彼を元気づけようと思った。
 
「ギーくん、ここ座って」
 
 やんちゃそうに思えた彼は意外に素直に従ってくれて、ヴァンの隣にちょこりと座り込んだ。
 ギーくんの身体をヴァンは後ろから包み込むようにぎゅっとハグした。
 
 ヴァンが一人で涙を堪えている時、風の精霊が包み込んでくれているような気配を感じたことがある。そんな時、孤独が和らいだものだ。
 彼に同じようにしてあげたかった。彼の悲しみを和らげたかった。
 
 ギーくんはしばらく俯いたまま黙り込んでいた。ヴァンはぎゅっとくっついたまま、彼が元気を取り戻すのを待った。
 迷路の中、ヴァンとギーくんの二人はどれほどの間そうしていただろう。誰かに見つかるということもなかった。
 
「ヴァンは優しいな」
 
 やがてギーくんはぐしぐしと乱暴に顔をこすってから、ヴァンを見上げた。蒼い瞳は潤んで、可愛らしい顔には涙と鼻水の痕がついていた。
 
「まるでそよ風みたいだ」
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