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6.sei
sei 〈薫side〉-4
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試飲会の会場として貸していたアルテミスの個室に向かうと、すでにバーの関係者やうちのバリスタ、お互いの取引先の者などの熱気で溢れていた。
「お帰りなさい。薫さん」
「どうだい? 順調かい?」
それとなく近づいてきた井上に小さく声を掛けられる。
「えぇ。主催はあちらですし、私は特段何もすることはありません。……会長にはお会いに?」
「会うには会えたが、何の話もできなかった。すまないが、次の日曜日。会長にアポを入れてくれないか? 空いているらしい」
「承知しました。前にも申し上げましたが、私も同行しても?」
「あぁ。構わない。……心強い」
横並びになり、試飲会の行われているテーブルを眺めながら会話をする。バー側のバーテンダーと、うちのチーフバリスタが熱く語り合っているようだ。
「また時間が決まりましたらお伝えいたします。では薫さんも試飲してきてください。向こうの方もお待ちでしたよ」
井上はいつもと変わらぬ、落ち着いた口調で言うと私を促した。
「そうだな。期待できそうだ」
コーヒーにはこだわっていると謳っているアルテミスが監修したカクテル。もちろん、バーのフェアではそれが前面に押し出される。普段とは違う客層にうちのコーヒーを味わってもらう機会に恥ずかしいものは出せない。だが井上は、期待以上のものを用意しているだろう。今までもそうだった。気がつけばいつも井上に助けられ、救われている。
『血は水よりも濃い』と言うが、そんなことはないと感じてしまう。実の兄よりも私のことを理解してくれているのは、他でもない。血縁など関係のない井上なのだから。
改めて祖父にアポイントメントを入れ、すんなりと時間も決まった。八月、夏真っ盛りのきつい日差しのもと車を走らせ、その場所にたどり着く。
海を遠くに望む高台にある洋館。それが本家だ。文化財にでも指定されそうなほど古いが、代々当主に受け継がれ、大事にされてきた館は、その重みを感じるような佇まいだった。
そこに今住むのは、現当主の祖父。そして次期当主となるだろう、その息子である伯父の家族と、その長男の家族の三代。それぞれが穂積グループの主要な役職に就いていて来客も多い。そのため本家の横には、来客用の大きな駐車場が設けられていた。
「……凄い……」
車から降りた亜夜は、その建物を見て圧倒されたように小さく口にした。
「そうだね。私もあまり訪れることはないが、来るたびに同じように思うよ」
緊張を和らげるように笑いかけると、亜夜も硬い表情を少し和らげた。
「ドラマか映画に出てきそうなお屋敷ですね」
「そういえばずいぶん昔だが、使ったことがあると耳にしたよ。探偵ものの小説がもとだったとか……」
「……ありそう」
わざと取り留めもない話しをしていると、白い車が駐車場に滑り込んで来た。見覚えのあるその車の運転席には井上が乗っていた。
「ふうを降ろしますね。起きなかったらいいんだけど」
間もなく午後一時になるところだ。風香が起きていると、ゆっくり話しができないかも知れない。彼女には申し訳ないが、いつも昼寝をしているこの時間に訪問することにした。早めに昼食を取り、家を出た。風香はしばらくすると眠り始め、今もまだ夢の中だった。
亜夜はいつもの抱っこひもを身につけている。その間に、チャイルドシートから風香をそっと降ろした。
「薫さん、亜夜さん。遅くなりました」
「いや、私たちも来たばかりだ」
「井上さん、こんにちは。あの、今日のふうの服……」
亜夜は井上に喋りかけながら、私に抱かれ眠っている風香に視線を送った。井上は風香を見ると笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。着せてくださったんですね」
「はい。いただいた時はまだ大きいと思ったのに、もうちょうどいいくらいで」
家を出る前、亜夜は今日着せたワンピースは、前に井上から貰ったものだと教えてくれた。どんな顔をしてこれを買ったのかと想像すると少し可笑しいが、その気遣いは嬉しかった。
