58 / 81
7.sette
sette-3
しおりを挟む
奥様と出会ったのは、穂積様は十九歳、奥様はたった十六の頃だったという。高度経済成長期の始め、穂積家はその波に乗り会社をいくつも成長させていった。自分の知る、経済界有数の穂積グループは、ここで大きく発展したのだと彼は口にした。
「――咲子は、横浜の商家の出でな。外国とも長く取引があった。先代はそんな高田の家とのパイプが欲しかったんだろう。当時あの家には咲子と、妹の美子さんの姉妹しか跡継ぎがおらなんだ。どちらかが穂積家へ嫁入りし、片方は婿をとって高田の家を継ぐ。幼少より、そう決められていたようだ」
当たり前のように、決められた結婚だったと語る穂積様の話に耳をすませる。
「咲子と始めて会ったのは祝言の席だ。白無垢を着て、高砂に向かってくるその姿を見ても顔など見えなくてな。どんな女性なのかも分からぬまま、流されるように祝言を挙げた」
時代が違う、と言ってしまえばそれまでかも知れない。けれどその内容に驚くばかりだ。それを考えると、薫さんは無理やり結婚させられなかっただけまし、と思えるほどに。そっと隣を見ると、彼は少し複雑そうな表情で穂積様に向いていた。
「その席で美子さんは、敬愛する姉と今生の別れとばかりに泣いておった。嫁に行ってしまえばもう会えぬと思ったのだろう。まだまだそんな時代だった……」
冷めたコーヒーの残るカップを見つめたまま、穂積様は皮肉のように息を漏らし笑う。でもなんとなく、きっと薫さんも察している。それを変えたのが、目の前にいるこの方なのだと。
少し深呼吸をすると、穂積様はまた話を続けた。まだまだ先は長いだろう。
「咲子は……私には勿体ないほどできた嫁だった。いずれこの家を継ぐ私を支えられるよう、周りにきつく当たられようが弱音一つ溢さない。そんな強い人だった」
その瞳に、小さく悲哀の感情が灯り始めた気がして手を握る。
「咲子が十八のとき、長男が生まれた。その二年後には次男が。正直私はホッとしていた。跡継ぎができたことに。これでとやかく言ってくるものはいなくなると。だが私が知らぬだけで、今度はその跡継ぎの育て方、とやらを煩く言っておったようだ」
穂積様は肩の力を抜くと、コーヒーを口に運ぶ。喉を通るそれは、いったいどんな味なのだろう。重苦しい空気の中でそんなことを考える。
「咲子はそんな苦労を、一つも見せなかった。いつも一緒にコーヒー楽しんでいたのに、美味しいですねと笑うばかり。心配をかけたくなかったんだろう。その優しさは、他の者にも向けられていた。私の弟の奥方には特に、同じ苦労をする者として気があったのだろう。二人はここでよく歓談しておった。そしてある日、弟はその奥方と私の元を訪れた。……三男が生まれてすぐのことだった」
三男、と聞いて私は疑問に思う。薫さんのお父様は、二人兄弟の次男だと聞いていたから。薫さんもやはり眉を顰めると「三男……?」と口に出していた。
「そうだ。お前の父、晃由の下には弟がおった。名前は……昌弘」
突然、カップに乗るスプーンがカシャンと音を立てた。それは薫さんの向こう側から聞こえてきた。
「失礼……いたしました……」
井上さんが謝る声がして、穂積様はそちらを少し見てから、何もなかったように前を向いた。
「弟に子は一人、娘だけ。そして弟はこの部屋で私に頭を下げた。三男を、昌弘を養子にくれないか。もう妻は子を望めぬ体だから、と」
「まさか……その方は先日弔い上げをされた……」
薫さんは知らなかったようで、驚いたように声を絞り出していた。
「そうだ。隠していたわけではないが、弟の顔を立てて大っぴらに言うものはいなかった。咲子は、弟の奥方を慮った。本家ではないものの、先代の直系に跡継ぎがいないとなると、咎め立てるものもいるだろうと」
そんな話を聞いたことがないわけじゃない。田舎にも似たような話はある。けれどそれは、もっと昔の話しだと思っていた。
また穂積様はコーヒーに口をつけ、もう無くなったのかカップをテーブルに戻した。
「穂積の名に恥じないよう立派に育てる。弟はそう言った。だが私は、その意味を深く考えなかった。弟は……私の先代に、時代が変わることを恐れていた人に、傾倒していたのに」
