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第八話 百合の刻印、純心
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魔術学校を囲むように茂る深い森。
オレはその片隅で目を閉じ、精神を集中させていた。
そして、詞を紡ぐ。
「Q`à tajto, Ma Èssæd tajtejr……」
正しい単語を、正しい発音で。
大丈夫だ、ここまでは何も間違えてない。
「Ma nàmï Srajs, ma kœreu el regssajr. Ma um à Lüno……!」
万感の思いを込めて、最後の節まで唱え終わる。
これが精霊に語り掛けるときの決まり文句だ。
ちゃんと何も見ないで正確に言えた。
これで精霊が何らかの応えをくれるはず……!
しかし、いつまで待っても何も起きなかった。
どうしてだ。オレは唱える言葉すらあやふやだった他の同級生たちとは違う。
だが、ただひたすらに森の騒めきが聞こえるだけだった。
森の中に人間がいることに驚いたのか、リスが「ヂュッ!」と鳴いて逃げていく。
不意にガサリと物音がする。
誰かが来る。
「ルノ、調子はどうだ?」
アレクシスが現れて、オレに声をかけた。
ここにいることなんて言わなかったのに、どうやってオレを見つけ出したんだ。
「どうもこうも、てんで駄目だ」
「ふふ、そうか。パンを持ってきたんだが、食べないか?」
アレクシスがパンを差し出す。
いつも食堂で提供されている塩辛いパンだ。
食堂では朝昼夜の決まった時間にしか食事が出ない。
どうしてこんな真夜中にパンを持っているんだ?
「何処から手に入れた?」
「厨房からくすねてきた」
彼は肩を竦めて何でもないことのように言った。
ははあ、なるほど。
「それくらいで悪いことをしたつもりかよ、貴族の坊ちゃんが」
またオレの気を惹くために悪ぶっているのだ。
オレはそんな彼の言動が擽ったくて、嬉しかった。
「なら、いらないんだな?」
アレクシスはパンを受け取ろうとしたオレの手から、ひょいとパンを取り上げてしまう。
「いる!」
遅くまで精霊との交信を練習していて空腹だったから、彼の差し入れは絶好のタイミングだった。
オレは彼の手にしたパンに飛び掛かり、彼はさらに高く手を上げてオレを揶揄うのだった。クソッ、これだから背の高い奴は……!
「なあ、あんたがやってみせてくれないか?」
さんざん揶揄い尽くされた後にやっと受け取れたパンにありつきながら、アレクシスに頼む。見本を見れば自分の何処が悪いのか分かるんじゃないかと思ったのだ。
「精霊との会話をか? いいぞ」
彼は立ち上がると、一歩前に進み出る。
森の暗闇の中に、彼の黒肌が溶け込む。
深く息を吸い込む音。
そして、詞が詠われる。
「Q`à tajtò, Ma Èssæd tajtejr.」
彼の発したそれに、息を呑んだ。
「Ma nàmï Srajs, ma kœreu el regssajr. Ma um à Alexis……!」
風が脇を通り抜ける。
そして白いローブがはためくのが見えた。
「ふふ」
姿の見えない小動物が彼の頬を撫でたかのように、彼は目を眇めて微笑む。
そして宙に人差し指を差し出す。精霊に触れているのだろうか。
「Q`à drèg.」
ローブの裾がひらひらと風に流されているのを見て、彼は笑った。
理解した。
オレの何が悪かったのか。
古代魔術師が紡ぐのは呪文ではない。詞だ。
オレはその意味を何も分かっていなかった。
正確な単語を言えればいいのではない。
正確な発音が出来ればいいのではない。
それらが求められるのは現代魔術の呪文だ。
オレたちは、語りかけなければならない。
精霊はきっとそこにいるのだ。
すぐ隣に在ることを信じなければならなかった。
「ルノ」
アレクシスがオレを手招きする。
立ち上がって彼の隣に立つと、顔に爽やかな風が吹くのを感じた。
大きな舌にべろりと舐め上げられたかのような感覚。
でも、不思議と温かくて嫌な感じはしない。
「Q`à ma dærhï yœ.」
彼が何やら精霊に語りかけている。
何と言っているのだろう。
まだ聞いた端から理解できるほど、古代語が頭に馴染んでないのだ。
何か大きな気配を周りに感じる。
