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一章
三
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よくわからないまま、すずめは上がり框に腰を下ろさせられ、お茶と茶菓子を出され、あっという間に眼前に数本の扇子を並べられた。
「お手に取ってみてかまいません。あなたの白魚のような指に触れられれば扇子にとっても至福の喜び。さあさ遠慮などなさらずに」
そうやって笑顔でしきりに勧めてくる店の主人を、すずめはちらちら盗み見る。
とりあえず、脂ぎってもいないし、禿げてもいない。色狂いにも強欲そうにも見えない。その点ではすずめは少しばかり安心した。が、本当に店の主人かと頭を傾げたくなるほどに男は若かった。
どう見ても二十歳やそこいらくらい。”扇屋”の主人は、涼しげな目元が印象的な端整な顔立ちで、細身の体に濃紺の反物を着流している。
「どうかなされましたか?」
すずめの視線に気づいたのか、主人は柔和な笑みを浮かべたまま、慇懃に応じた。
「扇子をお持ちになるのははじめてでいらっしゃいますか? もし差しつかえなくば、わたくしがお見立ていたしましょうか? まあ、天女のようなあなたならどんな扇子でさえもお似合いになられるでしょうが。はっはっは」
主人は快活に笑って、ずらりと並べた扇子を次々勧めてくる。
「あ、あの、その、違うんです……わたしは――」
言いかけたすずめに、主人は「まあまあ茶でも飲んでおくつろぎください。そちらの茶菓子は甘夢堂の栗きんつば。お口に合いますかどうか」と、にこやかに語りかけてくる。
すずめは唾を飲み込んだ。江戸を代表する和菓子屋、甘夢堂。将軍家御用達とも言われるその品を、すずめは見たことすらなかった。その値は庶民がおいそれと払えるようなものではないからだ。しかしそれが今、目の前に。
「い、いただいていいんですか?」
「もちろんです」
「もぐもぐもぐ。うん、うまいぞ、すんごい、うま~」
すずめが手を伸ばす前に、栗きんつばは主人の傍らに座っていたおかっぱ少女の口の中に消えていた。
わ、わたしの栗きんつば……。
「旦那様、おかわりくれ。はよ、持ってこいだぞ」
悲痛な顔で空き皿を見つめるすずめをよそに、少女は主人におかわりをねだっている。
「……は……ははは」
主人のこめかみに、ぴくっと青筋が浮かんだように見えたのはすずめの気のせいか。
主人は引きつった笑みとともに、少女のおかっぱ頭にポンっと手を置いた。
「こらこら駄目じゃないかあ、はちみつ。これはお客様にお出ししたもの。おまえさんが食べてはいけないよ」
「ましろが作るものはなんでもうまいなあ。栗きんつばも絶品なんだぞ」
それを聞いた主人の手が、おかっぱ頭をガシッとつかんでぐらぐら揺らしはじめた。
「な、なにを言ってる? これは甘夢堂の栗きんつばじゃないか」
「ううん、ましろが今朝作ってたぞ。はちみつもちょいっと手伝ったんだ。小麦粉をどっさり零して、ましろに迷惑かけたんだぞ」
「はっはっはっはっは」
主人の手が荒々しくおかっぱ頭を振りまわすが、少女は気にしたそぶりもない。
「だいたい旦那様にお菓子を買う金なんてないんだぞ。甲斐性なしだからな」
「おいおい、甲斐性なしなんて言葉どこで覚えた?」
「”おかつ”の夕美姉だぞ」
「夕美~!?」
「夢一は天下無敵の甲斐性なしのぐうたらで、おまけに十二の頃まで寝小便してたと言ってたぞ」
「寝小便は関係ねえ! あのあま、ぶっ飛ばしてやる!」
血相を変えて怒鳴ってから、扇屋の若き主人夢一は、はっと我に帰った。
「……」
ばつが悪そうな表情ですずめに視線を移す。
