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5.cinque
cinque-5
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梅雨は明け、本格的に夏がやってくると店にも活気が戻ってきた。今日も外は三十度を超える暑さ。お客様は涼を求め来店されるかたも多い。
「亜夜さん、お客様対応お願いできませんか?」
この時間、カウンター業務から外れていた私の元へ桃ちゃんがやってくる。
「うん。わかった」
今日は火曜日で真砂子は固定休日の日。バリスタは他にもいるが、案内は私に回ってくることが多い。
「お待たせいたしました」
オーダーカウンターの脇に立つ男性に笑顔で話しかける。
お幾つくらいだろうか。七十代後半、もしかしたら八十代に入られているかも知れない。涼しげなグレーのジャケットの下は白いポロシャツ。この年代のかたにしては背が高いほうだろう。姿勢良く立たれている姿は若々しい。
その人は私を見ると表情を緩めた。
「すまないね。こういう店にはあまり来ないものだから、何がいいかわからなくて」
「とんでもない。気に入っていただける一杯をお探しするお手伝いをします」
先にオーダーするシステムだから、どうしても立ち話になってしまうのが申し訳ない。ふとその手に杖が握られているのを見て先日のことを思い出しドキリとする。そんなこととは露知らずお客様は続けた。
「昔、妻と飲んでいたコーヒーが飲みたいんだが、名前も知らないんだ。聞こうにも、本人はとうの昔に旅立ってしまったものだから」
懐かしそうな、寂しそうな表情をお客様は浮かべている。なんと返していいのかわからず、薄らと微笑むと話を切り出した。
「では、風味や飲み口が似たようなものをお探ししましょうか。例えば……」
酸味や苦味の度合い、キレがあるのかコクがあるのか、少しずつ尋ねていくと、興味深そうに頷きながら考えていらした。最終的に近いものをお選びできたはずだ。
「ではこちらになさいますか?」
メニューシートを指差すとお客様は満足気に頷く。会計を済ませカウンターの前に待っていたお客様に、「お待たせしました」と出来上がったコーヒーを差し出した。
「いい香りだ。これは楽しみだよ。えーと……」
カップを受け取りながら口籠ると、私の胸に付いているローマ字で書かれた名札を確認したようだ。
「ますださん、だね。ありがとう」
お客様は笑みを浮かべる。ありがとう、と言われるのはいつだって嬉しい。
杖を手にカップを運ぶのは大変だろう。
「お席までお運びしますね。どちらの席になさいますか?」
「あぁ、これはすまないね。では、あの窓際でもいいかな?」
「はい。かしこまりました」
お客様に先に進んでもらい窓際に向かう。後ろから見ると、やはり歩きかたはぎこちない。歩くたびに杖がコツっと床を叩く音がした。
「ではこちらで」
一番窓側のカウンター席まで来るとお客様は席に座る。
「はい。お帰りの際はそのままで。スタッフにお声かけください」
「ご親切に。助かるよ」
人当たりの良さそうな柔らかな表情をお客様は返してくれた。
「では、ゆっくりなさってください」
(素敵な人……)
自分の家族と否が応でも比べてしまう。何かされても当たり前で、お礼を言われた記憶などない。接客をしていると嫌な思いをすることもあるけれど、こうやって素敵なお客様に出会えることもある。
(喜んでいただけたらいいな)
そんなことを思いながら振り返り、その人の背中を見つめた。
しばらくすると退勤時間を迎え、店を出る。通用口を出て大通りに面した歩道に出ると、少し先に店の出入口がある。そこからちょうど、先程のお客様が出てきて目が合い会釈を返す。
自分の提案したものがどうだったのか聞きたい。そんな思いが湧き上がる。弾かれたように駆け出すと、お客様の元へ向かった。
「お帰りですかな?」
「はい。もう上がりの時間で。……あの。先程のコーヒーは、いかがでしたか?」
不躾だと思いつつ恐る恐る尋ねると、お客様は顔を綻ばせた。
「懐かしい味だった。昔を思い出すほどに。とても美味かったよ」
「そうなんですね。喜んでいただけてよかったです」
安堵の息を漏らすと自然に笑顔になる。
「ますださんが親身になってくれたおかげだ。また寄らせてもらおうかな」
「ありがとうございます。……えっと」
お客様に名前を尋ねることなど基本的にはない。話の流れなどで、常連のお客様の名前を知ることはあっても。言いよどむと、それを察したのか、お客様は先に切り出す。
「…………。高田……と申します」
「高田様……?」
偶然なのか、前からの常連様と同じ苗字。足がお悪いという高田様の旦那様かと一瞬考えたが、目の前にいるかたは奥様を昔亡くされているのだから別人だ。
「では高田様。またのお越しをお待ちしております」
「あぁ。楽しみにしているよ」
ほんの些細な出来事。それでも幸せな気分になる。そう言えば、お世話になったカフェの奥さんが言っていた。
『お客様の笑顔が何より嬉しいし、美味しかったって言われただけで元気が出るのよね』
(本当にそうだな……)
