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6.sei

sei 〈井上side〉-1

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 梅雨終盤、激しい雨の降ったその日。
 打ち合わせのためアルテミスに向かった。途中、薫さんと約束をしていた亜夜さんを拾って。
 二人で今シーズンのアフタヌーンティーを楽しむのだと言う薫さんの表情は、彼女と再会して豊かになった。それに本人は気づいているのだろうか。それを嬉しく思いながらも、どこか羨ましくもあった。

 雨も上がり、とうに定時を過ぎた時間。

「帰りました」

 この部屋の主はアルテミスから直帰したが、長年の習慣でそう声に出しながら入る。

「お疲れ様でーす!」

 半分だけ明りのついた部屋の自席で顔を上げ、軽い調子で言ったのは安藤だ。

「まだ残っていたんですか」

 湿り気を帯びたままの上着を脱ぎながら尋ねると、安藤はパソコンの画面に視線を落としたまま答えた。

「もうちょいで書類出来上がりそうだったんで。井上さんは? もう帰る?」
「私は今から打ち合わせのまとめ資料の作成です。あなたは早く帰ったらどうですか? 新婚なのに」
 
 応接セットを挟んだ安藤の向かいの自席に着くと、呆れたように溜め息を吐いた。
 安藤は先月、六月の半ばにアルテミスの入るホテル、プリマヴェーラで式を挙げたばかりだ。その相手も仕事の忙しさは理解しているだろう。だが結婚してまだ一月も経っていないのに残業続き。相手にいつ愛想を尽かされるか他人事ながら心配になる。

「ん~。まぁ、大丈夫でしょ。飯作るのに時間かかるから、あんまり早く帰られても困るって。けど俺のこと待つからなぁ。待たなくていいっつってんのに」

 キーボードを叩きながら安藤は言う。相手を知っているぶん、目に浮かぶようで苦笑する。

「適当に切り上げて早く帰りなさい。そのうちから苦情が入りそうですから」

 苦言を呈すと、安藤は決まり悪そうに頭を掻いた。

「それ、ありそうで怖いんですけど? じゃあそろそろ片を付けますよ。井上さん、遅くなりそうなら夜食買いに行きましょうか?」
「いえ。構いません。私もそう遅くないうちに帰ります」

 溜め息を吐き出すように答えると、安藤は訝しげにこちらを見た。

「なんか疲れてますけど例の企画、うまくいってないんですか?」

 そう尋ねたたあと「よし」と小さく呟き安藤はノートパソコンを閉じた。

「……企画は問題ありません」

 今持っているのは、プリマヴェーラの最上階にあるバーとの企画。コーヒーを使ったカクテルの監修をアルテミスがすることになった。そして、その企画の責任者が私だ。社長秘書という立場ではあるが、最近その業務の大半は安藤が担っている。私はどちらかといえば社長の補佐の役割が多くなってきていた。薫さんからは『副社長にならないか』などと言われているが、自分は表に出るような人間ではないし出るような立場でもない。そう思っていた。

「ま~、井上さんに問題あるわけないか」
 
 安藤は自席から立ち上がると、こちら側を向く応接ソファにドサッと腰掛ける。

「じゃ、なんか悩みごと?」

 安藤らしい明るい調子で尋ねられ軽く息を吐く。こう見えて、と言っては失礼なのだろうが、安藤はなかなかのやり手で、機微に聡い男だ。

「今日アルテミスに、会長がお越しになっていました」
「御大が? あの人、コーヒー飲まないでしょ」
 
 たしかに、薫さんも含めて私たちの間ではそういう認識だ。

「ええ。今回もお飲みにならなかったようです」

 あとでスタッフに確認したが、会長が飲まれたのはミネラルウォーターだったらしい。

「いったい。何のために来られたのか……」
 
 溜め息とともにそう吐き出すと、安藤は珍しく険しい表情を見せた。

「じつはさ……」
「なんですか?」
 
 安藤は立ち上がると私の元へ寄る。万が一でも周りの耳に入らないよう、注意を払うように声のトーンを落とした。

「どうも親戚筋に、薫さんがシングルマザーに入れ込んでるって噂、回ってるらしいよ」

 もちろん安藤も、薫さんと亜夜さんのことは知っているし、協力は頼んである。そして、薫さんはこのことを、公にはしていないが隠してもいない。そろそろそういう話が出だしてもおかしくはないのだ。

「そういう情報だけは本当に早いものですね」

 呆れたように口にすると、安藤は続けた。

「マジで。しかもさ、うちのばあちゃんに言ってきたらしいよ。『薫さん、お付き合いなさるお相手を考えたほうがよろしいんじゃ?』だって。ほっとけよな」
 
 安藤の祖母は会長の妹だ。遠まわしに嫌味を言ってきた相手に、安藤は腹を立てながらも半分呆れているようだった。
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