誰からも愛されないオレが『神の許嫁』だった話

野良猫のらん

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第一話

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 深い蒼が、こちらをじっと見据えていた。
 溺れそうな蒼だった。見ているだけで肺の中まで水で満たされて、すべての空気を奪われそうだった。
 
 そこは山の中だった。
 厳しい吹雪が吹きつけ、瞼を開けているのも厳しい。一歩ごとに足は柔らかい雪に沈み、捕らわれていく。息すらも凍りつく。
 目を凝らしてみても、吹雪の合間に見えるのは黒い岩壁と――彼だけだった。
 
「君が来るのをずっと待っていた」
 
 優しい声音。
 彼の言葉を聞いた途端、胸の中が酷く熱くなった。
 今までの苦労がすべて綺麗さっぱり消えていって、報われたような。そんな気分になった。
 
 吹雪の中に立つその男は、美しかった。
 雪と同化するかのような純白の長髪が、風に煽られて靡いている。岩山の黒い色が見えているのかと思えば、よく目を凝らせば毛先が黒褐色だった。暴風の中でも風に煽られず、広がった髪が山のすそ野のように見えた。
 
 雪の降りしきる中でも不思議とよく見える彼の顔は、穏やかなようであり決然とした意志を秘めているようでもあった。人ならざる者にしか醸し出せない美しさがそこにあった。
 
 彼の纏う衣服は裾も袖も地面に着くほど長い。明らかに貴人のものと思われる衣服は、屋内ならば暖かいだろう。だがいかに上等な衣服でも、雪山の中では無力に等しい。なのに彼は顔色一つ変えずに佇んでいた。
 何より印象的な蒼い瞳が、視線を注ぎ続けていた。
 
「愛しい私の許嫁よ、一緒に行こう」
 
 この言葉をずっと待ちわびていた気がした。
 男に差し出された手を、自分は涙を流しながら手に取り――――

 
「――ああ、またこの夢か」
 
 眦から伝い落ちるものを感じながら、ウエルは目を覚ました。涙の伝い落ちたこめかみと髪がかすかに濡れていた。
 
 この夢を見るのは初めてのことではなかった。それどころか、最近ではこの夢を見る回数が増えていた。
 ウエルは夢の中のことを思い出す。雪を踏みしめたことなどないはずなのに、雪に足が埋もれる感触にすら現実感があった。
 いつか夢と現実の区別がつかなくなったとき、本当にあの美しい男が自分を迎えにくるのではないか。
 
「……はっ」
 
 馬鹿げた自分の妄想を一笑に付すと、藁むしろをどかして身体を起こした。水がめをちらりと見やると、もう残り少ない。ウエルが一番に目を覚ましたらしく、他の住人たちはまだむしろに包まって寝ている。溜息を吐き、仕方なく井戸まで水を汲みに行くことにした。
 
 家の外へと一歩出ると、ウエルの住む集落の様子が一望できた。起伏に富んだすり鉢状の土地。傾いだ地面の上に、段々畑のようにぽつりぽつりと家が建っているのが見える。背後を仰ぎ見れば、高く遠く、巨人のような白い尾根が雄々しくそびえ立っているのが目に飛び込んでくる。
 遥か高みのその山稜は、この世で最も高いと言われていた。学者様の計算によれば、およそ三万ハート一万メートルほどの高さがあるのだとか。
 
 山は聖地と呼ばれ、信仰の要となっていた。
 聖地のほんの縁にひっそりと住まわせてもらっているのが、ウエルたちだ。
 
 純白の頂を見上げるたび、ウエルは胸の内が熱くなった。あそこに行けたらどんなにか気分がいいだろう、と思ってしまうのだ。この集落程度の高さでは、雪は降らない。ウエルは一度雪を踏みしめてみたかった。
 実際には山頂は極寒の地で、気分がいいどころか人間にとっては死の領域だそうだが。
 
 人には生きていけない領域で、最高神が一人静かに住んでいると言われている。本当にあそこに神がいるのだろうか。思いを巡らせてみると、胸の内の熱さはますます増した。憧れに似たこの感情は上手く言語化できなかった。ウエルは誰にもこの思いを打ち明けたことはない。
 