シスルの町の石像は小さな子供のような大きさだったが……もしかして、精霊ってもっとずっと大きなものなんじゃないだろうか。
「なあ、今なんて言ったんだ?」
アレクシスを見上げて尋ねる。
「君を紹介したのさ」
「ふうん」
オレもいつかは彼のように精霊と自由自在に言葉を交わせるようになるだろうか。
子供のような期待がオレの胸を熱くしていた。
*
翌日、いつものように大教室に入ろうとしたその時だった。
「少し話があるのですが、よろしいですか?」
見知らぬ赤毛の同級生に声をかけられた。
先日のブロンド野郎を思い出して顔を顰める。
知らない奴がいきなり声をかけてくる時は、大体悪い時だ。
「お手間は取りません。話はすぐに終わります」
赤毛の彼は丁寧に頼んでくる。
だが警戒は崩さない。
「一体何の用だ。先に用件を言え」
オレよりも背の低いそいつを睨みつけると、彼はにこりと微笑んだ。
「では、私はアレクシス・グロースクロイツの番になるはずだった者です。と言えば分かるでしょうか」
一瞬で空気が凍り付いたように感じられた。
予想して然るべきだった。
ケント曰く、グロースクロイツ家のような大貴族は番相手をあらかじめ決めている。
それが何故かアレクシスはオレを選んでしまった。
つまり、本来ならばアレクシスに選ばれる筈だった奴がいるのだ。
人気のない廊下を選んで移動する。
赤毛の少年の胸中を想像すると、生きた心地がしなかった。
自分を差し置いて何処の馬の骨とも知れない平民がアレクシスに選ばれた瞬間、彼はどんなに惨めだったろうか。
オレだったら自害しているかもしれない。
オレを恨んでるだろうか。恨んでるに決まってる。
この場で殺されても不思議ではない。
「そんなに緊張しないで下さい。私は礼を言いたいだけなんです」
「礼だと?」
一体どんな嫌味を口にする気だろうか。
オレは身構える。
「ええ。アレクシス様が貴方を選んでくれたおかげで……正確には、私を選んで下さらなかったおかげで、私は想い人と番になることができたのですから!」
「は?」
赤毛の少年が満面の笑みを浮かべて言った言葉が、一瞬頭に入ってこなかった。
何? 何だって?
「実を言うと、この学園の上級生に想い人がいたのです」
少年は恥じらいながら右手の甲を見せてくる。
そこには百合の刻印があった。
「……なるほど。それなのに親に勝手にアレクシスの番になるように決められて困ってたって訳か」
拍子抜けして肩の力が抜けた。
なんだ、本当に礼を言いに来ただけかよ。
「なら偶然アレクシスがオレを選んで幸運だったな」
「いえ、偶然ではないと思いますよ」
偶然ではない? どういうことだ?
「私と私の番相手とアレクシス様の三人は幼馴染なのです。私と彼の仲は、アレクシス様もよく知っています。だから刻印の儀の時に私を選ぶことを避けてくれたのではないでしょうか」
「…………ッ!?」
頭を殴られたような衝撃があった。
アレクシスには予め決められた相手を選びたくない理由があった。
もしかして――――オレを選んだのは適当だったのか?
一目惚れがどうのこうのと最初は言っていたが、思えばそれ以来好意を示す言葉を彼に言われてない気がする。はっきりと「君が好きだ」と言われたことは一度もない。
もしかしてアレクシスは、親に決められた相手でなければ誰でも良かったのではないだろうか。
本当にオレに一目惚れなんかしてる訳がないとは常々思っていた。
だが、ただ適当に目についたから選んだだけなのかもしれないという可能性に衝撃を受けた。
一目惚れ云々は冗談だったのだろうか。
彼の冗談を真に受けて彼と過ごす日々に浮かれていたのは、オレの方だったんじゃないだろうか。
「そろそろ授業が始まってしまいます。戻りましょう」
「あ、ああ……」
その日の授業はずっと上の空で、碌に頭に入ってこなかった。
オレはその片隅で目を閉じ、精神を集中させていた。
そして、詞を紡ぐ。
「Q`à tajto, Ma Èssæd tajtejr……」
正しい単語を、正しい発音で。
大丈夫だ、ここまでは何も間違えてない。
「Ma nàmï Srajs, ma kœreu el regssajr. Ma um à Lüno……!」
万感の思いを込めて、最後の節まで唱え終わる。
これが精霊に語り掛けるときの決まり文句だ。
ちゃんと何も見ないで正確に言えた。
これで精霊が何らかの応えをくれるはず……!
