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第三十一話 アズマギク、しばしの別れ

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 頭上に浮かんだ満月が静かに学園の庭を照らしている。
 蒼い夜空を丸く切り取ったかのように白い月は、この世界をまるで別物のように見せる。

 オレの世界もルノに出会って変わった、と思い返す。
 彼には一目惚れであったが、こうして改めて思い返してみて確信する。オレは一生かけて愛すべき運命に出会ったのだと。
 彼の言葉や、触れてくれた体温を思い出すだけで何にも屈したくないと己を鼓舞できる。彼の支えになってやれるのはオレしかいないと思っていたが、オレもまた彼なしでは生きられないようになってしまっているのかもしれない。
 最近ではルノが不意打ちに可愛らしい顔を見せてくれることがあまりにも多くなり過ぎて、スマートな返しが上手く出来ていないように思う。このままではルノに幻滅されかねない。
 上手くルノを口説き落とす為にも彼好みの男を演じなければ……。

「!」

 人の気配を感じ、咄嗟に木陰に身を隠す。
 満月が煌々と照らす中でどれほど効果があるかは分からないが、まずは様子見をしたかった。

 やがて、姿を現したのは……

「そんな、まさか……」

 黒猫を肩に乗せ、モノクルをかけた初老の男。
 使役学の講師、ヨハネス・ヒュフナー教授だった。

(まさか、ヒュフナー教授が……っ!?)

 木陰から盗み見た光景に目を疑った。
 使役学を受けたことはあるが、彼はとてもいい教師だった。父と旧知の仲であることもあり、信頼できる人だと思っていた。
 ともかく彼が何を行うのか様子を見なければならない。自分の推測が大きく間違っていなければ、何らかの魔術儀式が行われるのではないだろうか。わざわざ研究室ではなく外に出てきたということは、この満月を利用しなければ行えない術式を行使するつもりだろう。
 一体何を……と息を殺していたその時だった。ヒュフナー教授が突然、顔の向きを変えてこちらを真っ直ぐに見据えたのだ。

「ッ!?」
「そこに隠れているんだろう。出て来なさい」

 はったり、とは思えなかった。
 それにしてはあまりにも正確にこちらの位置を捉えている。

「ルトガーの目を誤魔化すことは出来ないぞ」

 自分の背後でほう、とフクロウが鳴いた。
 振り向くとそこに教授の使い魔のフクロウがいた。
 こんなすぐ近くにいたなんて。ぞっと冷や汗が出た。

「……」

 両手を上げて降参の意を示しながら、木陰から出た。

「アレクシス・グロースクロイツくん。……つまりグロースクロイツ家は私を裏切るのか」

 教授はオレの姿を見て淡々と言った。

「家は関係ありません。オレはオレの意志で見極めに来ました」
「ほう、そうか。ならアレクシスくんには話しておこうか。これから私のやろうとしていることを」

 教授の瞳にいささかの期待が灯るのが見えた。オレとしても彼の話は聞いておかなければならない。
 父からの手紙には今夜ここに来るのはグロースクロイツ家の敵であるとあった。それは悪であると。討たなければならないだけの理由があるのだと書いてあった。
 だが、もし父が家の繁栄のためだけに何の罪もない人間すら始末しようとしているのだとしたら? もしかすれば悪は父の方かもしれない。
 乳母大切なひとが謎の死を遂げたのも……父が殺したからだったとしたら?
 だとしたら――――



* * *



「この扉の向こうにはヒュフナー教授のとっておきの研究成果でもあるのかもしれないな」

 突如として現れた扉を前に、ケントは冷静に言った。
 研究室の中にあった隠し扉なのだから、確かにこの中には教授が絶対に盗まれたくないと思った研究があるのが自然だろう。

「チュ!」

 どうだ偉いだろう、と言わんばかりにエーファが肩に飛び乗ってきた。
 そんなエーファを叱りつけるのも馬鹿らしくなって、力無く彼女の頭を撫でておいた。

「とにかく、教授の大切なものがあるなら棚を元に戻しておこう」
「そんな、この中にもっと面白いものがあるかもしれないのに!?」

 隠し扉をそっと隠そうとしたら、ケントに反対されてしまった。

「いや、勝手に見るのは良心にもとるだろ……」

 ケントの勢いに扉の向こうにまったく興味が湧かないオレの方がおかしいのだろうかと圧されそうになる。
 その時だった。

「……け……て……」

 か細い声が聞こえた。
 それは確かに扉の向こうから聞こえたものだった。

「たすけ……」
「まさか扉の向こうに人がいるのか!?」

 ケントが血相を変えて扉を叩く。

「くそっ、開かない!」

 ノブのない扉はケントがいくら押しても開く気配がない。

「どけっ、ぶち破る!」
「ちゅっ!?」

 エーファを掴んでそこら辺に置いておくと、扉に体当たりをかます。
 全体重を乗せて扉に衝撃を与えるが、それでも扉は傾ぐ気配すら見せなかった。単にオレの身体が痛くなっただけだった。

「魔術で封印されてんのか?」

 焦りながら扉の縁に爪を立てようとする。
 ここが魔術師の工房であることを考えれば魔術による仕掛けがしてある可能性の方がずっと高い。こんなことをしても無駄だろう。

「よく見るとここに溝が彫られてるぞ」

 ケントの声に気が付いた。
 扉の中心によく見ないと気が付けないくらいとても小さい円が彫られていた。
 これが扉を開けるのに関係するのかと円の中心に触れたり溝をなぞったりしてみたが、何も起こらなかった。

「こいつは関係ないのか」
「中に閉じ込められている人がいるかもしれないのに……」

 もう声は聞こえなくなってしまっている。
 ヒュフナー教授が間違って自分の隠し部屋の中に閉じ込められてしまったのだろうか。
 ともかく中から助けを求める声が聞こえたのだから助けなければならない。

「く……っ」

 無駄だと思いながらも扉を思い切り押してみる。もちろん扉が動くことはない。

「ん……?」

 その時、自分の手に視線がいった。正確にはそこに付けた指輪に。
 ヒュフナー教授にもらった木製の黒い指輪だ。
 オレはその指輪の色がこのドアノブのない扉の色ととても似通っていることに気が付いた。

「もしかして……」

 オレは直感的に指輪を外すと、指輪を扉の溝に押し当てた。
 指輪はピタリと溝に嵌まった。

 カチリ。

 軽い物音と共に、扉が開いた。

「開いた!」

 扉の中に飛び込んだ。ケントもその後に続く。

「暗くてよく見えねえな……」

 明かり一つない隠し部屋の中はあまり窺い知ることができなかった。
 ただ、もそもそと周りで何かが蠢いているような気がした。

「火の精霊を呼び出せれば良かったんだが」

 残念ながらオレが適性があるのは霊の属性で、ケントは風と水だ。
 仕方がないので目を凝らしていると、暗闇に慣れてきた目が隠し部屋の中にある物を浮かび上がらせた。

「――――ッ!?」

 そこにあったのは、ずた袋に入れられた沢山の子供だった。一つ一つのずた袋から頭だけ出した子供たちが眠っているかのように目を閉じている。呼吸はしているのかずた袋の中身が微かに膨らんでは萎んでを繰り返していた。

「たすけて。おなかすいた」

 小さな声が聞こえた。だが、その声はずた袋に入れられた子供から発せられたものではなかった。

「たすけて」

 檻の中に入れられた白いネズミが喋っていた。
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