 幸いなことに、ウエルの家から井戸まではそう遠くはない。井戸に着いて水を汲んだウエルは、まずその場で顔を洗った。両手に掬った水に、自分の顔が映っている。
 水面に映った青年は、不機嫌そうな顔をしていた。薄汚れた短い黒髪に、睨みつけるようなハシバミ色の鋭い瞳。肌は山焼けして浅黒かった。
 表情から理不尽な世間への怒りが滲み出てしまっている、と我ながら感じた。
 
 ふと、肌着から胸元の痣が覗き見えていることに気づいた。ウエルの鎖骨の少し下辺りには、歪んだ星のような形の痣が存在していた。星の中央はもやもやと染みのように黒くなっている。
 他人に見せれば、不気味がられることは間違いない。ウエルは、慌てて肌着を引っ張って痣を隠した。
 
「よう、ウエルじゃないか!」
 
 ちょうどそのとき、声をかけられた。
 振り向くと、ウエルと同年代の水がめを持った青年がこちらに歩いて向かってきていた。同じ集落に住む仲間だ。
 
「ああ、ええっと……」
 
 彼の名前が出てこない。ウエルは他人の名に興味がなかった。
 
「スニウだ、スニウ。山跳び仲間として結構一緒にやってきてるのに、まだ名前を覚えてくれていないのか?」
「そうだ、スニウだったな」
 
 この集落は、山跳びという山での荷物運びを生業にしている人間の住む場所だ。一つの小屋に、二、三人の山跳びの男たちが起居を共にしている。ウエルとスニウもまた、山跳びの一員だ。
 山を跳ぶように移動できるから山跳び、と呼ばれている。
 
「今日は、神殿までか?」
「ああ、いつも通りだ」
 
 こくりと頷く。町から食料などの物資を受け取り、山中の神殿まで届ける。山跳びの日常業務の一つだった。
 神殿は山の中に存在している。山跳びの集落からは離れた場所に存在するが、高度はさほど変わらない。そこで神官たちが暮らしているため、諸々の物資が必要なのだ。
 
「そっか、俺の方は巡礼者の荷物持ちだ。山神さまの住居が綺麗に見えるあの崖まで、ご案内だ」
 
 聖地には、全国各地から氏族の違いを越えて巡礼者が集まってくる。巡礼者の荷物を持ち、名所や神殿まで案内するのも山跳びの仕事だ。
 
 山に住まう神を省略して、山神。最高神の名は口にしてはならないことになっているので、人々は最高神のことをしばしば山神と呼んでいた。
 山神の住まう白い頂が一望できる崖がある。巡礼者は聖地を訪れたら、まずそこに行くのがお決まりだった。
 
 ウエルは崖までの道のりを頭の中で思い描いた。ウエルは時々、仕事でなくてもあの崖に赴くことがあった。心が落ち込んだときなど、あの白い頂を目にすると心が洗われる気がするから。
 
 だから知っていた。
 
「……最近あの辺りは、落石が多い」
 
 ウエルは端的に言った。
 それを聞いたスニウは目を丸くした後、窘めるような口調になった。
 
「落石が多い? それで、その先は?」
 
 その先は、と問われても何を言えばいいのか分からず戸惑う。そんなウエルに、彼はニカリと笑いかける。
 
「お前の伝えたいことは、『落石が多いから気をつけろ』だろ。きちんと最後まで言えよ、その方が絶対にみんなに好かれるのに。ウエルって、言葉足らずなことが多いよな」
「別に、他人に好かれたくなんてない」
 
 飄々と笑うスニウに自分の苦労なんて分かるまい。ウエルは歯を噛み締めた。
 
「ふーん。あ、そう。変なの」
 
 すげない返事に興味をなくしたのか、スニウは釣瓶を落とし水を汲み始める。ウエルも踵を返して家へと戻る。
 
「心配してくれて、ありがとうな!」
 
 背中に投げかけられた言葉に、ウエルは返事をしなかった。
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