想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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8.otto

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 八月も下旬に入った日曜日。あと数日で風香も誕生日を迎える。
 一年前の今頃は、無事出産できるのかと何かとナーバスになっていた私を、真砂子が励ましてくれていたのを思い出す。けれど、ここ最近怒涛の如く色々ありすぎて、それが遠い日のように感じてしまうから不思議だ。

 そんな夏の日の空は、突然その表情を変える。さっきまで爽やかなスカイブルーだった空。そこに浮かんでいた白い雲に、だんだんと黒色が混ざり始めていた。

「ぎりぎりセーフ……」

 最近はアプリを入れておけば、雨雲が近づいているのを教えてくれるのは助かる。リビングから見える空はまだ晴れているのに、反対側から雨雲が迫っていた。通知を見て慌てて洗濯物を取り込んだところで、遠くから雷鳴も聞こえてきた。

「風香が起きたよ」

 寝室から寝起きの風香を連れて、薫さんが出てきた。

「ありがとう薫さん。おやつ用意しますね。コーヒー飲みますよね?」
「あぁ。頼むよ」

 そう返事をすると、薫さんはリビングで風香の相手を始めた。

 だんだんと近づいてきた雨雲は、とうとう窓の向こうの景色を灰色に染めていた。リビングに閃光が走ったかと思うと、間を置いて雷鳴が轟いた。

「ひゃっ!」

 結構なその音に、パンケーキを焼いていた私は、思わず声を上げてしまう。リビングでは、風香も音に驚いたのか不、安そうな顔でキョロキョロしていた。

「大丈夫だよ、風香。おいで?」

 差し伸べられた腕にヨタヨタ歩きしがみつくと、風香は安心したように笑う。その風香を抱き上げ、薫さんは私の元へやって来た。

「亜夜は雷が苦手?」
 
 フライパンの中でふつふつと穴ができ始めた生地を眺めながら、「あんまりいい思い出なくて」と答える。小さな頃、怖がる私に誰も見向きせず、一人震えながら、布団の中で小さくなってやり過ごしていたことを思い出す。

「大丈夫。私がいるよ」
「ふうも、パパがいてくれて心強いと思います。私も……」
 
 パンケーキをひっくり返すと薫さんを見る。最初は冷たく見えたその瞳は、今はただ温かい。それだけで私は救われていた。
 おやつが出来上がり、コーヒーを淹れ終わる頃には雷鳴は遠のいていた。けれど、打ち付けるような酷い雨はまだ続いていた。

「じゃあ、いただきますしようか」
 
 風香を椅子に座らせ、話しかけたところで家のインターホンが鳴る。

「あ、私でます。薫さん、風香に食べさせてもらっていいですか?」
 
 そう言うと私は立ち上がった。

「はい」
 
 インターホンの画面を見ながら呼びかける。エントランスからで、宅配の人なのか男の人の姿が映っていた。

『あの……』
 
 なんとも歯切れの悪い物言いに、「どうかされましたか?」とこちらから呼びかけてみる。

『ここに、桝田亜夜は住んでますか?』

(え……? まさか……)
 
 直接住所を教えていない相手。私たちはお互いの電話番号すら知らない。

朝陽あさひ……なの?」

 その名前を呼ぶのも数年ぶりだ。恐る恐る呼びかけると、『そう。よかったぁ。いてくれて』と機械を通して安堵の声が聞こえた。

「亜夜? お客さんかい?」

 薫さんは風香に食べさせながら顔を上げ尋ねる。

「……弟、です。あの……家に上げても大丈夫ですか?」
 
 なぜ朝陽がここに来たのか。それはわからない。でも追い返す理由もない。

「もちろん。上がってもらって?」
 
 私は頷くとまた画面に向いた。

「朝陽? エントランス開けるから、家まで上がってきて」
『うん。ありがと、ねーちゃん』

 画面の向こうに、開いた扉の中へ消えていく弟の姿が映っていた。

(いったい、何年ぶり……?)
 
 東京に出て来てから、実家に帰ることはなかった。私の記憶の中の弟は、中学生くらいで止まっている。自分が働き出してからは毎年のお年玉や、節目のお祝いを送ってはいるものの、特に本人からお礼を言われたことはない。異性の、それも結構年も離れている姉弟きょうだいだしそんなものか、と諦めていた。だから、まさか突然やってくるなんて、想像すらしていなかった。
 玄関先で待っていると部屋の奥からインターホンの音が聞こえ、すぐに扉を開ける。そこに立っていたのは、面影はあるものの、青年に成長した弟だ。

「ごめん、急に」
「とりあえず入って」

 以前は自分と変わらなかった目線は、今は少し見上げるようになっている。大学生になった弟は、今時の若者らしい髪型で、襟足は短いがトップは長めで緩くウェーブがかかっている。その色は金髪と言っていいくらい明るい。

(お父さんもお母さんも何も言わないのかな?)

 変に固いところのある人たちだから、息子がこんな髪色になったら小言の一つも言いそうだ。でももう弟も、とっくに成人している。そのあたりは自由なのかも知れないと、弟の姿を眺めていた。
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