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第六話

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「私は少しの間出かけているから、その間に従者にここの案内をさせよう」
 
 男が手を二回、叩く。
 すると、細身の男が音もなく現れた。
 
「ご主人さま、お呼びでございますか」
 
 従者として現れた男の方は、黒づくめだった。肌は暗褐色で、艶のある黒髪は後ろで一纏めに結ばれている。垂れた眦の下にある泣きぼくろが特徴的で、同性のウエルから見ても色男だった。
 色男は目を糸のように細めて、微笑を浮かべている。
 
「彼はヤルトという名前だ。これから君のお世話をしてくれるからね。不便なことがあれば、いつでも彼に言いつけてくれ」
「誠心誠意仕えさせていただきます」
 
 黒い男は腰を折って礼をする。
 
「ヤルト……」
 
 ウエルはその名をぽつりと繰り返した。敵意に満ちた視線で睨みつけながら。
 
 山神だけでなくヤルト神まで騙るとは。
 ヤルト神は眠りに就いて動けない山神の代わりに、人間に託宣を授ける伝達者。山神に仕えているといってもいいだろう。
 でも、それを主人と雇われ人という俗な構図に貶めるとは。
 
 ウエルは怒りを抱いていた。
 どこかの富豪が従者とグルになってウエルをどこかの屋敷に閉じ込め、騙そうとしている。何が面白くて男の自分を囲うのか。意図は分からないものの、怒りが降り積もっていく。
 
「そのように見つめられて、この服装が珍しいですか? 黒という色が一番ワタクシに似合う色だと自負しているのです」
 
 ヤルトを名乗る男の服装など、まったく気にしていない。
 だが、言われてみれば彼の服装は黒づくめだった。漆黒の深衣に黒の帯を巻き、裳に開いた切れ込みから見える下衣と革靴も黒だった。
 
「それでは私は行くよ。いい子でお留守番をしていておくれ」
 
 まるで子供に言い聞かせるような口調で言葉をかけると、山神を名乗っている方の男はゆったりとした足取りで部屋を去った。
 
「それでは、いかがいたしましょうか。ご主人さまからはここの案内をするようにと言いつかっておりますが、お疲れでしたらこのまま寝台で休まれていても結構でございますよ」
「ここから出たい」
「分かりました、ご案内いたしましょう」
 
 ウエルはこの屋敷から出たいという意味で言ったのだが、ヤルトはこの部屋から出たいという意味にとったようだ。
 案内が始まる。
 
「いま出てきた部屋がウエルさまのお部屋でございます。好きなようにお過ごしいただければ……」
「なぜ、オレの名前を知っている?」
 
 彼の言葉を遮り、睨みつける。
 いままで彼らに名前を教えなかったし、身に着けていた花嫁衣裳にもウエルの身元を特定するものなど一切なかった。彼らが知っているはずがない。
 
「ご主人さまに分からないことなど、ひとつもないのですよ」
 
 糸のように細い瞳をさらに細めて、こちらを見返した。
 笑いかけてくれているつもりかもしれないが、不気味だ。面白がっているように感じる。
 ヤルトを名乗る男に比べれば、山神を名乗る男の方がまだマシかもしれない。彼の笑みは優しげで穏やかで、少なくとも表面上は敵意がない。
 
「お隣がご主人さまの寝室でございます。許嫁であるウエルさまは出入り自由でございますからね。さて、この廊下の先が食堂でございます。ご主人さまとウエルさまがお二人で食事をなさるお部屋です」
 
 食堂だという部屋をチラリと覗いてみた。三十人は食事ができそうな広い部屋に、朱塗りのテーブルが置かれている。ここでウエルが食事をとるだなんて、分不相応にもほどがある。
 
「今夜は腕によりをかけて、ご馳走を振るわせていただきますね」
「……」
 
 ご馳走と聞いても食欲が湧かず、ウエルは返答しなかった。
 
 他にもさまざまな部屋を案内してもらった。案内されて分かったのは、この屋敷にはひとつも窓がないということだった。屋敷がある場所がどこなのかまったく分からない。街中なのか、それとも人里離れた場所なのかすら窺えない。
 
「もしこういうお部屋がほしいという要望がございましたら、ぜひご主人さまにお伝えください。ウエルさまのためならば、ご主人さまはすぐに部屋を増やしてくださるでしょう」
 
 案内が終わると、ヤルトは言った。
 部屋を増やすとは、増築するということだろうか。部屋ごと増やすなんて大げさなこと、頼む日がくるとは思えなかった。他人になにかをねだること自体が想像の埒外なのに。
 
「あの扉は、どこに続いているんだ?」
 
 ヤルトが唯一案内しなかった扉を、指し示した。
 
「ああ、あの扉の先は玄関でございます。外界は人間には過酷な環境ですので、決して出ていってはなりませんよ」
 
 彼はにこりと答えた。
 
「人間には過酷な環境、ね……」
 
 そんな言葉などには騙されはしない。隙を見て逃げ出してやろうと、ウエルは心に決めた。


 ウエルは広大な湖を前に、足を竦ませていた。
 
 正確にはそれは湖ではない。広い広い湯舟だ。とめどもなく湯が湧き出し、半端な池などよりもよほど広い木製の湯舟を満たしていた。白い湯気がもくもくと空間を覆っている。
 
 狭い小屋に複数人で住まう山跳びの集落に風呂など、もちろんない。井戸から汲んできた水を布に染み込ませて、身体を拭くだけだ。
 
 入浴すら滅多にしないのに、こんなにも広い湯舟をウエルは完全に持て余していた。どうやってこんなに大きな湯舟を湯で満たしているのだろう。考えられない。消費される薪の量を考えると空恐ろしくなるので、思考から追い出した。
 
 試しに足先を湯に浸してみると、あまりの熱さにびっくりして足を引っ込めた。
 こんなにも大量の湯に身体を浸したら、茹でられてしまうのではないだろうか。
 
 その後も何度か足を入れてみようとしたが、恐ろしさを克服することはできなかった。
 仕方なくウエルは湯舟の縁に腰かけ、手渡されていた布を湯に浸す。温かい湯に濡れた布を絞り、身体の上を絞らせた。
 
「ああ……」
 
 普段の冷たい井戸水ではなく、身体を温めてくれる温度の布は気持ちがよかった。こんなに広い湯舟があるのに、指先すら入らずに布で身体で拭いているだけだなんて、我ながら間抜けだ。
 けれども、この屋敷で目を覚ましてから初めて前向きな気持ちになれた。
 
 なんだか無性に可笑しくて、くすくすと笑いながら身体を拭いた。
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