想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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9.nove

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「今年の梅雨、この地域では例年にない長雨が続いたと聞き及んでいます。そして、農作物がかなり被害に遭ったと。こちらもそうではないですか?」

 確かにニュースでも伝えられていた。今年は野菜が高くなり、特に葉物野菜はこれからも値上がりするだろうと。それを聞いて、気にならなかったわけではない。うちで作っているのは、まさにレタスを中心とした葉物野菜だったから。

「そうだ。うちにはお前みたいに踏ん反り返ってるだけで金は入らねえんだよ。簡単にやり直しなんかできねえからな」
「そんなっ!」
 
 薫さんが今までどれほど努力を重ねてきたか、父は想像すらしていない。反論しようと声を上げると、それを制するように彼が私の手を握った。

「私は今まで、海外で農業に携わっている方に力を貸してきました。同じようにやり直せるだけの補償をします、と言えばあなたはどうなさいますか?」
「ああっ? どう言うことだ?」
 
 眉を顰めてそう返しながら、父はまたその場に座り直す。母も朝陽も、二人の成り行きをハラハラとした様子で見守っていた。

「貴方のお持ちの土地や家屋。そして農地。それを私にお譲り下さい。もちろん相場の価格はお支払いいたします」
 
 そんなことを言い出されるなんて、思ってもいなかっただろう。父は一瞬息を呑んだあと、大口を開け笑い出した。

「戯言を! 農地はそう簡単に売れねぇんだ。そんなことも知らないのか!」

 小馬鹿にしたように笑う父に、薫さんは冷静に返した。

「無論、承知しております。ですが、穂積の力があれば、それは簡単なことですよ」
 
 父は少し怯んだように見えた。顔を引き攣らせ「さすが穂積の御曹司様は言うことが違う」と嫌味のように言うとそのまま続けた。

「だが、お前に売ったところで俺に何のメリットがある。こんな田舎の土地、たいした額にはならん」
「ええ。おっしゃる通りです。それだけでは全てをやり直すには心許ないでしょう。ですので、土地などの売却額以外に、その倍の金額を合わせてお支払いしましょう」
「なんだと?」
 
 驚いたようにそう口に出しながらも、父は期待するような表情を浮かべた。
 薫さんは、傍に折りたたみ置いていた紙袋から茶封筒を取り出すと、中から数枚書類を取り出した。

「こちらの地元にある不動産業者に査定していただいたものです。数社ありますが、どれも信頼できるでしょう。ご不審であれば直接問い合わせていただいて構いません」
 
 ビジネスライクに話を進める薫さんの横顔を、私は信じられない気持ちで見上げた。
 父がどう出るのか見越した上で最初から用意していた書類。本当は父にお金を渡して欲しくはない。けれど突っぱねたところで、父は納得するはずもない。薫さんは冷静に落とし所を考えた結果、こういう方法に出たのだろう。私は全面的に薫さんを信頼し、最初から全て任せることを決めていた。それでも不安がないわけではない。
 差し出された書類を、父は無言で眺めている。私からは何が書いてあるか見えないが、朝陽には見えているようだ。

「父ちゃん! 売ってどうするんだよ! 俺が農業継ぐって言ってるだろ!」

 隣で朝陽が父の腕に縋り付く。その手を払うように父は「うるさい!」と腕を振り上げた。

「もうそんなことしなくていいんだ。見てみろ。この三倍の額が、何もせず入るんだぞ? 汗水たらして何年も働いてやっとの金だ」

 欲に目が眩んだように父は声を弾ませている。

「桝田さん。本当によろしいんですね? ただし、条件があります」
「なんだ。言ってみろ」
「まず、この契約を締結したあと、私と、私の大切な家族には一切の援助を求めないでいただきたい。そして、これは慰謝料のつもりではありません。私はあなたに謝罪するようなことはしておりませんので」

 静かに響く薫さんの声に、目に見えない圧力を感じる。
 私を傷物にした慰謝料、と言い出した父にお金を渡すことは、それを認めたように受け取られてもおかしくない。だから私のために、あえてそう言ってくれたのだ。

「ふん! しかたない。その条件、のんでやる」
「では早速、契約にうつりましょう。こちらで書類を用意しています」

 そう言って薫さんは、新しい書類を父に差し出した。
 父はそれを見て「用意がいいものだな」と眉を顰めながら立ち上がり、部屋にあるタンスに向かう。そこからペンと、印鑑らしきものを取り出すとまた座卓に向かった。

「父ちゃん、本当に……売るのか?」
「あなた! 考え直してください。損害はどうにかします」
 
 母と朝陽は口々にそう言っている。いくら薫さんが買い取ると言っても、母も朝陽も、長年住んだこの家や土地を手放すのは不安だろう。

「お前たちは黙っていろ。こんな話、乗らないわけにいかないだろう。このまま農業続けても、いい暮らしなんかできねえんだからな」
 
 父は目先のお金しか見えていない。母のことも、朝陽のことも、ちゃんと考えているようには見えなかった。
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