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二章
三
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「その必要はありませ~ん!」
表口の引き戸ががらりと開いた。
「――と、ましろは思うのですよ」
柔かく包み込む声が、綿毛のように飛んできた。
その声の主は、野菜がいっぱいに飛び出した編み籠を抱え、きゅっと唇を引き締めて戸口に立っている。
すずめと年齢も背丈も変わらなさそうな、線の細い少女だ。結わえた黒髪のひと房だけ白く、肌の色も透き通るように白い。
少女は真剣な顔ですずめと男を見やっているが、垂れ目で童顔のせいか迫力は感じられない。
「あ、ましろだぞ。おかえりなんだぞ」
おかっぱ少女が嬉しそうに駆け寄り、少女の腰元にしがみつく。
「問題はすべて丸~く解決しましたです」
ましろと呼ばれた少女はそう言って、ゆっくりと頷いて見せた。
「いちおう聞くが、なにがどう解決したってんだ、ましろ」
男が憮然とした面持ちで訊く。すずめも実際同じように問いたい。この状況を、この娘はどう納めると言うのか。
垂れ目の少女はふたりの視線を、桃の花のような笑顔で受け止める。それからたっぷり十を数えたくらいの沈黙。やがて少女はおもむろに、抱えた編み籠の中に手を入れた。そして――。
「ご覧ください。天婦羅にしようと、烏賊を買ってまいりましたです」
籠の中から、活きがよさそうな烏賊が一杯、うにょろんと姿を現した。
「……」
「……」
「うわ~い、天婦羅だぞ。ぷらぷらなんだ。ましろが作る天婦羅は絶品だぞ」
ひとりはしゃぐおかっぱ少女をよそに、すずめと男は先程までの喧嘩腰は腰砕けとなって、所在なげに立ちすくんだ。
「……わたし、帰ります」
空腹のまま緊張して、腹を立て、呆れ果て、またまた腹を立て口喧嘩までしでかして、それらがすべて徒労に終わったことで、すずめは目眩がしそうなほど疲弊してしまった。今日はもう職を探して歩き回れそうにない。
すずめはなんだか悲しくなってしまい、でもそんな自分が無性に悔しくて、精一杯顔を上げた。
「お忙しいところお邪魔いたしました!」
まったく暇そうな店の、まったく腹立たしい主人に、少しでも嫌味に聞こえるよう言い放ち、すずめは背を向けた。
「あのう、烏賊の天婦羅は召し上がっていかれませんか? ましろは藁をもすがる思いで呼び止めます」
本当に残念そうに、垂れ目をさらに垂らしてつぶやく少女に、すずめは疲れた笑顔でお辞儀を返し、戸口から表に出た。
夏の日差しがひとすじ目に入り、すずめは顔をしかめた。汗がにじみ、着物の襟元と触れる肌が不快だった。
「待ちな」
そんなすずめの背に、面倒臭そうに男が声をかけた。
なによ? まだなにか文句でもあるの?
疲れ果てた体を、それでもどうにか身構えて、すずめは振り返った。
上り框に座ったまま、仏頂面の男はあさっての方向を見つめている。
「女中の件はどうすんだよ?」
すずめは耳を疑った。男の良識を疑った。
いまさらなに言ってるの? どの口がそんなことを言えるの? あんたが言ったんじゃない、洗濯板は駄目だって! そう、洗濯板!! ああ~、もうむかつく!
