彼はオレの傷を愛している ~人間嫌いのオレが魔術学校の優等生に一目惚れされるなんて~

野良猫のらん

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第三十五話 赤薔薇、あなたを愛してます

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 ――――魂が引っ張られた。
 そんな気がした。   

「ルノ!」

 アレクシスがオレの名を叫んだのが聞こえた。
 視界がぐにゃりと曲がり、吸い込まれるような感覚。

「アレク……!」

 彼の名を呼ぼうとした言葉が声となることはなかった。
 グラグラとした感覚が収まったかと思うと、オレの視界はぐっと低くなっていた。

「ルノ、ルノ……っ!」

 アレクシスが顔を蒼白にしてオレの身体を揺さぶっているのが見えた。
 は眠っているかのように瞼を閉じていた。
 何故第三者になってしまったかのように自分の姿が見えているのだろう。

「ちゅ……っ!」

 エーファも心配そうにオレの頬に爪を立てている。
 前はフクロウが怖くてローブの中に隠れていた癖に、今は小さな体で恐怖を必死に我慢しているようだった。

 アレク、ともう一度叫ぼうとした。

「ナー」

 だがオレの喉から出たのはか細い猫の鳴き声だった。

「君の大事な番の魂はこちらの方だぞ?」

 ぐっと首根っこを掴まれ、身体が持ち上げられる感触がした。
 すぐ横で教授の顔が邪悪にほくそ笑んでいる。

「ま、まさか……ッ!?」
「そうだとも。ルノくんの魂をこの黒猫の身体に移し替えた」

 宙にぶら下げられた自分の視界には、黒猫の手足と腹が映っていた。さっきまで戦っていたあの使い魔の黒猫の身体だと理解できた。
 オレの魂が黒猫の身体の中にある?
 そんな。いくら何でも出鱈目だ、と思った瞬間研究室での光景を思い出した。
 そういえば白ネズミが人間の言語を発していたが、あれはもしや元人間だったのか。

「……ッ!」

 アレクシスは人間の方のオレの手から指輪を抜き取ると、それを掌に握り込む。

Degre ej fïrmè熾火よ……」
「おっと、指輪を燃やすのはオススメしないな。その指輪は君の番の魂と紐づいている。指輪が破壊されれば、魂は戻るべき肉体が分からなくなってしまうぞ」
「く……っ!」

 アレクシスは火の派生属性の精霊を呼び出そうとしたようだが、教授の言葉に悔しそうにそれを中止した。

「このまま私がこの黒猫の首を掻っ切れば君の大切な番も死ぬ。相方が大切なら大人しくしろ」

 教授はオレを人質にしてアレクシスの動きを封じた。
 どうやら教授は自分の使い魔も容赦なく殺すつもりらしい。
 使い魔を道具扱いする魔術師の方が多いのだろう。だが黒猫に対して愛着の欠片もないこの男の言動に虫唾が走った。
 オレだったらエーファを手にかけることはできないと思った。小鼠一匹殺せない元傭兵なんて笑い種だけれど。

「オレが抵抗しなければルノを元に戻してくれるのか?」
「君の命を見逃すことは出来ないが、ルノくんは魂を身体に戻して生かしてあげることを約束しよう」

 オレの身代わりにアレクシスが死ぬ?
 その言葉に血が凍るかと思った。そんなことは絶対に駄目だ。オレなんかの為にアレクシスが死んではならない。

「フーッ!」

 この男の手から抜け出そうと暴れたが、首根っこを掴まれた状態では抵抗のしようがない。
 その上慣れない小さな身体は上手く動かすことが出来なかった。人間の身体とは肩の可動域も何もかもが違う。

「分かった……」

 アレクシスが剣を手放し、地面の上に投げ捨てた。

「ッ!?」

 駄目だ。駄目だ、駄目だ。
 オレのことなんて見捨てればいいのに。オレなんて取るに足らない傭兵崩れだ。大貴族の跡取りであるアレクシスがオレの為に死ぬ必要なんてない。アレクシスには当主を継がなければならない責任があるのだろう。
 ちょっと恋しただけの人間の為に死ぬ理由なんてない筈だ。アレクシスの人生にとってオレは代替可能な部品じゃないのか。火遊びの相手なんて他にいくらでも見つかる。
 悲痛な眼差しでアレクシスを見つめていると、彼が口を開いた。

「ルノがいない世界で生きている意味はない。オレの命でルノが助かるならそれでいい」

 アレクシスの目は真剣そのものだった。
 オレがいないなら生きている意味がないなんて、本当にそんな馬鹿な理論でオレを助けようとしているらしい。
 オレなんかにそこまでの想いを寄せるなんて――――本当に、馬鹿だ。

「流石優等生、物分かりが良いな」

 ヒュフナーは切り傷の痛みに脂汗を流しながら片手を掲げる。
 アレクシスを呪いで殺すつもりだろうか。

 駄目だ、止める手立てがない。
 彼が殺されるのを見ているしかないのか。
 オレにもっと力があれば、あるいはもっと用心深ければ……

 絶望した、その時。

「我が息子よ、失望したぞ」

 稲妻が閃いた。
 光を伴った衝撃がヒュフナーの手に直撃した。
 猫のヒゲの先から焦げ臭さを感じたのと同時に、ヒュフナーが手を離したので急いで逃げ出す。

「グロースクロイツ家の次期当主が敵の取引に応じるなど論外。お前には力が足りない」

 雲一つないのに雷鳴轟く中庭にその男は立っていた。
 男は漆黒の肌色の顔を厳めしく顰めている。
 アレクシスが砂漠の月夜を思わせる柔らかい黒ならば、その男は酷く硬質で何者も寄せ付けない黒だった。
 深く皺の刻まれたその顔は、アレクシスの老いた未来の姿を感じさせた。

