想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

文字の大きさ
上 下
52 / 81
6.sei

sei 〈薫side〉-1

しおりを挟む
「聞いてください。薫さん」
 
 珍しく亜夜が弾んだ声で言ったのは、七月も終わりに近い日曜日だった。
 来月末には風香も一歳。最近は一人で立ち上がり、一歩踏み出そうとするがなかなかその一歩が出ないようだ。いつもヒヤヒヤしながらそばに付くと、『薫さんは心配症ですね』といつも笑われてしまう。
 休日は、自分が風香を公園に連れて行っているあいだ、亜夜は家事をしてくれる。帰ってきて昼食を取ったあと、しばらくすると風香は昼寝に入る。そして束の間の、二人だけの穏やかな時間が訪れる。

「嬉しそうだね。何か良いことがあったのかい?」
「はい。実は……」
 
 嬉しそうに切り出すと、亜夜は最近訪れた客の話をし始めた。
 自分の祖父くらいの年齢だと思われる客が、亡くなった妻との思い出のコーヒーを求め来店し、喜んでいただけた。そんな話を、亜夜は本当に嬉しそうに語ってくれた。
 私たちは一緒に暮らし始めて一月ほど。お互いのことをほとんど知らない状態での生活は、さぞかし緊張したことだろう。だがそれも少しずつ解れ、亜夜はありのままの表情を見せてくれるようになった。それを見ているだけで愛しさが湧き上がる。こんな感情を、自分が持ち合わせていたことに驚く。そして同じように、風香に対しても、彼女への感情とはまた違う愛おしさがあった。
 自分の子など想像もしたことがなかった。いつかは結婚し、子をもうけなければならない。義務のような気持ちしかなかった。だが風香といると、自分が父親であるという実感より先に、ただただ大切にしたいと思う気持ち強くなる。

「薫さん?」
 
 少しばかり上の空だったからか、亜夜は少し頰を膨らませている。

「すまない。ちゃんと聞いているよ」

 自分は笑えない人間だと思っていたのに、自然に笑みが溢れる。唇から少し息を漏らすと亜夜を引き寄せた。その温もりが自分の心を満たし、幸せとは何かと教えてくれるようだ。
 しばらくそうしたまま、ゆっくりと唇を開いた。

「まもなくお盆だけど、何か予定は?」
「いえ……。特には。店も時間は短縮しますけどお休みではないですし。薫さんは? お休みですか?」
「今はアルテミスも営業しているし、元々海外相手の仕事だから、一斉に休業はしないんだ。お盆はかなり少なくはなるが、出社するものもいる」
「そうなんですね。私はほとんど変わりなく出勤の予定です。……その。薫さんはご実家に帰られたりは……」

 ごく当たり前の質問。きっと尋ねられるだろうと予想はできた。

「お盆の土曜日に一度、本家の集まりがある。それには顔を出さなくてはいけない。その前に……お祖父様にお会いしてこようと思う」
 
 本家の集まりまで三週間ほど。それまでに祖父に、筋を通しておかなければと本当は少々焦っている。それもこれも、自分の不甲斐なさが原因だ。六月末から七月上旬はグループ企業も株主総会などがあり、お祖父様も多忙だと自分に言い訳をし、なかなか行動に移すことができずにいた。だがもう、その言い訳も通用しない。

「無理、しないでください。私は大丈夫です」
 
 膝に乗せていた手に、自分の手を重ねると亜夜は静かに言った。知らず知らずのうちに、その手は震えていたのかも知れない。彼女がそれを抑えてくれているような気がした。

「いつかは向き合わなければいけない。今がその時なんだよ」
 
 世の中には多種多様な家族の形がある。きっと亜夜は、人よりも家族と向き合うことの難しさを知っている。世の中には、良好な関係ではない家族が存在していることも。
 心配そうに見上げる亜夜に笑みを返すと、話題を変える。

「風香の誕生日、休暇を取ろうと思うんだ。亜夜はどうする?」

 私の大切な家族は、もうここにある。誕生を一緒に歓び合えなかったことは今でも悔やまれるが、後ろばかり向いてはいられない。これからをどう家族として慈しみあっていくか、それだけを考えていたい。

