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6.sei

sei 〈薫side〉-1

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「聞いてください。薫さん」
 
 珍しく亜夜が弾んだ声で言ったのは、七月も終わりに近い日曜日だった。
 来月末には風香も一歳。最近は一人で立ち上がり、一歩踏み出そうとするがなかなかその一歩が出ないようだ。いつもヒヤヒヤしながらそばに付くと、『薫さんは心配症ですね』といつも笑われてしまう。
 休日は、自分が風香を公園に連れて行っているあいだ、亜夜は家事をしてくれる。帰ってきて昼食を取ったあと、しばらくすると風香は昼寝に入る。そして束の間の、二人だけの穏やかな時間が訪れる。

「嬉しそうだね。何か良いことがあったのかい?」
「はい。実は……」
 
 嬉しそうに切り出すと、亜夜は最近訪れた客の話をし始めた。
 自分の祖父くらいの年齢だと思われる客が、亡くなった妻との思い出のコーヒーを求め来店し、喜んでいただけた。そんな話を、亜夜は本当に嬉しそうに語ってくれた。
 私たちは一緒に暮らし始めて一月ほど。お互いのことをほとんど知らない状態での生活は、さぞかし緊張したことだろう。だがそれも少しずつ解れ、亜夜はありのままの表情を見せてくれるようになった。それを見ているだけで愛しさが湧き上がる。こんな感情を、自分が持ち合わせていたことに驚く。そして同じように、風香に対しても、彼女への感情とはまた違う愛おしさがあった。
 自分の子など想像もしたことがなかった。いつかは結婚し、子をもうけなければならない。義務のような気持ちしかなかった。だが風香といると、自分が父親であるという実感より先に、ただただ大切にしたいと思う気持ち強くなる。

「薫さん?」
 
 少しばかり上の空だったからか、亜夜は少し頰を膨らませている。

「すまない。ちゃんと聞いているよ」

 自分は笑えない人間だと思っていたのに、自然に笑みが溢れる。唇から少し息を漏らすと亜夜を引き寄せた。その温もりが自分の心を満たし、幸せとは何かと教えてくれるようだ。
 しばらくそうしたまま、ゆっくりと唇を開いた。

「まもなくお盆だけど、何か予定は?」
「いえ……。特には。店も時間は短縮しますけどお休みではないですし。薫さんは? お休みですか?」
「今はアルテミスも営業しているし、元々海外相手の仕事だから、一斉に休業はしないんだ。お盆はかなり少なくはなるが、出社するものもいる」
「そうなんですね。私はほとんど変わりなく出勤の予定です。……その。薫さんはご実家に帰られたりは……」

 ごく当たり前の質問。きっと尋ねられるだろうと予想はできた。

「お盆の土曜日に一度、本家の集まりがある。それには顔を出さなくてはいけない。その前に……お祖父様にお会いしてこようと思う」
 
 本家の集まりまで三週間ほど。それまでに祖父に、筋を通しておかなければと本当は少々焦っている。それもこれも、自分の不甲斐なさが原因だ。六月末から七月上旬はグループ企業も株主総会などがあり、お祖父様も多忙だと自分に言い訳をし、なかなか行動に移すことができずにいた。だがもう、その言い訳も通用しない。

「無理、しないでください。私は大丈夫です」
 
 膝に乗せていた手に、自分の手を重ねると亜夜は静かに言った。知らず知らずのうちに、その手は震えていたのかも知れない。彼女がそれを抑えてくれているような気がした。

「いつかは向き合わなければいけない。今がその時なんだよ」
 
 世の中には多種多様な家族の形がある。きっと亜夜は、人よりも家族と向き合うことの難しさを知っている。世の中には、良好な関係ではない家族が存在していることも。
 心配そうに見上げる亜夜に笑みを返すと、話題を変える。

「風香の誕生日、休暇を取ろうと思うんだ。亜夜はどうする?」

 私の大切な家族は、もうここにある。誕生を一緒に歓び合えなかったことは今でも悔やまれるが、後ろばかり向いてはいられない。これからをどう家族として慈しみあっていくか、それだけを考えていたい。

「いいんですか? 私もその日はお休みにしようと思ってて」
「よかった。どこか出かけるかい? それとも家で過ごす?」

 重ねられていた手の指を絡めて握ると、彼女は顔を綻ばせ私を見つめた。

「家で……家族三人で、ゆっくりしたいです」
「そうだね。そうしよう」
「はい。……あの。薫さんのお誕生日はいつですか?」

 そういえば、私たちはそんな話しをちゃんとしたことはない。誕生日を教えあうと、彼女は目に見えて残念そうな顔をする。もしかすると、祝ってくれるつもりだったかも知れないと思うだけで微笑ましくなる。

「私は過ぎてしまったが、亜夜の誕生日は一緒に祝える。今からスケジュールを空けておこう」
「今年は日曜日なんです。風香も少しは歩けるようになってるかも。一緒に自然豊かな場所に行けたら嬉しいです」
 
 すぐに叶えられそうな、ささやかな願いなのが、彼女らしい。

「あぁ。そうしよう。いい季節だしね」
「はい。誕生日になると思い出すんです。実家から見える山が、赤く色づくのを眺めるのが好きだったなって」
「きっと美しいだろう。いつか……見に行こう」
 
 彼女は決して、自分が生まれ育った場所を嫌になったわけではなさそうだ。願いを込めてその手を握りしめた。
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