「父上!」

 アレクシスが叫ぶ。
 そうか、やはりこの男はアレクシスの父……グロースクロイツ家の当主だ。
 その肩には黒い鷹が止まっている。

「ヴィル、どうして……」

 ヒュフナーが呻くように元親友の名を呼んだ。

「ヨハン、お前のことは息子に秘密裏に始末させるつもりだったのだがな。息子には荷が重すぎたようだ」

 ヨハン? ヒュフナー教授のファーストネームは確かヨハネス、だったか。
 アレクシスの父もまたヒュフナーを愛称で呼ぶ仲だったようだ。

「お前のことを友と思っていたことは、我が生涯における汚点の一つだ」

 さらりと言ってのけたアレクシスの父の言葉は氷のように冷たかった。
 グロースクロイツ家を保つ為ならなんでもする酷薄な男のイメージが再来する。
 この男が本当に少しでもヒュフナーに情を感じていたのだろうか。

「ヴィル、私の研究は正義なんだ! 人々を不条理から救える!」

 今更説得できると思っているのか、ヒュフナーは肩から血を流しながら叫んだ。

「正義だと?」

 その叫びをアレクシスの父は一笑に付した。

「お前の動機は正義などではない、だけだ」
「……え?」

 それは誰の漏らした呟きだったか。
 ヨハネス・ヒュフナーは愕然と元親友を見つめたまま、石のように固まった。

「私が家を継ぎ妻を娶った時から、お前は私を試す行為を幾度となく重ねてきた。すなわち、友と家のどちらが大事なのかと。今回の研究もその一環に過ぎない」
「そんな、私は……ッ」

 二人の間に言葉を挟むことなど到底できなかった。
 彼らの間に何があったのか、推察することしかできない。実際に知っている訳ではないオレには肯定することも否定することもできなかった。

「かつて私の使用人を勝手に"実験材料"としてべたのもそうした行為の一つだった」
「……ッ!」

 アレクシスが息を呑んだ。
 その使用人というのはまさか、アレクシスの乳母だった女性のことか?
 ヒュフナー教授が乳母を殺した下手人だったというのか。

「く……!」

 ヒュフナーは苦し紛れに走り出す。
 それはまるでこの場から逃げ出すためというよりも、現実から目を背けるためであるように見えた。
 血と泥に塗れて敗走するのが彼の目指した誇り高き魔術師とやらに相応しい姿だったのだろうか。

「待て、ヒュフナー! ぐ……ッ!」

 後を追おうとしたアレクシスがフクロウに行く手を阻まれる。
 先ほどサーベルを手放してしまった彼は腕で顔を覆い、かぎ爪が襲ってくるのを防ぐしかない。
 このままでは逃げられてしまう。

「グルルルル……ウォフ、ウォウ!」

 吠え声が二頭分、夜闇に響いた。
 犬、いや、狼の声だ。

「おっと何処へ行く気だ?」

 闇の中でも淡く浮かび上がる蒼い髪。
 現れ出でたのはバルト先生とその使い魔の狼たちだった。

「ルノくん、大丈夫かっ!」

 その隣から明かりを持ったケントが現れる。
 学園の教師を呼んで来てくれたのだ。
 他にも続々と他の科の教師たちが現れ、ヒュフナーの手を捻り上げて猿轡を噛ませる。フクロウも捕らえられた。
 もう奴は抵抗できないだろう。これで事態は収束したのだ。

 その様子をじっと眺めていたら、暖かい腕がオレの身体を抱き上げた。
 黒猫の身体を黒い手が撫でる。アレクシスの顔がすぐ傍にあった。

「ナー」

 自分の喉から出た鳴き声に、そういえば猫になってしまったのだったと思いだした。

「そんな姿にさせてしまってすまない、ルノ」

 蝶の羽音よりも優しい声音がそっと耳に届く。
 夜に溶ける彼の顔。長い睫毛が満月の光を受けていた。

「もしも元に戻らなかったなら、オレは一生かけて責任を……」

 彼の眦から粒が溢れ出しそうだと思った瞬間だった。

「フーッ!」

 黒猫は暴れ出してアレクシスの腕から逃れた。
 猫が逃げてしまったことに困惑しているアレクシスに、は後ろから声をかける。

「一生かけて、何だって? その続きは?」

 アレクシスは振り返る。
 その瞳には人間の身体に戻ったオレの姿が映り込んでいた。
 ヒュフナーの魔術ももう効力が切れたのだろう。意識を取り戻したオレはぐっと身体をアレクシスに寄せた。

「い、いや、今のは君が猫のまま戻らなかったらの話で……っ」

 なぜ雰囲気に任せて押してしまわないのか。
 オレはアレクシスに片眉を上げる。

「ふうん、オレは別に構わなかったんだけどな」
「え、それって……」

 彼の目が見開かれていくのと同時に、オレも頬が熱くなる。
 それでも視線を逸らさず、彼を見つめた。

「アレクと、一生一緒にいたい。駄目か?」
「……駄目なものか」

 彼の腕が力強くオレの身体を抱き締めた。
 オレはそれに応えて、彼を抱き締め返したのだった。
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