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7.sette
sette-4
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「昌弘は、自分に与えられた役目を果たそうと努力していた。ただ一人、晃由にだけは弱音を吐くこともあったようだが……。そのうちに子どもたちは成人し、結婚し、私たちは孫にも恵まれ、少しずつ穂積の家も変わっていける。その時はそう、思っておった」
「お祖父様は……この家を変えようとなさっていたのですか……?」
「……そう、だな。お前さんから見れば、古い体質の老いぼれが幅をきかせている家にしか見えんだろうが」
薫さんはその言葉を肯定することもできず、苦々しい表情で穂積様を見つめていた。
そんな二人が、とても不器用だと思った。薫さんはきっと、お祖父様に対して様々な誤解をしたまま成長し、穂積様はそれを解くことをしてこなかったのだ。それはとても悲しいことだ。けれそ永遠に凍ったままだと思われた関係は、少しずつ溶けていっているのは確かだ。
「大きく変えることは叶わなんだ。時代の移り変わりはとても早くてな。それに……。立て続けに追い討ちをかけるような出来事が……あったからな」
穂積様は自分を貶めるように呟くと、悲しげに息を吐いた。
「あれは、薫。お前さんがまだ三つになる前だった。咲子が体調を崩す日が増えてきた。いや、それまでも体調が良くないことはあったらしい。だが咲子は、仕事に追われる私には言わなかった。ちょうどバブル期と言われた時代だ。仕事は次から次へと舞い込み、休む暇もなかった。そんな私を気遣ったのだろう。……だが、家で不調を訴えた咲子は、そのまま入院するほど悪化していた」
薫さんが膝に乗せていた拳をぎゅっと握る。これから起こる、変えられない過去を覚悟したように。そして、穂積様の表情も段々と険しくなっていた。
「入院した頃はまだまだ元気でな。たくさん見舞い客が来ていた。咲子の様子を見て、皆口々に、『きっと良くなってすぐ退院できるだろう』そう言った。無論、私も」
その頃の咲子さんは、きっと私の母と変わらない年齢だろう。そう考えると、胸が張り裂けそうになる。
「そんな入院生活をしていたある日。昌弘が来たそうだ。酷い春の嵐の夜、もう面会時間も終わりの遅い時間に。昌弘は『自分には四歳になる子どもがいたんだ』と話したそうだ。昌弘はすでに、弟の決めた相手と結婚しておった。その弟は、結婚前に交際していた相手との間に、子どもが生まれたのを知りながら黙っておった。知られれば、昌弘は結婚を了承しなかっただろうから」
「そんな……」
思わず声を漏らした私の手を、薫さんはそっと握る。私も似たようなことをしていたのに、それでもたくさんの人の悲しみが自分のことのように思えた。
「昌弘は咲子に言った。『僕の愛する人と子どもを伯母さんに会わせるよ。だからまた、美味しいコーヒーを飲ませて欲しい』と。……けれど……」
穂積様はきっと今、その時に戻っているのだ。辛い辛い想い出の中に。グッと堪えるように息を呑むと、それを吐き出すように続けた。
「その日、昌弘はスリップ事故を起こし、そのまま……あの世に旅立った」
熱くなった自分の瞳から、堪えきれない涙が溢れ出る。その涙が、ポタリと握ってくれている薫さんの手の甲に落ちていった。とめどなく溢れる涙を、彼はそっとハンカチで拭ってくれる。その顔にも哀感が漂っていた。
「すみ……ません……」
声を詰まらせる私に、「大丈夫だよ」と優しく声を掛けながら、またぎゅっと手を握ってくれた。その温もりと、ときおり聞こえてくる風香の安らかな寝息が、私を落ち着かせてくれた。
穂積様は私たちの様子を見守るように見つめたあと、一呼吸置くと話しを再開した。まだ、この悲しい物語は終わっていないのだから。
「咲子はとても悔やんでいた。たくさんのことを。私も同じだ。養子にやらなければ……、もっと気にかけてやっていれば……こんなことにならなかったかも知れないと」
過去を悔やんだことのない人なんて、きっといない。多かれ少なかれ、誰にだって、私にだって、後悔することはある。けれど、こんなにも大きな喪失感を抱えるこのかたの心情など、私には想像すらできない。
「咲子は……生きる気力を無くした。病は急速に進行し、それに立ち向かうことすらできなかった。あんなに好きだったコーヒーを飲むこともできず、昌弘の後を追うように……寒さの深まる晩秋……彼女も旅立った」
ただ、苦しかった。誰にでも訪れる別れ。でもこんなにも早く、こんなにも悲しい別れが訪れるなんて思ってもいなかったはずだ。握られた薫さんの手が小さく震えている。彼もまた、悲しみを堪えているようだった。
「薫……。すまなかった」
唐突にテーブルに手をつくと、穂積様は頭を下げた。
「お祖父様! お手をお上げください。私は謝られるようなことは何も……」
顔を上げ、薫さんを見つめるその表情は、なにも言えないほど悲しげだった。
「私は、昌弘に似ていたお前さんを遠ざけてしまった。ちゃんと対話もせず、道を示すだけでいいと思っておった。なかなか人に心を開けないお前に、良い伴侶が見つかればといらぬ世話も焼いた。すべて私の思い上がりだ……」
