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8.otto

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 とても明るいとは言えない悩ましい表情の薫さんの膝には、楽しそうに一人遊びに勤しむ風香が座っている。それがあまりにもチグハグで、アンバランスに思えた。

「穂積さん。言いにくかったら俺が……」
  
 朝陽は薫さんにそう言ったが、彼は小さく首を振った。

「いや……。ことが終われば、ちゃんと話そうと思っていたことだ。私から説明するよ」

 そして薫さんは、私を真っ直ぐ見つめた。

「亜夜のお父さんから会社に電話があった。最初は先週の月曜日。私は不在だったが、井上がそれに出た。私がいないと知り、桝田亜夜の父親だと言えばわかる、と言ったらしい。井上は用件を尋ねたが、その時はまた電話するとだけ言って切ったそうだ」
 
 それが、親としての挨拶なんかじゃないのはわかる。朝陽にあそこまで言わせたのだから。けれど、薫さんが黙っていたことを恨む気持ちはない。彼がすぐに話そうとしないくらい……酷い内容だったのだと思うから。

「次に電話があったのは、先日の金曜日。私はそれに出た。挨拶もそこそこに言われたのは……」

 薫さんはそこで話を止め、悲しそうな表情で一度私から視線を外す。きっと正直に話すことで、私が傷つくことがわかっているからだ。

「薫さん。お願いします。全部、話してください」
 
 それでも、聞かなくてはいけない。ここで向き合わなくては、私は先に進めない。

「……娘が帰って来なくなったのはお前の所為か。結婚もせず子どもを生むなんて、恥ずかしく近所にも顔向けできない。大事な娘を誑かし、傷物にした慰謝料を払ってもらう……と」

 唇が勝手にワナワナと震え出す。悲しみからではない。湧き出したのは、怒り……だ。

「なんで……? なんで……そんな勝手なこと言えるの……?」
 
 悔しくて、自然と涙が溢れ出す。
 
「私が家に帰らないのは誰のせい? 大事なんてよく言える。大事にされた覚えなんてない! 傷物になんてされてない! 私は……物じゃ……ないんだから……」

 取り乱し叫んだあと、堪えきれず両手で顔を覆い嗚咽を漏らす。しばらくリビングには、私の泣き声だけが響いた。

(このままじゃ私は、薫さんに……穂積家に、迷惑を掛けてしまう)
 
 そんな考えに取り憑かれた始めたとき、肩口に柔らかな温もりが伝わってきた。

「マッマ。マッマ」

 顔を上げると、風香が小さな手で私の肩をポンポンと叩いていた。

「ふう……」

 風香には、今何が起こっているのか分かるはずはない。なのに、私を慰めるようにニコリと笑うと腕に飛び込んできた。抱きしめると独特の甘い匂いがする。それが私を癒し、安心させてくれた。ドクドクと音を立てていた心臓は落ち着きを取り戻し、ようやく涙も止まっていた。

「……ごめんなさい。取り乱して」
 
 二人は私が落ち着くのを、黙って見守ってくれていた。顔を上げるとホッとしたような顔が目に入った。
 そして再び、朝陽が話し始める。

「俺、金曜たまたま早く帰って。居間で、大声で電話してたから全部聞こえて……。だから今日は謝りにきました。本当にすみません。あんなむちゃくちゃな話、無視してください!」
 
 床に胡座をかいたまま、朝陽は思い切り体を曲げている。

「朝陽君。顔を上げてくれないか?」
 
 薫さんの穏やかな口調に促され、朝陽はゆっくりと体を起こす。その顔を見ながら薫さんは切り出した。

「気持ちは受け取ったよ。ありがとう。けれど、放置していても悪化するだろうと思っているんだ。だから近いうち、君の家を訪れようと思っている」

 父は昔からお金にうるさいところがあった。会社社長の肩書きに、有名な穂積グループの名前。それを簡単に諦めるとは思えない。もしかしたら、今後もあんな電話をし続けるかも知れない。けれど彼なら、法的な措置を取ることもきっと簡単だろう。でも、そうせず向き合おうとしてくれているのだ。

「薫さん。一人では行かせません。私も行きます。行って、ちゃんと伝えます。自分の気持ちを」

 真っ直ぐに薫さんを見ると、その顔は穏やかに微笑んでくれた。

「あぁ。一緒に行こう。亜夜が私に力をくれたように、今度は私が力になる番だ」
 
(向き合おう。自分が家族だと思える人たちを守るために……)
 
 自分の膝に座る、小さな頭を撫でて心の中で誓った。


「――じゃあ、朝陽。気をつけてね」
「うん。ありがとう、ねーちゃん。……今度は、ゆっくり遊びに来てもいい、かな?」

 玄関を開けると、もうすっかり雨は上がっていた。
 朝陽は家には何も言わず日帰りの予定で来ていた。電車の時間も迫っていて、寛いでもらう時間はほとんどなかった。

「もちろん。待ってる。うちの店や薫さんのお店のコーヒー、飲んでもらいたいし」
「飲めるように練習しとく」
 
 朝陽は大学生らしく明るく返してくれる。ずいぶんと離れていた、私たちの間にあった距離が、かなり近づいたように感じていた。

「では、朝陽君を送ってくるよ」
「じゃ、ねーちゃん。また!」
 
 手を振る朝陽の顔は、嵐の去った空のように晴れやかだった。
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