すずめは主人の態度の変わりように唖然としつつも「すみません。わたし、女中募集の張り紙を見てきたんです」と、やっとの思いで口にした。
「お手に取ってみてかまいません。あなたの白魚のような指に触れられれば扇子にとっても至福の喜び。さあさ遠慮などなさらずに」
そうやって笑顔でしきりに勧めてくる店の主人を、すずめはちらちら盗み見る。
とりあえず、脂ぎってもいないし、禿げてもいない。色狂いにも強欲そうにも見えない。その点ではすずめは少しばかり安心した。が、本当に店の主人かと頭を傾げたくなるほどに男は若かった。
どう見ても二十歳やそこいらくらい。”扇屋”の主人は、涼しげな目元が印象的な端整な顔立ちで、細身の体に濃紺の反物を着流している。
「どうかなされましたか?」
すずめの視線に気づいたのか、主人は柔和な笑みを浮かべたまま、慇懃に応じた。
「扇子をお持ちになるのははじめてでいらっしゃいますか? もし差しつかえなくば、わたくしがお見立ていたしましょうか? まあ、天女のようなあなたならどんな扇子でさえもお似合いになられるでしょうが。はっはっは」
主人は快活に笑って、ずらりと並べた扇子を次々勧めてくる。
「あ、あの、その、違うんです……わたしは――」
言いかけたすずめに、主人は「まあまあ茶でも飲んでおくつろぎください。そちらの茶菓子は甘夢堂の栗きんつば。お口に合いますかどうか」と、にこやかに語りかけてくる。
すずめは唾を飲み込んだ。江戸を代表する和菓子屋、甘夢堂。将軍家御用達とも言われるその品を、すずめは見たことすらなかった。その値は庶民がおいそれと払えるようなものではないからだ。しかしそれが今、目の前に。
「い、いただいていいんですか?」
「もちろんです」
「もぐもぐもぐ。うん、うまいぞ、すんごい、うま~」
すずめが手を伸ばす前に、栗きんつばは主人の傍らに座っていたおかっぱ少女の口の中に消えていた。
わ、わたしの栗きんつば……。
「旦那様、おかわりくれ。はよ、持ってこいだぞ」
悲痛な顔で空き皿を見つめるすずめをよそに、少女は主人におかわりをねだっている。
「……は……ははは」
主人のこめかみに、ぴくっと青筋が浮かんだように見えたのはすずめの気のせいか。
主人は引きつった笑みとともに、少女のおかっぱ頭にポンっと手を置いた。
「こらこら駄目じゃないかあ、はちみつ。これはお客様にお出ししたもの。おまえさんが食べてはいけないよ」
「ましろが作るものはなんでもうまいなあ。栗きんつばも絶品なんだぞ」
それを聞いた主人の手が、おかっぱ頭をガシッとつかんでぐらぐら揺らしはじめた。
「な、なにを言ってる? これは甘夢堂の栗きんつばじゃないか」
「ううん、ましろが今朝作ってたぞ。はちみつもちょいっと手伝ったんだ。小麦粉をどっさり零して、ましろに迷惑かけたんだぞ」
「はっはっはっはっは」
主人の手が荒々しくおかっぱ頭を振りまわすが、少女は気にしたそぶりもない。
「だいたい旦那様にお菓子を買う金なんてないんだぞ。甲斐性なしだからな」
「おいおい、甲斐性なしなんて言葉どこで覚えた?」
「”おかつ”の夕美姉だぞ」
「夕美~!?」
「夢一は天下無敵の甲斐性なしのぐうたらで、おまけに十二の頃まで寝小便してたと言ってたぞ」
「寝小便は関係ねえ! あのあま、ぶっ飛ばしてやる!」
血相を変えて怒鳴ってから、扇屋の若き主人夢一は、はっと我に帰った。
「……」
ばつが悪そうな表情ですずめに視線を移す。
すずめは主人の態度の変わりように唖然としつつも「すみません。わたし、女中募集の張り紙を見てきたんです」と、やっとの思いで口にした。
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