静かな部屋に、穂積様の深く吐き出す息使いだけ響く。誰も身動ぎせず、ただその話の先を聞いていた。
「弟の奥方は、よくこの家に昌弘を連れて来た。年が近いこともあってか、特に晃由とは仲が良くてな。本人達には何も告げてはいなかったが、従兄弟同士として親交を深めておった。そして咲子とも。昌弘は咲子によく似ておった。それを咲子は案じていた。他人のことばかり気遣い、自分のことは二の次になっているのではないかと」
(だから……お祖母様は薫さんを……)
薫さんの性格が幼い頃から変わっていないとすれば、咲子さんが殊更可愛がった理由が何となくわかる。彼も……同じだから。
「――咲子は、横浜の商家の出でな。外国とも長く取引があった。先代はそんな高田の家とのパイプが欲しかったんだろう。当時あの家には咲子と、妹の美子さんの姉妹しか跡継ぎがおらなんだ。どちらかが穂積家へ嫁入りし、片方は婿をとって高田の家を継ぐ。幼少より、そう決められていたようだ」
当たり前のように、決められた結婚だったと語る穂積様の話に耳をすませる。
「咲子と始めて会ったのは祝言の席だ。白無垢を着て、高砂に向かってくるその姿を見ても顔など見えなくてな。どんな女性なのかも分からぬまま、流されるように祝言を挙げた」
時代が違う、と言ってしまえばそれまでかも知れない。けれどその内容に驚くばかりだ。それを考えると、薫さんは無理やり結婚させられなかっただけまし、と思えるほどに。そっと隣を見ると、彼は少し複雑そうな表情で穂積様に向いていた。
「その席で美子さんは、敬愛する姉と今生の別れとばかりに泣いておった。嫁に行ってしまえばもう会えぬと思ったのだろう。まだまだそんな時代だった……」
冷めたコーヒーの残るカップを見つめたまま、穂積様は皮肉のように息を漏らし笑う。でもなんとなく、きっと薫さんも察している。それを変えたのが、目の前にいるこの方なのだと。
少し深呼吸をすると、穂積様はまた話を続けた。まだまだ先は長いだろう。
「咲子は……私には勿体ないほどできた嫁だった。いずれこの家を継ぐ私を支えられるよう、周りにきつく当たられようが弱音一つ溢さない。そんな強い人だった」
その瞳に、小さく悲哀の感情が灯り始めた気がして手を握る。
「咲子が十八のとき、長男が生まれた。その二年後には次男が。正直私はホッとしていた。跡継ぎができたことに。これでとやかく言ってくるものはいなくなると。だが私が知らぬだけで、今度はその跡継ぎの育て方、とやらを煩く言っておったようだ」
穂積様は肩の力を抜くと、コーヒーを口に運ぶ。喉を通るそれは、いったいどんな味なのだろう。重苦しい空気の中でそんなことを考える。
「咲子はそんな苦労を、一つも見せなかった。いつも一緒にコーヒー楽しんでいたのに、美味しいですねと笑うばかり。心配をかけたくなかったんだろう。その優しさは、他の者にも向けられていた。私の弟の奥方には特に、同じ苦労をする者として気があったのだろう。二人はここでよく歓談しておった。そしてある日、弟はその奥方と私の元を訪れた。……三男が生まれてすぐのことだった」
三男、と聞いて私は疑問に思う。薫さんのお父様は、二人兄弟の次男だと聞いていたから。薫さんもやはり眉を顰めると「三男……?」と口に出していた。
「そうだ。お前の父、晃由の下には弟がおった。名前は……昌弘」
突然、カップに乗るスプーンがカシャンと音を立てた。それは薫さんの向こう側から聞こえてきた。
「失礼……いたしました……」
井上さんが謝る声がして、穂積様はそちらを少し見てから、何もなかったように前を向いた。
「弟に子は一人、娘だけ。そして弟はこの部屋で私に頭を下げた。三男を、昌弘を養子にくれないか。もう妻は子を望めぬ体だから、と」
「まさか……その方は先日弔い上げをされた……」
薫さんは知らなかったようで、驚いたように声を絞り出していた。
「そうだ。隠していたわけではないが、弟の顔を立てて大っぴらに言うものはいなかった。咲子は、弟の奥方を慮った。本家ではないものの、先代の直系に跡継ぎがいないとなると、咎め立てるものもいるだろうと」
