想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

文字の大きさ
上 下
57 / 81
7.sette

sette-2

しおりを挟む
「お祖父様、本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「会長、私の同席を承諾いただき、ありがとうございます」

 薫さんと井上さんは、お祖父様――いや、私がそう呼ぶ立場にはない――穂積様、に歩み寄ると口々に語りかけている。そこに明るさなどなく、二人ともただ淡々と義務のように。

「堅苦しい挨拶はよい」

 埃でも払うように持ち上げた手を動かすと、穂積様は二人の間を割り、私に向かって歩みを寄せる。

「こ、こんにちは……」
 
 なんと言っていいのか分からず、子どものような挨拶をして会釈する。

「休みの日に呼びつけてすまないね」

 ほんの少しだけ表情を緩めた穂積様に、「いえ、とんでもないです」と返すだけで精一杯だ。
 いつもの杖を突き歩く彼は、そばを過ぎるとき風香の眠るベッドにチラリと視線を送った。

(……どう、して……?)
 
 それはほんの一瞬で、すぐにソファに向かうと先に腰を掛けている。その表情を、私は見逃さなかった。それは薫さんにも井上さんにも見えなかったはずだ。

(どうして、そんな悲しそうな顔を……)

 疎ましげな表情ではなく、悲哀の色を浮かべているように見えた。その理由なんて分かるはずはない。もしかすると、どこの馬の骨とも分からぬ女との間に子どもが生まれたこと自体、悲観されているのかも知れない。そんなことが頭をよぎり、背中にすうっと冷気が下りてくるような気がした。

「いつまで立っていないで掛けなさい。せっかくのコーヒーが冷めるだろう」

 そう投げかけられ、ようやく我に返り振り向いた。

「さぁ、亜夜も」
 
 薫さんがやって来るとその腕がそっと背中に触れる。その温もりを感じながら静かに頷いた。
 三人掛けのソファの真ん中に薫さん。その左側に井上さん、右側には私が掛ける。向かい側には穂積様が一人カップを持ち上げていた。誰も言葉を発することのない重苦しい空気。そこに漂うコーヒーの香りだけがその空気を少し軽くしてくれるように感じた。

「どうかね? 桝田さん。久しぶりに淹れてみたんだが」
 
 コーヒーを口に運ぶ私が、カップから唇を離したタイミングで穂積様に尋ねられる。

「とても……美味しいです。穂積様がお淹れになったんですか?」
「あぁ、そうだ。セレーノの店員さんに教えてもらってね。ずいぶん昔に淹れたきりだと言ったらわざわざメモを渡してくれたよ。進藤さん、と言ったかな」

 そう話す穂積様は、店に来ていたときのように穏やかな表情だった。真砂子も『いい人』と言っていたこの顔と、さっき見せた厳しい顔。いったいどちらが本当のこの方の顔なのだろう? と私は戸惑ったままだ。

「お祖父様は、コーヒーがお嫌いなのかと思っておりました」
 
 手に持ったいたソーサーにカップを置き、薫さんは尋ねる。その横顔に笑顔は無く、初めて会ったころのように淡々としていた。

「嫌ってはおらぬ。三十年ほど飲むことはなかったがな」

(三十年……って……)
 
 セレーノで高田様とお話しされていた内容が頭を過ぎる。奥様を亡くされたのはそれくらい前だったはずだ。うちの店で最初にお求めになったのは、今カップに注がれているのと同じ。『妻と飲んでいた』コーヒーが飲めなくなったのは、もしかして……と穂積様を見つめた。
 カップに視線を落としたままの穂積様は、ほんの少し顔を歪ませている。それは泣き出す前のようにも見えた。

「薫。お前は咲子さきこを、祖母を覚えているか?」
「お祖母様……ですか? 朧げですが少し。お優しい方だったと記憶しています」
「そうか。お前のことは殊更可愛がっておったからな」
 
 穂積様は、ふうっと息を吐くとカップをテーブルに置き、真っ直ぐ前を向いた。それは穂積グループの会長の顔ではなく、また別の顔のように思えた。

「皆、まずはこの老いぼれの話を聞いてやってくれ」

 自分を卑下するように切り出すと、穂積様はポツリポツリと昔の話を始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜

玖羽 望月
恋愛
 親族に代々議員を輩出するような家に生まれ育った鷹柳実乃莉は、意に沿わぬお見合いをさせられる。  なんとか相手から断ってもらおうとイメージチェンジをし待ち合わせのレストランに向かった。  そこで案内された席にいたのは皆上龍だった。  が、それがすでに間違いの始まりだった。 鷹柳 実乃莉【たかやなぎ みのり】22才  何事も控えめにと育てられてきたお嬢様。 皆上 龍【みなかみ りょう】 33才 自分で一から始めた会社の社長。  作中に登場する職業や内容はまったくの想像です。実際とはかけ離れているかと思います。ご了承ください。 初出はエブリスタにて。 2023.4.24〜2023.8.9

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。 「俺ね、ダメなんだ」 「あーもう、キスしたい」 「それこそだめです」  甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の 契約結婚生活とはこれいかに。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~ その後

菱沼あゆ
恋愛
その後のみんなの日記です。

契約書は婚姻届

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」 突然、降って湧いた結婚の話。 しかも、父親の工場と引き替えに。 「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」 突きつけられる契約書という名の婚姻届。 父親の工場を救えるのは自分ひとり。 「わかりました。 あなたと結婚します」 はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!? 若園朋香、26歳 ごくごく普通の、町工場の社長の娘 × 押部尚一郎、36歳 日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司 さらに 自分もグループ会社のひとつの社長 さらに ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡 そして 極度の溺愛体質?? ****** 表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

あなたが居なくなった後

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの専業主婦。 まだ生後1か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。 朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。 乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。 会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願う宏樹。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……。

処理中です...