懐かしいその顔を思い出しながら思う。実家には帰れなくても、あの店にはまた寄りたい。そのときには、薫さんと風香も一緒に。私は今、幸せですって伝えたい。そんなことを考えながら帰路についた。
「亜夜さん、お客様対応お願いできませんか?」
この時間、カウンター業務から外れていた私の元へ桃ちゃんがやってくる。
「うん。わかった」
今日は火曜日で真砂子は固定休日の日。バリスタは他にもいるが、案内は私に回ってくることが多い。
「お待たせいたしました」
オーダーカウンターの脇に立つ男性に笑顔で話しかける。
お幾つくらいだろうか。七十代後半、もしかしたら八十代に入られているかも知れない。涼しげなグレーのジャケットの下は白いポロシャツ。この年代のかたにしては背が高いほうだろう。姿勢良く立たれている姿は若々しい。
その人は私を見ると表情を緩めた。
「すまないね。こういう店にはあまり来ないものだから、何がいいかわからなくて」
「とんでもない。気に入っていただける一杯をお探しするお手伝いをします」
先にオーダーするシステムだから、どうしても立ち話になってしまうのが申し訳ない。ふとその手に杖が握られているのを見て先日のことを思い出しドキリとする。そんなこととは露知らずお客様は続けた。
「昔、妻と飲んでいたコーヒーが飲みたいんだが、名前も知らないんだ。聞こうにも、本人はとうの昔に旅立ってしまったものだから」
懐かしそうな、寂しそうな表情をお客様は浮かべている。なんと返していいのかわからず、薄らと微笑むと話を切り出した。
「では、風味や飲み口が似たようなものをお探ししましょうか。例えば……」
酸味や苦味の度合い、キレがあるのかコクがあるのか、少しずつ尋ねていくと、興味深そうに頷きながら考えていらした。最終的に近いものをお選びできたはずだ。
「ではこちらになさいますか?」
メニューシートを指差すとお客様は満足気に頷く。会計を済ませカウンターの前に待っていたお客様に、「お待たせしました」と出来上がったコーヒーを差し出した。
「いい香りだ。これは楽しみだよ。えーと……」
カップを受け取りながら口籠ると、私の胸に付いているローマ字で書かれた名札を確認したようだ。
「ますださん、だね。ありがとう」
お客様は笑みを浮かべる。ありがとう、と言われるのはいつだって嬉しい。
杖を手にカップを運ぶのは大変だろう。
「お席までお運びしますね。どちらの席になさいますか?」
「あぁ、これはすまないね。では、あの窓際でもいいかな?」
「はい。かしこまりました」
お客様に先に進んでもらい窓際に向かう。後ろから見ると、やはり歩きかたはぎこちない。歩くたびに杖がコツっと床を叩く音がした。
「ではこちらで」
一番窓側のカウンター席まで来るとお客様は席に座る。
「はい。お帰りの際はそのままで。スタッフにお声かけください」
「ご親切に。助かるよ」
人当たりの良さそうな柔らかな表情をお客様は返してくれた。
「では、ゆっくりなさってください」
(素敵な人……)
自分の家族と否が応でも比べてしまう。何かされても当たり前で、お礼を言われた記憶などない。接客をしていると嫌な思いをすることもあるけれど、こうやって素敵なお客様に出会えることもある。
(喜んでいただけたらいいな)
そんなことを思いながら振り返り、その人の背中を見つめた。
しばらくすると退勤時間を迎え、店を出る。通用口を出て大通りに面した歩道に出ると、少し先に店の出入口がある。そこからちょうど、先程のお客様が出てきて目が合い会釈を返す。
自分の提案したものがどうだったのか聞きたい。そんな思いが湧き上がる。弾かれたように駆け出すと、お客様の元へ向かった。
「お帰りですかな?」
「はい。もう上がりの時間で。……あの。先程のコーヒーは、いかがでしたか?」
不躾だと思いつつ恐る恐る尋ねると、お客様は顔を綻ばせた。
「懐かしい味だった。昔を思い出すほどに。とても美味かったよ」
「そうなんですね。喜んでいただけてよかったです」
安堵の息を漏らすと自然に笑顔になる。
「ますださんが親身になってくれたおかげだ。また寄らせてもらおうかな」
「ありがとうございます。……えっと」
お客様に名前を尋ねることなど基本的にはない。話の流れなどで、常連のお客様の名前を知ることはあっても。言いよどむと、それを察したのか、お客様は先に切り出す。
「…………。高田……と申します」
「高田様……?」
偶然なのか、前からの常連様と同じ苗字。足がお悪いという高田様の旦那様かと一瞬考えたが、目の前にいるかたは奥様を昔亡くされているのだから別人だ。
「では高田様。またのお越しをお待ちしております」
「あぁ。楽しみにしているよ」
ほんの些細な出来事。それでも幸せな気分になる。そう言えば、お世話になったカフェの奥さんが言っていた。
『お客様の笑顔が何より嬉しいし、美味しかったって言われただけで元気が出るのよね』
(本当にそうだな……)
懐かしいその顔を思い出しながら思う。実家には帰れなくても、あの店にはまた寄りたい。そのときには、薫さんと風香も一緒に。私は今、幸せですって伝えたい。そんなことを考えながら帰路についた。
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