「いいんですか? 私もその日はお休みにしようと思ってて」
「よかった。どこか出かけるかい? それとも家で過ごす?」

 重ねられていた手の指を絡めて握ると、彼女は顔を綻ばせ私を見つめた。

「家で……家族三人で、ゆっくりしたいです」
「そうだね。そうしよう」
「はい。……あの。薫さんのお誕生日はいつですか?」

 そういえば、私たちはそんな話しをちゃんとしたことはない。誕生日を教えあうと、彼女は目に見えて残念そうな顔をする。もしかすると、祝ってくれるつもりだったかも知れないと思うだけで微笑ましくなる。

「私は過ぎてしまったが、亜夜の誕生日は一緒に祝える。今からスケジュールを空けておこう」
「今年は日曜日なんです。風香も少しは歩けるようになってるかも。一緒に自然豊かな場所に行けたら嬉しいです」
 
 すぐに叶えられそうな、ささやかな願いなのが、彼女らしい。

「あぁ。そうしよう。いい季節だしね」
「はい。誕生日になると思い出すんです。実家から見える山が、赤く色づくのを眺めるのが好きだったなって」
「きっと美しいだろう。いつか……見に行こう」
 
 彼女は決して、自分が生まれ育った場所を嫌になったわけではなさそうだ。願いを込めてその手を握りしめた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

優しい愛に包まれて~イケメンとの同居生活はドキドキの連続です~

けいこ
恋愛
人生に疲れ、自暴自棄になり、私はいろんなことから逃げていた。 してはいけないことをしてしまった自分を恥ながらも、この関係を断ち切れないままでいた。 そんな私に、ひょんなことから同居生活を始めた個性的なイケメン男子達が、それぞれに甘く優しく、大人の女の恋心をくすぐるような言葉をかけてくる… ピアノが得意で大企業の御曹司、山崎祥太君、24歳。 有名大学に通い医師を目指してる、神田文都君、23歳。 美大生で画家志望の、望月颯君、21歳。 真っ直ぐで素直なみんなとの関わりの中で、ひどく冷め切った心が、ゆっくり溶けていくのがわかった。 家族、同居の女子達ともいろいろあって、大きく揺れ動く気持ちに戸惑いを隠せない。 こんな私でもやり直せるの? 幸せを願っても…いいの? 動き出す私の未来には、いったい何が待ち受けているの?

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

一家処刑?!まっぴらごめんですわ!!~悪役令嬢(予定)の娘といじわる(予定)な継母と馬鹿(現在進行形)な夫

むぎてん
ファンタジー
夫が隠し子のチェルシーを引き取った日。「お花畑のチェルシー」という前世で読んだ小説の中に転生していると気付いた妻マーサ。 この物語、主人公のチェルシーは悪役令嬢だ。 最後は華麗な「ざまあ」の末に一家全員の処刑で幕を閉じるバッドエンド‥‥‥なんて、まっぴら御免ですわ!絶対に阻止して幸せになって見せましょう!! 悪役令嬢(予定)の娘と、意地悪(予定)な継母と、馬鹿(現在進行形)な夫。3人の登場人物がそれぞれの愛の形、家族の形を確認し幸せになるお話です。

【完結】私を嫌ってたハズの義弟が、突然シスコンになったんですが!?

miniko
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢のキャサリンは、ある日突然、原因不明の意識障害で倒れてしまう。 一週間後に目覚めた彼女は、自分を嫌っていた筈の義弟の態度がすっかり変わってしまい、極度のシスコンになった事に戸惑いを隠せない。 彼にどんな心境の変化があったのか? そして、キャサリンの意識障害の原因とは? ※設定の甘さや、ご都合主義の展開が有るかと思いますが、ご容赦ください。 ※サスペンス要素は有りますが、難しいお話は書けない作者です。 ※作中に登場する薬や植物は架空の物です。

身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】 妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。

契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~

猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」  突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。  冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。  仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。 「お前を、誰にも渡すつもりはない」  冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。  これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?  割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。  不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。  これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。

処理中です...