しかし、いつまで待っても何も起きなかった。
どうしてだ。オレは唱える言葉すらあやふやだった他の同級生たちとは違う。
だが、ただひたすらに森の騒めきが聞こえるだけだった。
森の中に人間がいることに驚いたのか、リスが「ヂュッ!」と鳴いて逃げていく。
不意にガサリと物音がする。
誰かが来る。
「ルノ、調子はどうだ?」
アレクシスが現れて、オレに声をかけた。
ここにいることなんて言わなかったのに、どうやってオレを見つけ出したんだ。
「どうもこうも、てんで駄目だ」
「ふふ、そうか。パンを持ってきたんだが、食べないか?」
アレクシスがパンを差し出す。
いつも食堂で提供されている塩辛いパンだ。
食堂では朝昼夜の決まった時間にしか食事が出ない。
どうしてこんな真夜中にパンを持っているんだ?
「何処から手に入れた?」
「厨房からくすねてきた」
彼は肩を竦めて何でもないことのように言った。
ははあ、なるほど。
「それくらいで悪いことをしたつもりかよ、貴族の坊ちゃんが」
またオレの気を惹くために悪ぶっているのだ。
オレはそんな彼の言動が擽ったくて、嬉しかった。
「なら、いらないんだな?」
アレクシスはパンを受け取ろうとしたオレの手から、ひょいとパンを取り上げてしまう。
「いる!」
遅くまで精霊との交信を練習していて空腹だったから、彼の差し入れは絶好のタイミングだった。
オレは彼の手にしたパンに飛び掛かり、彼はさらに高く手を上げてオレを揶揄うのだった。クソッ、これだから背の高い奴は……!
「なあ、あんたがやってみせてくれないか?」
さんざん揶揄い尽くされた後にやっと受け取れたパンにありつきながら、アレクシスに頼む。見本を見れば自分の何処が悪いのか分かるんじゃないかと思ったのだ。
「精霊との会話をか? いいぞ」
彼は立ち上がると、一歩前に進み出る。
森の暗闇の中に、彼の黒肌が溶け込む。
深く息を吸い込む音。
そして、詞が詠われる。
「Q`à tajtò, Ma Èssæd tajtejr.」
彼の発したそれに、息を呑んだ。
「Ma nàmï Srajs, ma kœreu el regssajr. Ma um à Alexis……!」
風が脇を通り抜ける。
そして白いローブがはためくのが見えた。
「ふふ」
姿の見えない小動物が彼の頬を撫でたかのように、彼は目を眇めて微笑む。
そして宙に人差し指を差し出す。精霊に触れているのだろうか。
「Q`à drèg.」
ローブの裾がひらひらと風に流されているのを見て、彼は笑った。
理解した。
オレの何が悪かったのか。
古代魔術師が紡ぐのは呪文ではない。詞だ。
オレはその意味を何も分かっていなかった。
正確な単語を言えればいいのではない。
正確な発音が出来ればいいのではない。
それらが求められるのは現代魔術の呪文だ。
オレたちは、語りかけなければならない。
精霊はきっとそこにいるのだ。
すぐ隣に在ることを信じなければならなかった。
「ルノ」
アレクシスがオレを手招きする。
立ち上がって彼の隣に立つと、顔に爽やかな風が吹くのを感じた。
大きな舌にべろりと舐め上げられたかのような感覚。
でも、不思議と温かくて嫌な感じはしない。
「Q`à ma dærhï yœ.」
彼が何やら精霊に語りかけている。
何と言っているのだろう。
まだ聞いた端から理解できるほど、古代語が頭に馴染んでないのだ。
何か大きな気配を周りに感じる。
シスルの町の石像は小さな子供のような大きさだったが……もしかして、精霊ってもっとずっと大きなものなんじゃないだろうか。
「なあ、今なんて言ったんだ?」
アレクシスを見上げて尋ねる。
「君を紹介したのさ」
「ふうん」
