想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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9.nove

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 来週には九月を迎える、八月最後の土曜日の朝。『今日も残暑の厳しい一日になるでしょう』とテレビではアナウンサーがそう告げている。
 今日、私たちの仕事は休みだ。けれど保育園には、遠方の実家に帰らなければならないと事情を説明し、預かってもらうことになっていた。電車でも車でも、同じ三時間半ほどかかる距離。さすがに風香を連れて行くのは無理がある。それに、歓迎されるとも思えなかった。長居するつもりはないが、それでも帰宅は遅くなるだろう。迎えとそのあとのことは真砂子が快く引き受けてくれた。

 途中休憩を挟みながら車で三時間半。車窓には、実家のある市の一番賑わう辺りの景色が流れていた。

「初めて訪れたが……。思っていた以上に賑やかな場所だね」
 
 薫さんはハンドルを握り、車を走らせながら口にする。
 フロントガラスの向こう側には、それなりの数の背の高いビルも見えている。けれど東京のように、進んでも進んでもそのビルが視界から消えない、なんてことはない。ほんの数キロ走るだけで驚くほど景色は変わるのだ。

「この辺りだけです。実家のあたりなんて、ほんと何もないから逆にびっくりしちゃうかも。……あ。もうそこが駅です。ナビ、セットし直しますね」
 
 実家に行く前、薫さんには寄りたいところがあると伝えていた。
 それは、自分に一歩踏み出す勇気をくれた人、徹平てっぺいさんと佑子ゆうこさんが経営する店だ。
 事前に連絡は入れていたが、二人は再会を殊の外喜んでくれた。そこで懐かしいカフェラテと、徹平さんが最近はまっているという賄いのスパイスカレーをごちそうになり、話に花を咲かせた。 
 実家に寄る前に少しでも気分を落ち着かせられたのは良かったかも知れない。いくら向き合う覚悟を決めたと言っても、やっぱりまだ怖かったから。
 またの再会を約束した二人に見送られ、車はまたナビの案内に沿って走り出した。

「十五分くらいで着くんだね。向こうに見える山のほうかい?」
「はい。急に田舎になるんで、驚かないでくださいね」
 
 あまり変わり映えのしない景色を山に向かって走る。
 学生時代、何度も自転車で行き来した道を、こうやって伴侶となる人と車で走るなんて、想像すらしたことはなかった。それどころか、自分が誰かを愛せるなんて思っていなかったけれど。
 でも、どんな運命を辿るかは神様のほんの気まぐれなのかも知れない。日本から遠く離れた地で、偶然同じ時間、同じ場所にいた人がもたらした出会い。
 それが、私に愛する家族を与えてくれた。今まで、自分が家族と呼んでいた人たちとは違う、新たな家族を。

『目的地に到着しました。案内を終了します』
 
 ずっと窓の外に見える、遠ざかっていく街の景色を眺めていると、ナビのアナウンスの音声で我に返った。
 似たような田舎の大きな家が点々と並ぶ場所で、すぐにどこか実家なのかわからないだろう。薫さんはスピードを落とし、車を路肩に停めた。

「家はどこ? そう言えば、車を停めるところはある?」
「大丈夫です。家の前は停め放題ですよ。その先、左手に見えるのが実家です。そのまま車で入ってください」

 できるだけ明るい声で答える。緩やかな上り坂になっている一車線のみの道。ここから、何一つ変わってない家の姿が見えた。

「じゃあ、遠慮なく……」

 ゆっくり車は動き、左に入ると舗装されていないスペースが現れる。奥にある農作業用の小屋の前にはトラクターや軽トラックが置いてあり、その手前には白い軽自動車が一台と、おそらく朝陽のだと思われる黒い乗用車が停まっていた。
 その少し手前のスペースに車を停めると、薫さんはエンジンを切った。

「亜夜。大丈夫かい?」
 
 心配そうな薫さんの声が聞こえ、膝に乗せ握りしめていた手がそっと握られる。

「……だい……じょうぶ、です……」
 
 そう答えながらも、息苦しさを感じる。きっと、今までで一番強く。
 知らず知らずのうちに震えていた手を包み込む薫さんの手から温もりが伝わった。それを感じながら、しばらく息を整える。そんな私を、薫さんは見守ってくれていた。
 車を降りると、家の向こうに見える青々とした山から蝉の声が響いていた。思ったほど暑さを感じないのは、それを和らげるように山から風が吹き下ろしているからなのかも知れない。
 後部座席に置いた手土産を取り出すと彼は扉を閉めロックしている。玄関に近い私の元へ薫さんが近寄ってくるのを待ってからゆっくり歩みを進めた。記憶の中の姿とほぼ変わらない玄関。モニター付きのインターホンなんてものはない。薫さんはただ鳴るだけの、簡易なチャイムを押すと、なんとなく戸惑っているようだった。
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