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十章
四
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江西は静かに語りだした。
「鎌倉の頃に活躍したある絵師に至っては、すでにこの世に真作はないと言われています。にも関わらず、その作品は毎年のように市場に出され、高値で売られていく」
「真作はもうないんだろ? じゃあ、そいつは――」
「贋作です」
当然のように答えた江西に、我聞が訝しげな表情を返す。
「あんた、今、そいつが高値で売られているって言わなかったか? 贋物なのに売れるのか? 本物だって騙して売り捌くってのか?」
岡っ引きとして聞き流すわけにはいかないのか、我聞がぐぐっと身を乗り出してくる。
「叔父上、その贋物はもう本物なんですよ」
宥めるように、夢一が口を挟んだ。
「本物? 贋物が?」
「本物がこの世に一点たりとも存在せず、本物を描いた絵師も、本物を知る者たちもすでに亡くなっているのであれば、市場に出されたその絵が贋物だと、誰が言えるんです?」
「それは……」
夢一は疲れたように息を吐いた。
「贋物だと証明できぬのであれば、それは本物なんです。本物だと言わざるを得ないんです」
「そんな馬鹿げた――」
そこでなにかに思い当たったのか、我聞が息を呑んだ。
「まさか……」
夢一は頷くしかなかった。
「贋仔弐阿弥……いや、あの魔思はそうやって本物になろうとしているのでしょう。仔弐阿弥本人と仔弐阿弥を知る者たちをこの世から消し去ることで……。そうだな江西?」
江西は口元に微笑を浮かべた。しかしその目だけは笑っていない。硝子玉のような瞳だ、と夢一は思った。
「ふふ、この世に己がふたりいるなんて耐えられぬでしょう? それは己の存在を危うくさせますから」
江西は今までの無表情が嘘のように、挑発的な視線で夢一と我聞を見返してくる。
「ならば己が生きるために、その邪魔は取り除かなければならない。幸運にも霊扇十二支のひとつ、”氷申”という莫大な力を手に入れた贋の存在は、その力を使って真の存在を消し去ることを決意したのです」
朗々と語り上げた江西は声を上げて笑った。狂気的なものさえ感じさせるその笑い声に、我聞もましろも、そして口の中に食べ物をいっぱいに詰め込んだはちみつさえも呆気に取られる。だが夢一だけは身構えるように表情を硬くした。
「江西、あんた、ずいぶん、あの魔思の心情がわかるみてえだな? いや、少々察しが良すぎねえか」
江西はなにも答えず、ただ悠然と立ち上がった。それを見た夢一が、
「気をつけろ!」と、声を上げたときだ。
突然、船が大きく揺れた。
船体がなにかに引っ掛かったようにななめに傾ぎ、夢一たちは大きく姿勢を崩した。
「なにが起こった!? おい、船頭! いったいどうした!?」
我聞が外にいる船頭を大声で呼ぶと、座敷の障子戸が荒々しく打ち倒れてきた。
「お……親分さん……」
座敷に倒れ込んできたのは、船頭をしていた中年男だ。
「いったいなにがあった――」
怒鳴るように声を上げた我聞は倒れた船頭に駆け寄るなり、表情を強張らせた。
「――おいでなすったようだぜ、夢坊」
夢一は素早く、倒れた障子戸から外へ身を躍らせた。その際、床に打ち伏した船頭を横目で見ると、その半被には霜が取り付き、かすかに冷気が立ち昇っていた。
”氷申”。こんな川のど真ん中にどうやって――。
その疑問の答えは、外に飛び出した夢一の眼前に広がっていた。
「これは……!?」
すでに日は暮れ、江戸の空は紫黒色に覆われていた。月の見えない、息苦しささえ覚える闇の夜。
その空の下で、江戸の大河、大川は見渡す限り凍り付いていた。
「鎌倉の頃に活躍したある絵師に至っては、すでにこの世に真作はないと言われています。にも関わらず、その作品は毎年のように市場に出され、高値で売られていく」
「真作はもうないんだろ? じゃあ、そいつは――」
「贋作です」
当然のように答えた江西に、我聞が訝しげな表情を返す。
「あんた、今、そいつが高値で売られているって言わなかったか? 贋物なのに売れるのか? 本物だって騙して売り捌くってのか?」
岡っ引きとして聞き流すわけにはいかないのか、我聞がぐぐっと身を乗り出してくる。
「叔父上、その贋物はもう本物なんですよ」
宥めるように、夢一が口を挟んだ。
「本物? 贋物が?」
「本物がこの世に一点たりとも存在せず、本物を描いた絵師も、本物を知る者たちもすでに亡くなっているのであれば、市場に出されたその絵が贋物だと、誰が言えるんです?」
「それは……」
夢一は疲れたように息を吐いた。
「贋物だと証明できぬのであれば、それは本物なんです。本物だと言わざるを得ないんです」
「そんな馬鹿げた――」
そこでなにかに思い当たったのか、我聞が息を呑んだ。
「まさか……」
夢一は頷くしかなかった。
「贋仔弐阿弥……いや、あの魔思はそうやって本物になろうとしているのでしょう。仔弐阿弥本人と仔弐阿弥を知る者たちをこの世から消し去ることで……。そうだな江西?」
江西は口元に微笑を浮かべた。しかしその目だけは笑っていない。硝子玉のような瞳だ、と夢一は思った。
「ふふ、この世に己がふたりいるなんて耐えられぬでしょう? それは己の存在を危うくさせますから」
江西は今までの無表情が嘘のように、挑発的な視線で夢一と我聞を見返してくる。
「ならば己が生きるために、その邪魔は取り除かなければならない。幸運にも霊扇十二支のひとつ、”氷申”という莫大な力を手に入れた贋の存在は、その力を使って真の存在を消し去ることを決意したのです」
朗々と語り上げた江西は声を上げて笑った。狂気的なものさえ感じさせるその笑い声に、我聞もましろも、そして口の中に食べ物をいっぱいに詰め込んだはちみつさえも呆気に取られる。だが夢一だけは身構えるように表情を硬くした。
「江西、あんた、ずいぶん、あの魔思の心情がわかるみてえだな? いや、少々察しが良すぎねえか」
江西はなにも答えず、ただ悠然と立ち上がった。それを見た夢一が、
「気をつけろ!」と、声を上げたときだ。
突然、船が大きく揺れた。
船体がなにかに引っ掛かったようにななめに傾ぎ、夢一たちは大きく姿勢を崩した。
「なにが起こった!? おい、船頭! いったいどうした!?」
我聞が外にいる船頭を大声で呼ぶと、座敷の障子戸が荒々しく打ち倒れてきた。
「お……親分さん……」
座敷に倒れ込んできたのは、船頭をしていた中年男だ。
「いったいなにがあった――」
怒鳴るように声を上げた我聞は倒れた船頭に駆け寄るなり、表情を強張らせた。
「――おいでなすったようだぜ、夢坊」
夢一は素早く、倒れた障子戸から外へ身を躍らせた。その際、床に打ち伏した船頭を横目で見ると、その半被には霜が取り付き、かすかに冷気が立ち昇っていた。
”氷申”。こんな川のど真ん中にどうやって――。
その疑問の答えは、外に飛び出した夢一の眼前に広がっていた。
「これは……!?」
すでに日は暮れ、江戸の空は紫黒色に覆われていた。月の見えない、息苦しささえ覚える闇の夜。
その空の下で、江戸の大河、大川は見渡す限り凍り付いていた。
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