その言動に、私と真砂子の抱いた印象は何も間違っていなかったと感じた。本当はとてもお優しいかた、なのだと。
「お祖父様は……この家を変えようとなさっていたのですか……?」
「……そう、だな。お前さんから見れば、古い体質の老いぼれが幅をきかせている家にしか見えんだろうが」
薫さんはその言葉を肯定することもできず、苦々しい表情で穂積様を見つめていた。
そんな二人が、とても不器用だと思った。薫さんはきっと、お祖父様に対して様々な誤解をしたまま成長し、穂積様はそれを解くことをしてこなかったのだ。それはとても悲しいことだ。けれそ永遠に凍ったままだと思われた関係は、少しずつ溶けていっているのは確かだ。
「大きく変えることは叶わなんだ。時代の移り変わりはとても早くてな。それに……。立て続けに追い討ちをかけるような出来事が……あったからな」
穂積様は自分を貶めるように呟くと、悲しげに息を吐いた。
「あれは、薫。お前さんがまだ三つになる前だった。咲子が体調を崩す日が増えてきた。いや、それまでも体調が良くないことはあったらしい。だが咲子は、仕事に追われる私には言わなかった。ちょうどバブル期と言われた時代だ。仕事は次から次へと舞い込み、休む暇もなかった。そんな私を気遣ったのだろう。……だが、家で不調を訴えた咲子は、そのまま入院するほど悪化していた」
薫さんが膝に乗せていた拳をぎゅっと握る。これから起こる、変えられない過去を覚悟したように。そして、穂積様の表情も段々と険しくなっていた。
「入院した頃はまだまだ元気でな。たくさん見舞い客が来ていた。咲子の様子を見て、皆口々に、『きっと良くなってすぐ退院できるだろう』そう言った。無論、私も」
その頃の咲子さんは、きっと私の母と変わらない年齢だろう。そう考えると、胸が張り裂けそうになる。
「そんな入院生活をしていたある日。昌弘が来たそうだ。酷い春の嵐の夜、もう面会時間も終わりの遅い時間に。昌弘は『自分には四歳になる子どもがいたんだ』と話したそうだ。昌弘はすでに、弟の決めた相手と結婚しておった。その弟は、結婚前に交際していた相手との間に、子どもが生まれたのを知りながら黙っておった。知られれば、昌弘は結婚を了承しなかっただろうから」
「そんな……」
思わず声を漏らした私の手を、薫さんはそっと握る。私も似たようなことをしていたのに、それでもたくさんの人の悲しみが自分のことのように思えた。
「昌弘は咲子に言った。『僕の愛する人と子どもを伯母さんに会わせるよ。だからまた、美味しいコーヒーを飲ませて欲しい』と。……けれど……」
穂積様はきっと今、その時に戻っているのだ。辛い辛い想い出の中に。グッと堪えるように息を呑むと、それを吐き出すように続けた。
「その日、昌弘はスリップ事故を起こし、そのまま……あの世に旅立った」
熱くなった自分の瞳から、堪えきれない涙が溢れ出る。その涙が、ポタリと握ってくれている薫さんの手の甲に落ちていった。とめどなく溢れる涙を、彼はそっとハンカチで拭ってくれる。その顔にも哀感が漂っていた。
「すみ……ません……」
声を詰まらせる私に、「大丈夫だよ」と優しく声を掛けながら、またぎゅっと手を握ってくれた。その温もりと、ときおり聞こえてくる風香の安らかな寝息が、私を落ち着かせてくれた。
穂積様は私たちの様子を見守るように見つめたあと、一呼吸置くと話しを再開した。まだ、この悲しい物語は終わっていないのだから。
「咲子はとても悔やんでいた。たくさんのことを。私も同じだ。養子にやらなければ……、もっと気にかけてやっていれば……こんなことにならなかったかも知れないと」
過去を悔やんだことのない人なんて、きっといない。多かれ少なかれ、誰にだって、私にだって、後悔することはある。けれど、こんなにも大きな喪失感を抱えるこのかたの心情など、私には想像すらできない。
「咲子は……生きる気力を無くした。病は急速に進行し、それに立ち向かうことすらできなかった。あんなに好きだったコーヒーを飲むこともできず、昌弘の後を追うように……寒さの深まる晩秋……彼女も旅立った」
ただ、苦しかった。誰にでも訪れる別れ。でもこんなにも早く、こんなにも悲しい別れが訪れるなんて思ってもいなかったはずだ。握られた薫さんの手が小さく震えている。彼もまた、悲しみを堪えているようだった。
「薫……。すまなかった」
唐突にテーブルに手をつくと、穂積様は頭を下げた。
「お祖父様! お手をお上げください。私は謝られるようなことは何も……」
顔を上げ、薫さんを見つめるその表情は、なにも言えないほど悲しげだった。
「私は、昌弘に似ていたお前さんを遠ざけてしまった。ちゃんと対話もせず、道を示すだけでいいと思っておった。なかなか人に心を開けないお前に、良い伴侶が見つかればといらぬ世話も焼いた。すべて私の思い上がりだ……」
その言動に、私と真砂子の抱いた印象は何も間違っていなかったと感じた。本当はとてもお優しいかた、なのだと。
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