想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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「はい……。薫さんのおかげです」
 
 私の言葉に頷いたあと、彼は母に体を向ける。そして少し後ろに下がったかと思うと、その場に手を付き深々と頭を下げた。

「差し出がましい真似をしてしまい、申し訳ありません」

 放心するように沈黙していた母は、その行動に我に返ったようだ。

「何をおっしゃっているんですか! お手をお上げください」
「いえ。謝って済むことではありませんが、謝らせてください」

 薫さんは頭を下げたままそう口にする。しばらくして頭を上げた薫さんは心苦しそうに続けた。

「もっと穏便な方法を取れればよかったのですが、このような形になってしまったこと、お許しください」
 
 薫さんは、本当はこんな手段に出たくなかったのだ。父が自分の非を認めていれば、いや、慰謝料など求めなければ、今回被害に遭った額を快く出していたはずだ。けれど父は結局、用意していたなかで、一番選んで欲しくなかった道を選択してしまったのだ。

「いいえ……。いいんです。あの人は今の状況から離れたほうが……きっと……」

 母はそこで言葉を詰まらせた。

「私が言えた立場ではありませんが、お互い距離を置いてみれば、見えることもあるでしょう。助けが必要であればいつでも力をお貸しします。どうか、ご自分の人生を大切になさってください」
 
 悟すような口調の薫さんに、母は堪えきれず涙を溢しながら頷く。

「ありがとうございます……。穂積さん。これからも……亜夜と、孫をよろしく、お願いします」

 手で口を覆いながら母は頭を下げる。私の瞳からも、涙がまた滲み始めた。

「お母さん……。私……」

 前に出した手紙には、自分の気持ちを書いた。愛されてなくて寂しかった気持ちを。でもきっとそれは、母を深く傷つけただろう。

「私、ずっとお母さんに愛されてないって……思い込んでた。でも、違ってた、よね……」

 溢れる涙とともに、色々なことを思い出す。それは辛いことだけじゃない。母との優しい記憶だった。

「お母さんは、いつか家を出て行く私が困らないように、たくさんのことも教えてくれてた。料理の基礎とか、洗濯や掃除のしかたとか。だから私、一人暮らしをしてから何も困らなかった」
 
 それは家のためだと思っていた。けれど、今思い返せば全て私のためだったと思える。

「それに、学生の頃当たり前のように作ってくれてたお弁当だって、いつも彩りもバランス良くって……。友だちには羨ましがられた。テスト勉強で夜遅いときは、そっと夜食置いてくれて……」

 父の目が届かないところで、母は私にできるだけのことをしてくれていた。それが次々に浮かんでは、母の愛情を私に知らせてくれていた。

「お母さん……。今まで私を守ってくれて、ありがとう……」
 
 手紙にはどうしても書くことができなかった、たった一言。それを口に出すと、母は嗚咽を漏らしながら首を振った。

「ごめんね、亜夜。お母さんが弱いばっかりに辛い思いをさせて。幸せに……なるのよ……」
「うん……。薫さんがいてくれるから……。私はもう幸せだよ」

 それだけじゃない。私には支えてくれる人がたくさんいて、みんなが様々な愛の形を教えてくれた。それはとても幸せなことだ。私は愛されている。だから、それを返したい。人生を大きく変えてくれた、その美しい横顔を見上げて、そう思った。

 外に出ると、傾いた太陽が山の向こうに輝いていた。懐かしい自然豊かな場所。今その景色を見渡すと、逃れたかったはずの場所は自分の大切な場所に変わっていた。
 都会とは違う、草木の香りが漂うような空気を思い切り吸い込んで車に乗り込んだ。

「もう、いいのかい?」
「きっと……また来れます。今度は風香にも、この景色を見せてあげたいから」
「そうだね。次はそうしよう」
 
 穏やかにそう言うと薫さんはハンドルを握る。ゆっくりと走り出した車の中から振り返ると、家の外で朝陽が元気に手を振っているのが見える。母はその隣で深々とお辞儀をしていた。きっと私たちが見えなくなるまで続くだろう。
 すべてうまくいったとは言えない。けれど、重く暗い影を落としていた実家の姿は、今はとても眩しく見えた。

「では、亜夜。次に向かっても?」

 来た道を戻るように山を下りながら、薫さんは尋ねる。

「はい。お願いします」

 薫さんに向いて頷いたあと、私はナビをセットする。今から、ずっと前に二人で書いた書類を提出するために。無機質なアナウンスは、街の中心地にあるその場所へ案内を始めた。

 ――そしてこの日私は、穂積亜夜になった。
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