再び頭に血が上りそうになるのを懸命に堪え、もう付き合っていられないとばかりに、無言で立ち去ろうとした。が、そんなすずめの着物の袖が、ついっとつかまれる。
「?」
振り返ると、垂れ目少女の満面の笑みがあった。疲れ、ささくれ立った心を抱きしめてくれる笑顔に、すずめの胸は締め付けられる。
垂れ目少女の横では、彼女から受け取った編み籠の重さに、おかっぱ少女が、おっとっと、おっとっと、と足元をふらつかせている。
「この張り紙を見てくださったのですね?」
店の引き戸に貼られた女中募集の張り紙に視線を向けながらも、垂れ目少女の手はすずめの着物の袖を離さない。
「女中さんになりたいのですね。このお店で働きたいのですね。ですねですね? ましろ、期待するのですね」
すずめは苦笑を浮かべ「そのつもりだったんだけど、もういいの」と言ったが、それにかまわず垂れ目少女にぐいぐい袖を引っ張られる。
「え? あの、ちょっと……」
引きずられるようにして、すずめは店内に戻されてしまった。
「いったいなんのつもり!?」
「お試験を受けていただきますです」
表口の引き戸ががらりと開いた。
「――と、ましろは思うのですよ」
柔かく包み込む声が、綿毛のように飛んできた。
その声の主は、野菜がいっぱいに飛び出した編み籠を抱え、きゅっと唇を引き締めて戸口に立っている。
すずめと年齢も背丈も変わらなさそうな、線の細い少女だ。結わえた黒髪のひと房だけ白く、肌の色も透き通るように白い。
少女は真剣な顔ですずめと男を見やっているが、垂れ目で童顔のせいか迫力は感じられない。
「あ、ましろだぞ。おかえりなんだぞ」
おかっぱ少女が嬉しそうに駆け寄り、少女の腰元にしがみつく。
「問題はすべて丸~く解決しましたです」
ましろと呼ばれた少女はそう言って、ゆっくりと頷いて見せた。
「いちおう聞くが、なにがどう解決したってんだ、ましろ」
男が憮然とした面持ちで訊く。すずめも実際同じように問いたい。この状況を、この娘はどう納めると言うのか。
垂れ目の少女はふたりの視線を、桃の花のような笑顔で受け止める。それからたっぷり十を数えたくらいの沈黙。やがて少女はおもむろに、抱えた編み籠の中に手を入れた。そして――。
「ご覧ください。天婦羅にしようと、烏賊を買ってまいりましたです」
籠の中から、活きがよさそうな烏賊が一杯、うにょろんと姿を現した。
「……」
「……」
「うわ~い、天婦羅だぞ。ぷらぷらなんだ。ましろが作る天婦羅は絶品だぞ」
ひとりはしゃぐおかっぱ少女をよそに、すずめと男は先程までの喧嘩腰は腰砕けとなって、所在なげに立ちすくんだ。
「……わたし、帰ります」
空腹のまま緊張して、腹を立て、呆れ果て、またまた腹を立て口喧嘩までしでかして、それらがすべて徒労に終わったことで、すずめは目眩がしそうなほど疲弊してしまった。今日はもう職を探して歩き回れそうにない。
すずめはなんだか悲しくなってしまい、でもそんな自分が無性に悔しくて、精一杯顔を上げた。
「お忙しいところお邪魔いたしました!」
まったく暇そうな店の、まったく腹立たしい主人に、少しでも嫌味に聞こえるよう言い放ち、すずめは背を向けた。
「あのう、烏賊の天婦羅は召し上がっていかれませんか? ましろは藁をもすがる思いで呼び止めます」
本当に残念そうに、垂れ目をさらに垂らしてつぶやく少女に、すずめは疲れた笑顔でお辞儀を返し、戸口から表に出た。
夏の日差しがひとすじ目に入り、すずめは顔をしかめた。汗がにじみ、着物の襟元と触れる肌が不快だった。
「待ちな」
そんなすずめの背に、面倒臭そうに男が声をかけた。
なによ? まだなにか文句でもあるの?
疲れ果てた体を、それでもどうにか身構えて、すずめは振り返った。
上り框に座ったまま、仏頂面の男はあさっての方向を見つめている。
「女中の件はどうすんだよ?」
すずめは耳を疑った。男の良識を疑った。
いまさらなに言ってるの? どの口がそんなことを言えるの? あんたが言ったんじゃない、洗濯板は駄目だって! そう、洗濯板!! ああ~、もうむかつく!
再び頭に血が上りそうになるのを懸命に堪え、もう付き合っていられないとばかりに、無言で立ち去ろうとした。が、そんなすずめの着物の袖が、ついっとつかまれる。
「?」
振り返ると、垂れ目少女の満面の笑みがあった。疲れ、ささくれ立った心を抱きしめてくれる笑顔に、すずめの胸は締め付けられる。
垂れ目少女の横では、彼女から受け取った編み籠の重さに、おかっぱ少女が、おっとっと、おっとっと、と足元をふらつかせている。
「この張り紙を見てくださったのですね?」
店の引き戸に貼られた女中募集の張り紙に視線を向けながらも、垂れ目少女の手はすずめの着物の袖を離さない。
「女中さんになりたいのですね。このお店で働きたいのですね。ですねですね? ましろ、期待するのですね」
すずめは苦笑を浮かべ「そのつもりだったんだけど、もういいの」と言ったが、それにかまわず垂れ目少女にぐいぐい袖を引っ張られる。
「え? あの、ちょっと……」
引きずられるようにして、すずめは店内に戻されてしまった。
「いったいなんのつもり!?」
「お試験を受けていただきますです」
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