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9.nove
nove-6
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契約書をほとんど読むこともなく、父はあっさりとサインをして印鑑をつく。そしてそれを、薫さんに突き返した。
「これでいいだろう。金はいつ入るんだ?」
「週明け、私の秘書から連絡させます。正式に売買契約を交わし、あなたの転居先が決まればすぐにお支払いいたしましょう」
薫さんは表情一つ変えないまま冷たく言い放つ。父はそれに険しい表情を見せた。
「娘の家族に出ていけだと? 売ってやるとは言ったが、出て行くとは一言も言ってないぞ?」
それはただの屁理屈だ。なぜ他人の持ちものにそのまま住み続けられると思ったのだろう。都合の良いときだけ、私を娘扱いする父に言葉を失ってしまう。けれど薫さんは、顔色一つ変えないまま答える。
「契約書に全て書いてあります。売買契約締結後、契約者は一カ月以内に転居すること。転居先の契約が完了次第代金を支払う、と」
「そんなもの無効だ! お前は実家に住む妻の家族を追い出すのか!」
「無効とおっしゃるなら、違約金をお支払いいただけるのでしょうね。この契約額の二十パーセント。それが違約金です」
こうなれば父が、会社を背負って立っている薫さんに勝てるはずなどない。これは正式に交わされた契約で、気軽に署名してしまった父が悪いのだから。父は唇を噛み締めワナワナと震えている。今頃になって、自分がしたことの浅はかさに気づいたのかも知れない。
「父ちゃん。もう諦めろよ。最初から穂積さんに、敵うはずなんかなかったんだよ」
朝陽は力なくそう父に告げて顔を上げた。
「穂積さん。色々と失礼なことばっかり、すみませんでした。すぐ家は探します。どうか、この家と畑を大事にしてください。お願いします」
その場で深々と頭を下げる弟が、とても立派で大きくみえる。そんな朝陽を見て、薫さんはようやく表情を緩めた。
「もちろん。大事にしてくれる人に任せるつもりだからね」
ようやくまた、柔らかな表情に戻った薫さんは続けた。
「私は契約者には転居を求めたが、その家族にまでは求めていない。よかったらこのまま管理人として残ってくれないかい? もちろん、お義母さんも一緒に。どうされるかはお任せしますが」
朝陽は目を丸くしたまま薫さんを見つめていた。母も座卓の端に座ったまま驚いていた。
「それから、朝陽君。よければ君の出資者として手を挙げたいのだけれど」
そう切り出した薫さんに、朝陽はより目を開いている。
「それって……あの、話の?」
辿々しく口にする朝陽に、薫さんは頷いている。
「いったい何のことだ! 朝陽、どうしてこの男とそんな話しをしている!」
私にも分からない。けれど朝陽が家に来た日の帰り、薫さんと何か話をしたのかも知れない。
「彼は先日うちまで謝罪に来てくれたんですよ。あなたが私にしたことを知って。その時少し話を聞きました。桝田さん。貴方は朝陽君が大学で何を学んでいるのか知ろうともなさらないとか」
「そんなことには興味ない。大学など行ったって、農業になんの役にもたたん!」
「はたして……そうでしょうか?」
また薫さんは冷たい表情で父を見る。決まりが悪いのか、父は視線を逸らした。
「朝陽君は大学で、ITやIOTを活用した農業について学んでいます。簡単に言えば、情報テクノロジーを使った農業です。彼はそうやって新しい技術を使い、これからも農業を続けようとしています」
朝陽は彼の話に、小さく頷きながら真剣に耳を傾けている。
私は驚いていた。朝陽は農業を継ぐことが、実は嫌なんじゃないかと思っていたから。でもちゃんと向き合って、考えて、自分の意思でその道に進もうとしていたのだ。
「他の学生たちと組んで、企業化も考えていると打ち明けてくれました。私はそんな彼の想いに応えたい。ですので、今回買い取った農地はすべて、朝陽君に預けるつもりでいます」
父は苦虫を噛み潰したような表情で立ち上がる。
「俺のものじゃないならどうでもいいことだ。俺は手伝わんからな」
「父ちゃんの手は借りない。俺は、自分と仲間を信じて進むだけだから」
キッパリとそう言う朝陽に、父は負け惜しみのように「勝手にしろ」と吐き捨てるとそのまま部屋から出て行った。
一瞬の静寂が訪れ、ようやく緊張が解けた気がした。ホッと一息吐いていると、薫さんがこちらに向く。彼の優しく穏やかな微笑みに、ただ安堵していた。
「頑張ったね、亜夜」
慈愛に満ちた眼差しに、心の奥が温かくなる。それだけで、どこか救われたような気持ちになった。
「私は……何もしてないです」
「そんなことはない。ちゃんと自分の気持ちを伝えられた。それだけでも立派なことだよ」
その言葉に心がスッと軽くなる。私が言えたのはほんの一言で、父には響いていないかも知れない。けれど、一生言えないと思っていたことを、勇気を出して伝えられた。そしてそれを、肯定してもらえたのだ。