そんな話を聞いたことがないわけじゃない。田舎にも似たような話はある。けれどそれは、もっと昔の話しだと思っていた。
また穂積様はコーヒーに口をつけ、もう無くなったのかカップをテーブルに戻した。
「穂積の名に恥じないよう立派に育てる。弟はそう言った。だが私は、その意味を深く考えなかった。弟は……私の先代に、時代が変わることを恐れていた人に、傾倒していたのに」
静かな部屋に、穂積様の深く吐き出す息使いだけ響く。誰も身動ぎせず、ただその話の先を聞いていた。
「弟の奥方は、よくこの家に昌弘を連れて来た。年が近いこともあってか、特に晃由とは仲が良くてな。本人達には何も告げてはいなかったが、従兄弟同士として親交を深めておった。そして咲子とも。昌弘は咲子によく似ておった。それを咲子は案じていた。他人のことばかり気遣い、自分のことは二の次になっているのではないかと」
(だから……お祖母様は薫さんを……)
薫さんの性格が幼い頃から変わっていないとすれば、咲子さんが殊更可愛がった理由が何となくわかる。彼も……同じだから。
25
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
玖羽 望月
恋愛
親族に代々議員を輩出するような家に生まれ育った鷹柳実乃莉は、意に沿わぬお見合いをさせられる。
なんとか相手から断ってもらおうとイメージチェンジをし待ち合わせのレストランに向かった。
そこで案内された席にいたのは皆上龍だった。
が、それがすでに間違いの始まりだった。
鷹柳 実乃莉【たかやなぎ みのり】22才
何事も控えめにと育てられてきたお嬢様。
皆上 龍【みなかみ りょう】 33才
自分で一から始めた会社の社長。
作中に登場する職業や内容はまったくの想像です。実際とはかけ離れているかと思います。ご了承ください。
初出はエブリスタにて。
2023.4.24〜2023.8.9
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
女子小学五年生に告白された高校一年生の俺
think
恋愛
主人公とヒロイン、二人の視点から書いています。
幼稚園から大学まである私立一貫校に通う高校一年の犬飼優人。
司優里という小学五年生の女の子に出会う。
彼女は体調不良だった。
同じ学園の学生と分かったので背負い学園の保健室まで連れていく。
そうしたことで彼女に好かれてしまい
告白をうけてしまう。
友達からということで二人の両親にも認めてもらう。
最初は妹の様に想っていた。
しかし彼女のまっすぐな好意をうけ段々と気持ちが変わっていく自分に気づいていく。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
契約書は婚姻届
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」
突然、降って湧いた結婚の話。
しかも、父親の工場と引き替えに。
「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」
突きつけられる契約書という名の婚姻届。
父親の工場を救えるのは自分ひとり。
「わかりました。
あなたと結婚します」
はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!?
若園朋香、26歳
ごくごく普通の、町工場の社長の娘
×
押部尚一郎、36歳
日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司
さらに
自分もグループ会社のひとつの社長
さらに
ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡
そして
極度の溺愛体質??
******
表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる