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7.sette
sette-2
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「お祖父様、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「会長、私の同席を承諾いただき、ありがとうございます」
薫さんと井上さんは、お祖父様――いや、私がそう呼ぶ立場にはない――穂積様、に歩み寄ると口々に語りかけている。そこに明るさなどなく、二人ともただ淡々と義務のように。
「堅苦しい挨拶はよい」
埃でも払うように持ち上げた手を動かすと、穂積様は二人の間を割り、私に向かって歩みを寄せる。
「こ、こんにちは……」
なんと言っていいのか分からず、子どものような挨拶をして会釈する。
「休みの日に呼びつけてすまないね」
ほんの少しだけ表情を緩めた穂積様に、「いえ、とんでもないです」と返すだけで精一杯だ。
いつもの杖を突き歩く彼は、そばを過ぎるとき風香の眠るベッドにチラリと視線を送った。
(……どう、して……?)
それはほんの一瞬で、すぐにソファに向かうと先に腰を掛けている。その表情を、私は見逃さなかった。それは薫さんにも井上さんにも見えなかったはずだ。
(どうして、そんな悲しそうな顔を……)
疎ましげな表情ではなく、悲哀の色を浮かべているように見えた。その理由なんて分かるはずはない。もしかすると、どこの馬の骨とも分からぬ女との間に子どもが生まれたこと自体、悲観されているのかも知れない。そんなことが頭をよぎり、背中にすうっと冷気が下りてくるような気がした。
「いつまで立っていないで掛けなさい。せっかくのコーヒーが冷めるだろう」
そう投げかけられ、ようやく我に返り振り向いた。
「さぁ、亜夜も」
薫さんがやって来るとその腕がそっと背中に触れる。その温もりを感じながら静かに頷いた。
三人掛けのソファの真ん中に薫さん。その左側に井上さん、右側には私が掛ける。向かい側には穂積様が一人カップを持ち上げていた。誰も言葉を発することのない重苦しい空気。そこに漂うコーヒーの香りだけがその空気を少し軽くしてくれるように感じた。
「どうかね? 桝田さん。久しぶりに淹れてみたんだが」
コーヒーを口に運ぶ私が、カップから唇を離したタイミングで穂積様に尋ねられる。
「とても……美味しいです。穂積様がお淹れになったんですか?」
「あぁ、そうだ。セレーノの店員さんに教えてもらってね。ずいぶん昔に淹れたきりだと言ったらわざわざメモを渡してくれたよ。進藤さん、と言ったかな」
そう話す穂積様は、店に来ていたときのように穏やかな表情だった。真砂子も『いい人』と言っていたこの顔と、さっき見せた厳しい顔。いったいどちらが本当のこの方の顔なのだろう? と私は戸惑ったままだ。
「お祖父様は、コーヒーがお嫌いなのかと思っておりました」
手に持ったいたソーサーにカップを置き、薫さんは尋ねる。その横顔に笑顔は無く、初めて会ったころのように淡々としていた。
「嫌ってはおらぬ。三十年ほど飲むことはなかったがな」
(三十年……って……)
セレーノで高田様とお話しされていた内容が頭を過ぎる。奥様を亡くされたのはそれくらい前だったはずだ。うちの店で最初にお求めになったのは、今カップに注がれているのと同じ。『妻と飲んでいた』コーヒーが飲めなくなったのは、もしかして……と穂積様を見つめた。
カップに視線を落としたままの穂積様は、ほんの少し顔を歪ませている。それは泣き出す前のようにも見えた。
「薫。お前は咲子を、祖母を覚えているか?」
「お祖母様……ですか? 朧げですが少し。お優しい方だったと記憶しています」
「そうか。お前のことは殊更可愛がっておったからな」
穂積様は、ふうっと息を吐くとカップをテーブルに置き、真っ直ぐ前を向いた。それは穂積グループの会長の顔ではなく、また別の顔のように思えた。
「皆、まずはこの老いぼれの話を聞いてやってくれ」
自分を卑下するように切り出すと、穂積様はポツリポツリと昔の話を始めた。
「会長、私の同席を承諾いただき、ありがとうございます」
薫さんと井上さんは、お祖父様――いや、私がそう呼ぶ立場にはない――穂積様、に歩み寄ると口々に語りかけている。そこに明るさなどなく、二人ともただ淡々と義務のように。
「堅苦しい挨拶はよい」
埃でも払うように持ち上げた手を動かすと、穂積様は二人の間を割り、私に向かって歩みを寄せる。
「こ、こんにちは……」
なんと言っていいのか分からず、子どものような挨拶をして会釈する。
「休みの日に呼びつけてすまないね」
ほんの少しだけ表情を緩めた穂積様に、「いえ、とんでもないです」と返すだけで精一杯だ。
いつもの杖を突き歩く彼は、そばを過ぎるとき風香の眠るベッドにチラリと視線を送った。
(……どう、して……?)
それはほんの一瞬で、すぐにソファに向かうと先に腰を掛けている。その表情を、私は見逃さなかった。それは薫さんにも井上さんにも見えなかったはずだ。
(どうして、そんな悲しそうな顔を……)
疎ましげな表情ではなく、悲哀の色を浮かべているように見えた。その理由なんて分かるはずはない。もしかすると、どこの馬の骨とも分からぬ女との間に子どもが生まれたこと自体、悲観されているのかも知れない。そんなことが頭をよぎり、背中にすうっと冷気が下りてくるような気がした。
「いつまで立っていないで掛けなさい。せっかくのコーヒーが冷めるだろう」
そう投げかけられ、ようやく我に返り振り向いた。
「さぁ、亜夜も」
薫さんがやって来るとその腕がそっと背中に触れる。その温もりを感じながら静かに頷いた。
三人掛けのソファの真ん中に薫さん。その左側に井上さん、右側には私が掛ける。向かい側には穂積様が一人カップを持ち上げていた。誰も言葉を発することのない重苦しい空気。そこに漂うコーヒーの香りだけがその空気を少し軽くしてくれるように感じた。
「どうかね? 桝田さん。久しぶりに淹れてみたんだが」
コーヒーを口に運ぶ私が、カップから唇を離したタイミングで穂積様に尋ねられる。
「とても……美味しいです。穂積様がお淹れになったんですか?」
「あぁ、そうだ。セレーノの店員さんに教えてもらってね。ずいぶん昔に淹れたきりだと言ったらわざわざメモを渡してくれたよ。進藤さん、と言ったかな」
そう話す穂積様は、店に来ていたときのように穏やかな表情だった。真砂子も『いい人』と言っていたこの顔と、さっき見せた厳しい顔。いったいどちらが本当のこの方の顔なのだろう? と私は戸惑ったままだ。
「お祖父様は、コーヒーがお嫌いなのかと思っておりました」
手に持ったいたソーサーにカップを置き、薫さんは尋ねる。その横顔に笑顔は無く、初めて会ったころのように淡々としていた。
「嫌ってはおらぬ。三十年ほど飲むことはなかったがな」
(三十年……って……)
セレーノで高田様とお話しされていた内容が頭を過ぎる。奥様を亡くされたのはそれくらい前だったはずだ。うちの店で最初にお求めになったのは、今カップに注がれているのと同じ。『妻と飲んでいた』コーヒーが飲めなくなったのは、もしかして……と穂積様を見つめた。
カップに視線を落としたままの穂積様は、ほんの少し顔を歪ませている。それは泣き出す前のようにも見えた。
「薫。お前は咲子を、祖母を覚えているか?」
「お祖母様……ですか? 朧げですが少し。お優しい方だったと記憶しています」
「そうか。お前のことは殊更可愛がっておったからな」
穂積様は、ふうっと息を吐くとカップをテーブルに置き、真っ直ぐ前を向いた。それは穂積グループの会長の顔ではなく、また別の顔のように思えた。
「皆、まずはこの老いぼれの話を聞いてやってくれ」
自分を卑下するように切り出すと、穂積様はポツリポツリと昔の話を始めた。
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