「これでいいだろう。金はいつ入るんだ?」
「週明け、私の秘書から連絡させます。正式に売買契約を交わし、あなたの転居先が決まればすぐにお支払いいたしましょう」
薫さんは表情一つ変えないまま冷たく言い放つ。父はそれに険しい表情を見せた。
「娘の家族に出ていけだと? 売ってやるとは言ったが、出て行くとは一言も言ってないぞ?」
それはただの屁理屈だ。なぜ他人の持ちものにそのまま住み続けられると思ったのだろう。都合の良いときだけ、私を娘扱いする父に言葉を失ってしまう。けれど薫さんは、顔色一つ変えないまま答える。
「契約書に全て書いてあります。売買契約締結後、契約者は一カ月以内に転居すること。転居先の契約が完了次第代金を支払う、と」
「そんなもの無効だ! お前は実家に住む妻の家族を追い出すのか!」
「無効とおっしゃるなら、違約金をお支払いいただけるのでしょうね。この契約額の二十パーセント。それが違約金です」
こうなれば父が、会社を背負って立っている薫さんに勝てるはずなどない。これは正式に交わされた契約で、気軽に署名してしまった父が悪いのだから。父は唇を噛み締めワナワナと震えている。今頃になって、自分がしたことの浅はかさに気づいたのかも知れない。
「父ちゃん。もう諦めろよ。最初から穂積さんに、敵うはずなんかなかったんだよ」
朝陽は力なくそう父に告げて顔を上げた。
「穂積さん。色々と失礼なことばっかり、すみませんでした。すぐ家は探します。どうか、この家と畑を大事にしてください。お願いします」
その場で深々と頭を下げる弟が、とても立派で大きくみえる。そんな朝陽を見て、薫さんはようやく表情を緩めた。
「もちろん。大事にしてくれる人に任せるつもりだからね」
ようやくまた、柔らかな表情に戻った薫さんは続けた。
「私は契約者には転居を求めたが、その家族にまでは求めていない。よかったらこのまま管理人として残ってくれないかい? もちろん、お義母さんも一緒に。どうされるかはお任せしますが」
朝陽は目を丸くしたまま薫さんを見つめていた。母も座卓の端に座ったまま驚いていた。
「それから、朝陽君。よければ君の出資者として手を挙げたいのだけれど」
そう切り出した薫さんに、朝陽はより目を開いている。
「それって……あの、話の?」
辿々しく口にする朝陽に、薫さんは頷いている。
「いったい何のことだ! 朝陽、どうしてこの男とそんな話しをしている!」
私にも分からない。けれど朝陽が家に来た日の帰り、薫さんと何か話をしたのかも知れない。
「彼は先日うちまで謝罪に来てくれたんですよ。あなたが私にしたことを知って。その時少し話を聞きました。桝田さん。貴方は朝陽君が大学で何を学んでいるのか知ろうともなさらないとか」
「そんなことには興味ない。大学など行ったって、農業になんの役にもたたん!」
「はたして……そうでしょうか?」
また薫さんは冷たい表情で父を見る。決まりが悪いのか、父は視線を逸らした。
「朝陽君は大学で、ITやIOTを活用した農業について学んでいます。簡単に言えば、情報テクノロジーを使った農業です。彼はそうやって新しい技術を使い、これからも農業を続けようとしています」
朝陽は彼の話に、小さく頷きながら真剣に耳を傾けている。
私は驚いていた。朝陽は農業を継ぐことが、実は嫌なんじゃないかと思っていたから。でもちゃんと向き合って、考えて、自分の意思でその道に進もうとしていたのだ。
「他の学生たちと組んで、企業化も考えていると打ち明けてくれました。私はそんな彼の想いに応えたい。ですので、今回買い取った農地はすべて、朝陽君に預けるつもりでいます」
父は苦虫を噛み潰したような表情で立ち上がる。
「俺のものじゃないならどうでもいいことだ。俺は手伝わんからな」
「父ちゃんの手は借りない。俺は、自分と仲間を信じて進むだけだから」
キッパリとそう言う朝陽に、父は負け惜しみのように「勝手にしろ」と吐き捨てるとそのまま部屋から出て行った。
一瞬の静寂が訪れ、ようやく緊張が解けた気がした。ホッと一息吐いていると、薫さんがこちらに向く。彼の優しく穏やかな微笑みに、ただ安堵していた。
「頑張ったね、亜夜」
慈愛に満ちた眼差しに、心の奥が温かくなる。それだけで、どこか救われたような気持ちになった。
「私は……何もしてないです」
「そんなことはない。ちゃんと自分の気持ちを伝えられた。それだけでも立派なことだよ」
その言葉に心がスッと軽くなる。私が言えたのはほんの一言で、父には響いていないかも知れない。けれど、一生言えないと思っていたことを、勇気を出して伝えられた。そしてそれを、肯定してもらえたのだ。
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しおりを挟んでくださっている皆様へ。
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