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10.Felice
Felice
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「こんなものかな?」
まだ真新しい白木が、東の窓から入る朝陽に照らされ眩しさを放つ店内。毎日使うマシンで最初の一杯を淹れると、それを試飲して呟いた。
小さな小さな私の城。二年前の春に開店した【フェリーチェ】はイタリア語で幸福を意味する言葉だ。ずっと住み続けている住宅地の一画に、ひっそりある店だが、ありがたいことに常連のお客様もできた。今日もどんな出会いがあるのだろうとワクワクしてしまう。
私たちが名実ともに家族になってから、色々なことがあった。
プリマヴェーラでの結婚式、新たな家族の誕生、そしてセレーノからの独立と、フェリーチェの開店。
ずっと一緒に働いていた真砂子は、寂しがりつつも応援してくれた。彼女は彼女で、『セレーノを東京一の店にする』と張り切っている。『アルテミスには負けないからね』と付け加えて。そんな真砂子も今は結婚し、一児の母だ。家族のように大切に思っている彼女が幸せそうで、自分のことのように幸せだ。
それから、弟のこと。薫さんの手を借り大学時代に起業した彼は、いまではすっかり経営者の顔になった。弟の作る野菜は好評で、都内の有名レストランにも卸している。それをこの店にも分けてもらっているのだが、その野菜目当てに来るお客様もいるほどだ。
母はそんな弟の手助けをしている。もともと経理関係に強かった母は、弟の会社で働いている。以前より生き生きとしている姿を見るのは嬉しかった。
父とは会っていない。その後父は、薫さんが出したお金の大半を置いて家を出た。今は運送関係の仕事をしているらしい。母とは未だに別居しているが、二人は時々会って食事をするくらいにはなったと聞いている。
そして井上さん。私たちの救世主とも言える彼は、薫さんの会社の副社長に就任した。薫さんはずっとそうしたいと思っていたみたいだが、井上さんは断っていたようだ。けれど、急成長を遂げる会社には必要だと薫さんは説得を続け、井上さんは渋々受けてくれたらしい。
『離さないから』
『離れるつもりなどありませんよ』
熱いプロポーズのような会話をする二人に、その場にいた私から笑みが零れた。
――カラン、とドアベルが鳴ると勢いよく扉が開く。まだ開店には早い午前八時。この時間に飛び込んでくる人物はただ一人だ。
「ママっー!」
真っ直ぐに私の元へ走ってくると、風香は足に飛びついた。
「ふう。また一人で走ってきたの? パパは?」
「パパ歩くの遅いんだもん! 風香はもう二年生なんだから、一人で走れるの!」
可愛らしい顔を上に向け、腰に両手を当てると、彼女は自慢気に言った。
「そうね。でも危ないから、今度は歩いてね」
屈んで風香の顔を覗き込むと「はぁい……」としおらしい返事が返ってくる。
「さ、手を洗ってきて。お手伝いしてくれるんでしょう?」
「うん!」
太陽のような明るい笑顔で元気よく返事をすると、風香は踵を返す。それと同時にまたドアベルが鳴った。
「あ、パパ!」
「風香は足が早くなったね。簡単に追いつけないよ」
ゆったりと歩きながら薫さんはこちらに向かってくる。その姿を見ると、早く歩けないのも仕方ないと思う。まもなく四歳になる息子の緋彩が彼の腕にしがみついているからだ。
「ひーくん、またパパに抱っこしてっておねだりしてたんだよ? 本当に甘えん坊なんだから!」
その風香の話ぶりは、自分の口調に似てきたなとつい笑ってしまう。
「ひーはパパが好きだからいいの!」
風香も小さい頃パパっ子だったが、弟も負けじとパパが好きだ。平日は、忙しいパパとなかなか会えないのが寂しいらしく、今日のような休日は、いつもべったりと甘えている。
「ママ、ご飯の用意手伝って欲しいな?」
まだ降りようとしない緋彩に呼びかけると、目を輝かせ「する!」と足をバタバタさせていた。
土曜日の朝は、いつも店で朝食をとるのが習慣になっている。
ベーコンエッグにサラダにトースト。そんな簡単な食事。けれど一つだけ、ここでしか味わえないものがある。
子どもたちも手伝ってくれた食事が並ぶと最後の仕上げにかかる。
グラインダーに豆をセットし挽いている間にフォームミルクを作る。少しだけ甘味を足したミルクは子どもたちのためだ。
薫さんのために淹れるのはマキアート。これを味わってもらうために、わざわざ店に来てもらっているのだ。
「風香、フワフワミルク好き!」
「ひーも!」
「あと、朝陽お兄ちゃんの作ったブロッコリーも!」
「ぶっころりー!」
「ひーくん。ブロッコリーだよ!」
子どもたちはカップを持ち、はしゃぎあっている。賑やかだけれど、微笑ましい。そんな子どもたちを見て目を細めながら、薫さんはマキアートの入るカップにゆっくり口を付けていた。
「ねぇ、パパ」
向かいに座る風香が、しばらく彼を眺めていたかと思うと呼びかけた。
「なんだい?」
「どうしていっつも、ママのコーヒー飲む時は嬉しそうなの?」
薫さんはその質問に、驚いたように目を開いてこちらを見た。そして、じっと彼を見つめる風香に向いた。
「この珈琲が、ママとの想い出の薫り、だからだよ」
ふわりと漂うのは、懐かしい薫り。それは私たちを繋ぐ、大切なもの。
