誰からも愛されないオレが『神の許嫁』だった話

野良猫のらん

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番外編:新婚旅行と水の落とし子編

第三十一話

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 漣が白い波飛沫をあげている。
 潮の香りを孕んだ風が、ウエルの頬を撫でていた。

 水の落とし子に一瞥を喰らって周囲の空気が変になった後、ウエルはハオハトに「海を見に行こう」と誘った。まるでそこから逃げるように。

「綺麗な海だな……」
「そうだね」

 隣のハオハトが頷いて、返事をする。
 海を見たのはこれが初めてではない。
 天気がいい日ならば、聖地からはるか遠くに海の水平線が見えることがあるのだ。
 
 だが近くで見る海は大違いだった。
 潮の匂いと波の音、身体を撫でて通り過ぎていく強い風。
 すべてが合わさって海なのだ。

「ハオハト、海に入ろうよ」
「少しだけだよ。全身を濡らしたりしたら、風邪を引いてしまうよ」
「はいはい、わかったわかった」

 ウエルはくつを脱ぐと、素足で砂浜を踏みしめた。

「わっ、変な感触……っ」

 ほとんどが砂だけの砂浜を歩くのは、普通の地面を裸足で歩くのとはまったく感触が違った。
 面白くて、砂を蹴って歩いてみる。砂の飛沫が簡単に上がった。

「ははは!」

 笑いながら、波打ち際まで駆ける。
 海と陸との境目に辿り着くと、白い小波にそっと足を浸してみた。

「冷たっ」

 季節は春。海水はまだ冷たさを残していた。
 冷たさに驚いたウエルは、足を引っ込める。

「大丈夫かい、ウエル? ほら、人の子の生存には適さない水温だったろう?」

 ハオハトがウエルの脱ぎ捨てた鞜を手に、後ろからついてくる。

「ちょ、ちょっと驚いただけだ! お前も入ってこいよ!」
「はいはい、わかったよ」

 彼は苦笑すると、自らも鞜を脱いで海に入ってきた。
 苦笑いが、酷く人間じみて見えた。

 彼の白い足に砂粒が付着し、その砂を海水が洗い流す。
 蒼い瞳が隣からウエルを見下ろす。

「波に足を擽られているみたいだね」
「ああ、そうだな」
「歩こうか」

 ハオハトの誘いに、ウエルはこくりと頷いた。
 ふたりは波打ち際を裸足で歩く。

「……ウエル。気にしていないかい?」
「は? 何のことだ?」

 出し抜けの言葉に、ウエルは首を傾げた。

「先ほどのことだよ。落とし子に視線を向けられたのが不吉の証だなんて。それで元気を失くしているように見えたから」
「ああ、なんだ。あれくらい、なんでもないよ。あれより心無い言葉なんて、いくらでもかけられてきた。平気だ」

 心からの言葉だった。
 異端の息子だから不気味だのなんだのと言われるのに比べれば、「悪いことが起きる」程度が何だと言うのか。

「ウエル」

 彼が、ウエルの身体に腕を回した。
 ぎゅっと、後ろから抱きすくめられる。

「以前に酷い傷を受けたからといって、いま受けた傷が痛くならないわけではないよ」

 囁かれた言葉に、はっとする。
 実を言えば、ちくりと胸が痛んでいた。
 でもそれはきっと、ハオハトとの生活で心が平和ボケを起こしたからだと思っていた。以前ならば、不吉がどうのこうのなんてその程度の言葉は何でもなかったのに。

 そうではなくて。
 自分の心の痛みを、受け取ってあげれるだけの余裕ができたということだろうか。

 同時にハオハトも胸を痛めていることを、感じ取った。

「……ウエルが酷い仕打ちを受けないように、生まれた瞬間に攫ってしまうべきだったかな」

 痛切な響きを含んだ呟きが、耳朶を震わせた。

 ウエルは想像した、生まれた瞬間から彼と共に過ごす人生を。
 生まれたときから彼の館の中にいて、重い荷を背負って危険な山登りをしなくてよくて、いつも暖かくて、いつもお腹いっぱいで飢えることがなくて、愛してくれる人がすぐ傍にいて……。

 それは、きっと。

「――もしそうだったら、オレはそれを最上の人生だと思ったと思う。いまだって、自分の辿ってきた人生が最上だとは思えない」

 いい人生だと全行程することは決してできない人生だった。
 でも。

「けれども、両親と過ごした記憶や、山跳びとして成長した日々をなかったことにはしたくないな。オレの大事な一部だ」
「……そうか。それらの経験があるから、いまの私が愛するウエルが存在するんだね」

 ハオハトは、そっとウエルを放した。
 いつの間にか足元の海水の冷たさが、気にならなくなっていた。

「ウエルは強いね」

 彼は微笑んだ。
 自分を認めてくれる言葉が、心を暖めてくれる。

「そうかな。でも、そうかもしれない。オレには山跳びとして働いてきて、人の役に立ってきたっていう自信がある」
「人の役に立つ……」

 ハオハトはぽつりと言葉を繰り返した。
 それから、真面目な顔をする。

「いいかいウエル、人の子たちの言葉を気にすることはないよ。あの落とし子が私たちを一瞥したからといって、不吉なことが訪れるなんてことはありえない」
「そうなのか? 落とし子が未来を見れるっていうのは、嘘なのか?」

 てっきり落とし子は本当に未来が視えるのだと、ウエルは思っていた。
 だってハオハトも似たようなことができるのだから。
 彼の話では未来が視えるわけではなく、考えれば予想がつくだけだという話らしいが。

「さあ、それはわからない。フルクフトが我が子にどんな権能を与えたのか、私は知らないからね」
「じゃあ、悪い未来なんて訪れないって断言できるのはなぜだ?」
「それは簡単だよ。ウエルに悪いことが起きないよう、私が守るからね」
「あ……っ」

 彼が刃を素手で掴んでまで、ウエルのことを守ってくれたのを思い出した。
 彼は自分のために何でもしてくれる。ならば、何を憂う必要があるだろうか。

「……ありがとう」

 ぼそり、礼を口にした。

「ふふ、どういたしまして」

 どんなに小さな呟きだって、彼が聞き漏らさないことは知っている。
 なんだか気恥ずかしくって、ウエルは話題を変えることにした。

「にしても、水の落とし子が悪い未来を予見して教えてくれるってどういうことだよ。神は祈っても、何ももたらさない。人は福音目当てではなく、ただ心から祈る。それが正しい信仰なんじゃないのかよ」

 唇を尖らせる。
 神から何かをもたらされることを期待して祈るなんて、不純だ。
 それでは祈りは祈りではなく、おねだりになってしまう。
 敬虔な信者であるウエルには、水の落とし子は歪んだ存在に思えた。

「正しい……信仰?」

 こてん、とハオハトは首を傾げた。
 そうだ、この神は世界で一番信仰に詳しくない存在だった。

「えっと、神さまは何もしてくれないことになっているのに、マバ族の連中だけ落とし子を通して未来を予知してもらえるなんてズルいだろってこと!」
「何もしないことになっているんだ。初めて知った」

 彼の口ぶりに、ウエルは脱力した。
 真面目に話すだけ無駄みたいだ。
 
「ヤルトは好き勝手に人の子を弄んでいたよ。それこそ破滅させることも、福音を与えることも」
「……教義では、ヤルト神が与えるのは試練で、福音を与えるのは試練を乗り越え褒美だということになっていた。人の祈りに呼応して与えるわけでないのだと」

 嫌な名前に、ウエルは苦い顔をする。
 いまでは、教義は建前でヤルトが好きに人間を弄びたかっただけなのだと理解できる。
 
「言い訳があれば、例外は認められるということだね。ならば未来を予知して人間に福音をもたらしているのはフルクフト自身ではなくて、その子だからいいという理論なのではないかな」
「本人、いや本神じゃないからいいなんてそんな適当でいいのか……!?」
「少なくともマバ族たちは、そのように納得して信仰しているのではないかな」
「そうか……」

 落とし子の存在は歪に感じる。
 だが、マバ族の人たちは真剣に信仰しているのだ。ウエルと同じく、敬虔な信者のつもりなのだろう。ナオシジ老人も含めて。

 マバ族の人たちが落とし子を通じて未来を知っているからといって、何が問題だというのか。
 別に自分たちに害があるわけではない。
 歪に感じるこの気持ちは、胸の内にしまっておくとしよう。ウエルはそう決めた。

「ウエル、そろそろ海から上がろう。足が冷えてしまうよ」
「うん」

 ハオハトが伸ばした手を取り、海から離れた。
 この手を取って、どこへでも行こう。
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