自分の姪のように風香を可愛がってくれる井上は、きっと良い父親になるのだろう。そんな相手がいるとは聞いていないが、愛らしい寝顔を覗き込む彼に、そんなことを思っていた。
「お帰りなさい。薫さん」
「どうだい? 順調かい?」
それとなく近づいてきた井上に小さく声を掛けられる。
「えぇ。主催はあちらですし、私は特段何もすることはありません。……会長にはお会いに?」
「会うには会えたが、何の話もできなかった。すまないが、次の日曜日。会長にアポを入れてくれないか? 空いているらしい」
「承知しました。前にも申し上げましたが、私も同行しても?」
「あぁ。構わない。……心強い」
横並びになり、試飲会の行われているテーブルを眺めながら会話をする。バー側のバーテンダーと、うちのチーフバリスタが熱く語り合っているようだ。
「また時間が決まりましたらお伝えいたします。では薫さんも試飲してきてください。向こうの方もお待ちでしたよ」
井上はいつもと変わらぬ、落ち着いた口調で言うと私を促した。
「そうだな。期待できそうだ」
コーヒーにはこだわっていると謳っているアルテミスが監修したカクテル。もちろん、バーのフェアではそれが前面に押し出される。普段とは違う客層にうちのコーヒーを味わってもらう機会に恥ずかしいものは出せない。だが井上は、期待以上のものを用意しているだろう。今までもそうだった。気がつけばいつも井上に助けられ、救われている。
『血は水よりも濃い』と言うが、そんなことはないと感じてしまう。実の兄よりも私のことを理解してくれているのは、他でもない。血縁など関係のない井上なのだから。
改めて祖父にアポイントメントを入れ、すんなりと時間も決まった。八月、夏真っ盛りのきつい日差しのもと車を走らせ、その場所にたどり着く。
海を遠くに望む高台にある洋館。それが本家だ。文化財にでも指定されそうなほど古いが、代々当主に受け継がれ、大事にされてきた館は、その重みを感じるような佇まいだった。
そこに今住むのは、現当主の祖父。そして次期当主となるだろう、その息子である伯父の家族と、その長男の家族の三代。それぞれが穂積グループの主要な役職に就いていて来客も多い。そのため本家の横には、来客用の大きな駐車場が設けられていた。
「……凄い……」
車から降りた亜夜は、その建物を見て圧倒されたように小さく口にした。
「そうだね。私もあまり訪れることはないが、来るたびに同じように思うよ」
緊張を和らげるように笑いかけると、亜夜も硬い表情を少し和らげた。
「ドラマか映画に出てきそうなお屋敷ですね」
「そういえばずいぶん昔だが、使ったことがあると耳にしたよ。探偵ものの小説がもとだったとか……」
「……ありそう」
わざと取り留めもない話しをしていると、白い車が駐車場に滑り込んで来た。見覚えのあるその車の運転席には井上が乗っていた。
「ふうを降ろしますね。起きなかったらいいんだけど」
間もなく午後一時になるところだ。風香が起きていると、ゆっくり話しができないかも知れない。彼女には申し訳ないが、いつも昼寝をしているこの時間に訪問することにした。早めに昼食を取り、家を出た。風香はしばらくすると眠り始め、今もまだ夢の中だった。
亜夜はいつもの抱っこひもを身につけている。その間に、チャイルドシートから風香をそっと降ろした。
「薫さん、亜夜さん。遅くなりました」
「いや、私たちも来たばかりだ」
「井上さん、こんにちは。あの、今日のふうの服……」
亜夜は井上に喋りかけながら、私に抱かれ眠っている風香に視線を送った。井上は風香を見ると笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。着せてくださったんですね」
「はい。いただいた時はまだ大きいと思ったのに、もうちょうどいいくらいで」
家を出る前、亜夜は今日着せたワンピースは、前に井上から貰ったものだと教えてくれた。どんな顔をしてこれを買ったのかと想像すると少し可笑しいが、その気遣いは嬉しかった。
自分の姪のように風香を可愛がってくれる井上は、きっと良い父親になるのだろう。そんな相手がいるとは聞いていないが、愛らしい寝顔を覗き込む彼に、そんなことを思っていた。
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