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6.sei
sei 〈井上side〉-4
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この家の造りは純和風。リビングなどと、洒落た呼び名が似つかわしくない畳敷きの部屋は、いつ見ても整然としていた。そこを通り台所へ向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出す。変わることのない水屋からグラスを二つ取り出すとそれに注いだ。
(少しも……変わってないんだな)
居間にある座卓も、古びた掛け時計もそのままだ。ここにこうして座っていると思い出す。父のことを初めて聞いたあの日を。自分に父親という存在がいないことは、早くからわかっていた。そしてその理由を、無邪気に尋ねられるほど幼い頃、母は言った。
『お父さんは死んじゃったのよ』
そのときはそれを信じた。だが年齢が上がれば違和感も生じる。何故父のものが一つもないのか、と。ここは下町で古くから住むものも多い。友人の家にはあった仏壇すら、自分の家にはなかった。
だが、母にはそれ以上聞かなかった。いや、聞けなかった。
そのまま成長した私は大学生になり、アルバイトをして貯めた金で初めて海外旅行を計画した。パスポートが必要になり、母に戸籍謄本が必要だと告げた。そのとき母は『分かったわ』と少し困ったような笑みを浮かべていた。
それを渡されたのがこの居間。そして同時に、父の話を聞かされた。
『戸籍上にあなたの父親はいないの。ごめんなさい。今まで黙っていて』
母はそう言って頭を下げた。
ショックを受けなかったわけではない。だが、なんとなくそうではないかと感じていた。父方どころか、母方の親戚と呼べる人すらいない。もしかすると、母は私を産んだことで縁を切られたのかも知れない。
黙ったまま、父が空欄の書類に視線を落としていると母は続けた。
『決して過ちがあったわけじゃないの。人の倫を外れるようなこともしていない。ただ、結婚できるような相手じゃなかっただけ』
母は寂しそうに口にする。それを見て、そのときはこう言うしかなかった。
『別に……気にしてない』
ただ、そのときはもう知っていた。空欄のままの意味。結婚はできなくても、子どもを認知することはできる。それすらされなかったということは、そういうことだと。
「待たせたわね」
居間の障子が開くと、寝巻きがわりの浴衣に着替えた母が入ってくる。この年代には珍しく和服を好むのは、仕事でずっと着ていたからだそうだ。
座卓の向かいに座ると母は麦茶に口をつける。グラスを置くと、浴衣の襟から何かを取り出した。スッと差し出すように置かれたものは写真。それから達筆な筆で宛名の書かれた古い手紙だった。その写真は昔見たことがある。母はそのことを知らないはずだ。
「この人があなたのお父さん。穂積、昌弘さん。この写真はまだ知り合ったばかりの頃ね」
そう言って母は自分の隣に立つ人を差した。
数人で撮られた写真。場所は昔、母が働いていた料亭の前。そこには三人の男性客と、それを挟むように和服姿の年配の女性と母が立っていた。そしてその中に、ずいぶんと若いが、自分の知る二人の姿があった。
「泰史は……もしかして、この写真見たことがあるのかしら」
不意に尋ねられ「ある」とだけ答える。
戸籍を見せられてからしばらくしたのち、母の書棚から本を取り出したとき落ちてきたものだ。この家に、私が生まれ前の写真などなかった。唯一、それが一枚。そして裏側には『穂積様と』と書かれていた。
「偶然見つけて。しばらく持ち出した」
その店が無くなっていればそこで終わっていた。だが当時も、そして今もその料亭は存在する。
その写真を持ち店へ向かった。従業員を呼び止め尋ねると、すぐに答えは帰ってきた。
『穂積の会長さんとご次男さんですね。この方は存じ上げませんが』
大学生の自分でも知っていた穂積グループの会長とその息子。そのとき、どうでもいいと思っていた感情が湧きあがった。
(自分の出自を知りたい)
母には聞けなかった。だから自力調べ上げ、そして就職した。会長の次男が経営する会社に。
「……この手紙は?」
「これはあなたが生まれて何年か経ってから送られてきたもの。そこに全て書いてあるから」
恐る恐る手に取る。ところどころ色褪せる、その封筒に書かれた文字には見覚えがある。差出人を確かめることなくその中身を取り出した。
数枚に渡り綴られていたのは、私が知りたかったことの全てだった。カチ、カチ、と時計の秒針の音だけが響く居間でそれを読み終えると顔を上げた。
「どう? 仮説は合っていた?」
「ほぼ……」
そう答えて深く息を吐く。母は穏やかな表情で私を見ていた。
「今日は、帰ってきてよかった」
