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9.nove

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 冷たいお茶の入った湯呑みと、手土産の和菓子が乗る菓子皿をそれぞれの前に出し終えると、母は控えるように部屋の隅に座る。それを合図に薫さんは切り出した。

「まずはご挨拶が遅れたこと。そして順番を間違ったうえ、亜夜さんと未だ入籍できていないことを謝罪します。申し訳ありません」
 
 初めて会ったときのような、冷たく見える表情で薫さんは父に謝罪する。もちろん口先だけではない。彼は真剣だ。でも父はそれをニヤついた赤ら顔で聞いていた。

「さすが穂積の御曹司は違う。物怖じしないところが気に入った! それに免じて許してやろう。だが、それなりに誠意は見せて欲しいよなぁ」
 
 芝居がかった物言い。嬉し気にそう言うと父はお酒を口にする。

「……誠意、ですか。それはいったいどのようなものでしょうか。この若輩者にはわかり兼ねます。教えていただけますか?」

 すうっと薫さんの目が細くなる。静かな怒りが見えるようだった。だが父に、そんなことは伝わらないようだ。けれど、嫌味を込められているのを察したのか眉を上げた。

「ふん。言ってくれるな」

 残ったお酒を呷り、ダンッと音を立ててグラスを卓上に置く。薫さんはそれに動じることなく、真っ直ぐ父に顔を向けている。

「お前はな、大事な娘を傷物にしたんだ。それ相応の詫びがあってもいいだろう」

 膝に乗せた手を握り締める。爪が食い込んで痛いくらいに。
 先に話を聞いていなければ、ここで取り乱していた。きっと今、父には従順な娘に見えているだろう。そう見えるように、薫さんの邪魔をしないように、私は必死で堪えていた。

「そうですか。ではあなたは、今までその大事な娘さんにどんなことをされてきたのでしょう。よろしければ教えていただけますか? それを聞いて判断いたします」
 
 父は薫さんの圧に一瞬怯む。気を紛らわせるように一升瓶を開けると、またお酒をグラスに注いだ。

「専門学校まで出してやったんだ。つまらん学校だったがな。学費はいくら掛かった、母さん。五百万か? いや六百万だったかな。全部出してやったからな」
 
 突然尋ねられた母は、弾かれたように顔を上げる。が、すぐに視線を逸らした。

(この人は……何も知らない。知ろうともしなかったんだ……)

 家のことは全て母に任せっぱなしだった。ずっと縁の下で支えていた母の苦労を知ることもなく。そして、当たり前のように家は回っていると思っているのだ。

「それは……おかしいですね」

 俯き唇を噛み締めていると、薫さんの声がした。

「私が把握している学費とは、かなり開きがあるようですが」
「なんだと! 調べたのか?」
 
 声を荒げる父に対し、薫さんは眉一つ動かさない。父のほうが遥かに年を重ねているのに、経験はきっと薫さんのほうが遥かに豊かなのだ。

「もちろん。慰謝料を寄越せ、とおっしゃったあなたに尋ねましたよね。基準にしたいので、どのくらい用意すればいいかと。今まで注ぎ込んだ学費分くらいは用意して貰わないと。それが返事でした。ですので調べました。全て」
 
 冷淡に言い放つ薫さんに、父はワナワナと震えている。それでも負けじと声を張り上げた。

「生意気な! じゃあ言ってみろ。いったい幾らだったんだ!」
「最初に申し上げますが、中学までは保護者の義務です。私がお支払いする義理はありません。高校は地元の公立で授業料は無償でした。他の費用はおおよそ五十万ほどでしょう」
 
 薫さんはただ淡々と、台本を読み上げるように話す。それを父は顔を赤くして聞いていた。

「専門学校は二年間。仕送り分と合わせ多く見積もっても四百万。どうですか? 間違っているなら教えてください」

 薫さんがそう言って顔を向けた先には母がいた。急に尋ねられ顔を強張らせているが、静かに「その通りです」と答えた。

「なっ、ならそれで手を打とうじゃないか。四百五十万。嫁にやるには安い額だが仕方ない」

 威張るように踏ん反り返り父は言う。

「まだ話は終わっていません。しかし、貴方は本当に何もご存知ないのですか?」

 私が尋ねたかったことを、薫さんが代わりに尋ねてくれる。父は「何のことだ?」と訝しそうに顔を顰めていた。
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