オレもいつかは彼のように精霊と自由自在に言葉を交わせるようになるだろうか。
子供のような期待がオレの胸を熱くしていた。
*
翌日、いつものように大教室に入ろうとしたその時だった。
「少し話があるのですが、よろしいですか?」
見知らぬ赤毛の同級生に声をかけられた。
先日のブロンド野郎を思い出して顔を顰める。
知らない奴がいきなり声をかけてくる時は、大体悪い時だ。
「お手間は取りません。話はすぐに終わります」
赤毛の彼は丁寧に頼んでくる。
だが警戒は崩さない。
「一体何の用だ。先に用件を言え」
オレよりも背の低いそいつを睨みつけると、彼はにこりと微笑んだ。
「では、私はアレクシス・グロースクロイツの番になるはずだった者です。と言えば分かるでしょうか」
一瞬で空気が凍り付いたように感じられた。
予想して然るべきだった。
ケント曰く、グロースクロイツ家のような大貴族は番相手をあらかじめ決めている。
それが何故かアレクシスはオレを選んでしまった。
つまり、本来ならばアレクシスに選ばれる筈だった奴がいるのだ。
人気のない廊下を選んで移動する。
赤毛の少年の胸中を想像すると、生きた心地がしなかった。
自分を差し置いて何処の馬の骨とも知れない平民がアレクシスに選ばれた瞬間、彼はどんなに惨めだったろうか。
オレだったら自害しているかもしれない。
オレを恨んでるだろうか。恨んでるに決まってる。
この場で殺されても不思議ではない。
「そんなに緊張しないで下さい。私は礼を言いたいだけなんです」
「礼だと?」
一体どんな嫌味を口にする気だろうか。
オレは身構える。
「ええ。アレクシス様が貴方を選んでくれたおかげで……正確には、私を選んで下さらなかったおかげで、私は想い人と番になることができたのですから!」
「は?」
赤毛の少年が満面の笑みを浮かべて言った言葉が、一瞬頭に入ってこなかった。
何? 何だって?
「実を言うと、この学園の上級生に想い人がいたのです」
少年は恥じらいながら右手の甲を見せてくる。
そこには百合の刻印があった。
「……なるほど。それなのに親に勝手にアレクシスの番になるように決められて困ってたって訳か」
拍子抜けして肩の力が抜けた。
なんだ、本当に礼を言いに来ただけかよ。
「なら偶然アレクシスがオレを選んで幸運だったな」
「いえ、偶然ではないと思いますよ」
偶然ではない? どういうことだ?
「私と私の番相手とアレクシス様の三人は幼馴染なのです。私と彼の仲は、アレクシス様もよく知っています。だから刻印の儀の時に私を選ぶことを避けてくれたのではないでしょうか」
「…………ッ!?」
頭を殴られたような衝撃があった。
アレクシスには予め決められた相手を選びたくない理由があった。
もしかして――――オレを選んだのは適当だったのか?
一目惚れがどうのこうのと最初は言っていたが、思えばそれ以来好意を示す言葉を彼に言われてない気がする。はっきりと「君が好きだ」と言われたことは一度もない。
もしかしてアレクシスは、親に決められた相手でなければ誰でも良かったのではないだろうか。
本当にオレに一目惚れなんかしてる訳がないとは常々思っていた。
だが、ただ適当に目についたから選んだだけなのかもしれないという可能性に衝撃を受けた。
一目惚れ云々は冗談だったのだろうか。
彼の冗談を真に受けて彼と過ごす日々に浮かれていたのは、オレの方だったんじゃないだろうか。
「そろそろ授業が始まってしまいます。戻りましょう」
「あ、ああ……」
その日の授業はずっと上の空で、碌に頭に入ってこなかった。
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