――珈琲が紡ぐ、幸せな日常は、きっとこれからも、続いていく。
~Fine~
まだ真新しい白木が、東の窓から入る朝陽に照らされ眩しさを放つ店内。毎日使うマシンで最初の一杯を淹れると、それを試飲して呟いた。
小さな小さな私の城。二年前の春に開店した【フェリーチェ】はイタリア語で幸福を意味する言葉だ。ずっと住み続けている住宅地の一画に、ひっそりある店だが、ありがたいことに常連のお客様もできた。今日もどんな出会いがあるのだろうとワクワクしてしまう。
私たちが名実ともに家族になってから、色々なことがあった。
プリマヴェーラでの結婚式、新たな家族の誕生、そしてセレーノからの独立と、フェリーチェの開店。
ずっと一緒に働いていた真砂子は、寂しがりつつも応援してくれた。彼女は彼女で、『セレーノを東京一の店にする』と張り切っている。『アルテミスには負けないからね』と付け加えて。そんな真砂子も今は結婚し、一児の母だ。家族のように大切に思っている彼女が幸せそうで、自分のことのように幸せだ。
それから、弟のこと。薫さんの手を借り大学時代に起業した彼は、いまではすっかり経営者の顔になった。弟の作る野菜は好評で、都内の有名レストランにも卸している。それをこの店にも分けてもらっているのだが、その野菜目当てに来るお客様もいるほどだ。
母はそんな弟の手助けをしている。もともと経理関係に強かった母は、弟の会社で働いている。以前より生き生きとしている姿を見るのは嬉しかった。
父とは会っていない。その後父は、薫さんが出したお金の大半を置いて家を出た。今は運送関係の仕事をしているらしい。母とは未だに別居しているが、二人は時々会って食事をするくらいにはなったと聞いている。
そして井上さん。私たちの救世主とも言える彼は、薫さんの会社の副社長に就任した。薫さんはずっとそうしたいと思っていたみたいだが、井上さんは断っていたようだ。けれど、急成長を遂げる会社には必要だと薫さんは説得を続け、井上さんは渋々受けてくれたらしい。
『離さないから』
『離れるつもりなどありませんよ』
熱いプロポーズのような会話をする二人に、その場にいた私から笑みが零れた。
――カラン、とドアベルが鳴ると勢いよく扉が開く。まだ開店には早い午前八時。この時間に飛び込んでくる人物はただ一人だ。
「ママっー!」
真っ直ぐに私の元へ走ってくると、風香は足に飛びついた。
「ふう。また一人で走ってきたの? パパは?」
「パパ歩くの遅いんだもん! 風香はもう二年生なんだから、一人で走れるの!」
可愛らしい顔を上に向け、腰に両手を当てると、彼女は自慢気に言った。
「そうね。でも危ないから、今度は歩いてね」
屈んで風香の顔を覗き込むと「はぁい……」としおらしい返事が返ってくる。
「さ、手を洗ってきて。お手伝いしてくれるんでしょう?」
「うん!」
太陽のような明るい笑顔で元気よく返事をすると、風香は踵を返す。それと同時にまたドアベルが鳴った。
「あ、パパ!」
「風香は足が早くなったね。簡単に追いつけないよ」
ゆったりと歩きながら薫さんはこちらに向かってくる。その姿を見ると、早く歩けないのも仕方ないと思う。まもなく四歳になる息子の緋彩が彼の腕にしがみついているからだ。
「ひーくん、またパパに抱っこしてっておねだりしてたんだよ? 本当に甘えん坊なんだから!」
その風香の話ぶりは、自分の口調に似てきたなとつい笑ってしまう。
「ひーはパパが好きだからいいの!」
風香も小さい頃パパっ子だったが、弟も負けじとパパが好きだ。平日は、忙しいパパとなかなか会えないのが寂しいらしく、今日のような休日は、いつもべったりと甘えている。
「ママ、ご飯の用意手伝って欲しいな?」
まだ降りようとしない緋彩に呼びかけると、目を輝かせ「する!」と足をバタバタさせていた。
土曜日の朝は、いつも店で朝食をとるのが習慣になっている。
ベーコンエッグにサラダにトースト。そんな簡単な食事。けれど一つだけ、ここでしか味わえないものがある。
子どもたちも手伝ってくれた食事が並ぶと最後の仕上げにかかる。
グラインダーに豆をセットし挽いている間にフォームミルクを作る。少しだけ甘味を足したミルクは子どもたちのためだ。
薫さんのために淹れるのはマキアート。これを味わってもらうために、わざわざ店に来てもらっているのだ。
「風香、フワフワミルク好き!」
「ひーも!」
「あと、朝陽お兄ちゃんの作ったブロッコリーも!」
「ぶっころりー!」
「ひーくん。ブロッコリーだよ!」
子どもたちはカップを持ち、はしゃぎあっている。賑やかだけれど、微笑ましい。そんな子どもたちを見て目を細めながら、薫さんはマキアートの入るカップにゆっくり口を付けていた。
「ねぇ、パパ」
向かいに座る風香が、しばらく彼を眺めていたかと思うと呼びかけた。
「なんだい?」
「どうしていっつも、ママのコーヒー飲む時は嬉しそうなの?」
薫さんはその質問に、驚いたように目を開いてこちらを見た。そして、じっと彼を見つめる風香に向いた。
「この珈琲が、ママとの想い出の薫り、だからだよ」
ふわりと漂うのは、懐かしい薫り。それは私たちを繋ぐ、大切なもの。
――珈琲が紡ぐ、幸せな日常は、きっとこれからも、続いていく。
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