「そう。よかったわ」
複雑に絡み合っていた糸が、だんだんと解けていくような感覚。そして、安藤の言葉も腑に落ちた。
『薫さんは御大のこと、何か誤解しているんじゃないかって』
私も同じ。誤解していた。ずっと――。
(少しも……変わってないんだな)
居間にある座卓も、古びた掛け時計もそのままだ。ここにこうして座っていると思い出す。父のことを初めて聞いたあの日を。自分に父親という存在がいないことは、早くからわかっていた。そしてその理由を、無邪気に尋ねられるほど幼い頃、母は言った。
『お父さんは死んじゃったのよ』
そのときはそれを信じた。だが年齢が上がれば違和感も生じる。何故父のものが一つもないのか、と。ここは下町で古くから住むものも多い。友人の家にはあった仏壇すら、自分の家にはなかった。
だが、母にはそれ以上聞かなかった。いや、聞けなかった。
そのまま成長した私は大学生になり、アルバイトをして貯めた金で初めて海外旅行を計画した。パスポートが必要になり、母に戸籍謄本が必要だと告げた。そのとき母は『分かったわ』と少し困ったような笑みを浮かべていた。
それを渡されたのがこの居間。そして同時に、父の話を聞かされた。
『戸籍上にあなたの父親はいないの。ごめんなさい。今まで黙っていて』
母はそう言って頭を下げた。
ショックを受けなかったわけではない。だが、なんとなくそうではないかと感じていた。父方どころか、母方の親戚と呼べる人すらいない。もしかすると、母は私を産んだことで縁を切られたのかも知れない。
黙ったまま、父が空欄の書類に視線を落としていると母は続けた。
『決して過ちがあったわけじゃないの。人の倫を外れるようなこともしていない。ただ、結婚できるような相手じゃなかっただけ』
母は寂しそうに口にする。それを見て、そのときはこう言うしかなかった。
『別に……気にしてない』
ただ、そのときはもう知っていた。空欄のままの意味。結婚はできなくても、子どもを認知することはできる。それすらされなかったということは、そういうことだと。
「待たせたわね」
居間の障子が開くと、寝巻きがわりの浴衣に着替えた母が入ってくる。この年代には珍しく和服を好むのは、仕事でずっと着ていたからだそうだ。
座卓の向かいに座ると母は麦茶に口をつける。グラスを置くと、浴衣の襟から何かを取り出した。スッと差し出すように置かれたものは写真。それから達筆な筆で宛名の書かれた古い手紙だった。その写真は昔見たことがある。母はそのことを知らないはずだ。
「この人があなたのお父さん。穂積、昌弘さん。この写真はまだ知り合ったばかりの頃ね」
そう言って母は自分の隣に立つ人を差した。
数人で撮られた写真。場所は昔、母が働いていた料亭の前。そこには三人の男性客と、それを挟むように和服姿の年配の女性と母が立っていた。そしてその中に、ずいぶんと若いが、自分の知る二人の姿があった。
「泰史は……もしかして、この写真見たことがあるのかしら」
不意に尋ねられ「ある」とだけ答える。
戸籍を見せられてからしばらくしたのち、母の書棚から本を取り出したとき落ちてきたものだ。この家に、私が生まれ前の写真などなかった。唯一、それが一枚。そして裏側には『穂積様と』と書かれていた。
「偶然見つけて。しばらく持ち出した」
その店が無くなっていればそこで終わっていた。だが当時も、そして今もその料亭は存在する。
その写真を持ち店へ向かった。従業員を呼び止め尋ねると、すぐに答えは帰ってきた。
『穂積の会長さんとご次男さんですね。この方は存じ上げませんが』
大学生の自分でも知っていた穂積グループの会長とその息子。そのとき、どうでもいいと思っていた感情が湧きあがった。
(自分の出自を知りたい)
母には聞けなかった。だから自力調べ上げ、そして就職した。会長の次男が経営する会社に。
「……この手紙は?」
「これはあなたが生まれて何年か経ってから送られてきたもの。そこに全て書いてあるから」
恐る恐る手に取る。ところどころ色褪せる、その封筒に書かれた文字には見覚えがある。差出人を確かめることなくその中身を取り出した。
数枚に渡り綴られていたのは、私が知りたかったことの全てだった。カチ、カチ、と時計の秒針の音だけが響く居間でそれを読み終えると顔を上げた。
「どう? 仮説は合っていた?」
「ほぼ……」
そう答えて深く息を吐く。母は穏やかな表情で私を見ていた。
「今日は、帰ってきてよかった」
「そう。よかったわ」
複雑に絡み合っていた糸が、だんだんと解けていくような感覚。そして、安藤の言葉も腑に落ちた。
『薫さんは御大のこと、何か誤解しているんじゃないかって』
私も同じ。誤解していた。ずっと――。
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