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5.cinque
cinque-4
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東京へ行ってイタリア語とコーヒーの勉強をしたいと言ったのは、自分の最初で最後のわがままだった。もちろんすんなり了承してもらえたわけではない。
難色を示す両親に『帰ってきて就職先がなければうちで雇います』と説得してくれたのは、通っていた店のご夫婦だった。
涙が出た。赤の他人の私のことを案じてそこまで言ってくれたことに。
渋々ながら両親は、専門学校への進学を承諾してくれた。仕送りは最低限で、田舎とは物価の違う東京で暮らすのは大変だった。けれど家族の顔色を窺うことのない日々に、ようやく本当の自分になれた気がしていた。
そんな話を薫さんに聞かせると、哀しげな顔で抱き寄せられた。
「いいんです、今は。愛されなかったぶん、愛せる相手ができた。それだけで私は幸せです」
静かに言う私の背中を、薫さんは黙って摩ってくれていた。そんな彼に、自分の決心を伝えた。
「両親に手紙を書こうと思ってます。電話じゃ伝えられないから」
自分の想いを口に出すのは難しいけれど、書くことならできる。返事なんて期待はできない。でも、伝えたい、と思った。
時間をかけ書き上げた手紙に、薫さんと風香と三人で撮った写真も入れた。引越し後だったから今の住所も書いて。
投函するとき、息が詰まりそうで苦しくなった。けれど手紙がコトンと落ちる音に、肩の力が抜けた気がした。
(……やっぱり……返事なんて、こないよね)
雨は弱くなり、だんだんとはっきりと見えてきた窓の外を眺めて思う。
あれからそれなりに経つが、なんの音沙汰もない。でもそれでよかった。罵られるよりよほど。
「亜夜、すまない。遅れてしまって」
「大丈夫です。薫さんこそ、お疲れじゃないですか?」
「そんなことはない。君の顔を見ると疲れなど吹き飛ぶよ」
「私もです。これから美味しいスイーツをいただくんですから、疲れなんて余計にどこかにいっちゃいますね」
アルテミス最初のサマーシーズン、季節限定のアフタヌーンティーは桃をメインにしたものだ。繊細で華やかな、見るだけで心が躍り出しそうなスイーツに、生ハムと桃を合わせたセイボリー。紅茶はもちろん何十種類用意されていたが、アルテミスのこだわりなのかコーヒーも数種類。軽いものからしっかりした味わいのものまで、メニューブックにはその風味や飲み口も記載されていた。
(ここまでコーヒーにもこだわったアフタヌーンティーは初めてかも……)
それを眺めるだけで嬉しくなる。もとは紅茶のためのセットなのだからしかたないけれど、たいていの店ではコーヒーはブレンドのみで、アイスかホット。あとはカフェオレくらいだろうか。そんなときは、繊細なスイーツに合わせるなら紅茶だな、と最初に紅茶を選んでいた。
けれど、今日は違う。
「キリマンジャロをお願いします」
オーダーを取りに来た男性に言うと、薫さんからも「同じものを」と聞こえてくる。スタッフが頭を下げその場をあとにすると、薫さんが口火を切った。
「亜夜ならそれを選んでくれると思ったよ」
丸い四人掛けテーブルの、テラスに向いた隣同士の席。笑みを浮かべた薫さんはなんとなく嬉しそうだ。
「桃にも合って繊細なスイーツの味を邪魔しないのはこれだなって。コーヒーがこんなに選べるアフタヌーンティーなんて初めてです。考案は薫さんですか?」
「私も提案はしたが、考えたのはここのバリスタでね。なかなか苦労していたよ」
「そうですよね。どうしてもコーヒーはチョコレートとかチーズケーキとか、どっしりしたスイーツのイメージですものね」
けれど、コーヒーと一口に言っても、産地や焙煎のしかたで飲み口はずいぶんと変わってくる。
最初に選んだキリマンジャロは、タンザニアとも呼ばれ、フルーティーな香りが特徴だ。浅煎りだと酸味が際立ち軽い飲み口になる。きっと桃を使ったスイーツと相性はいいだろうと選んだのだ。
素敵な空間でいただく美味しいスイーツにコーヒー。そして隣には愛する人。そんな至福の時間を過ごす。
けれど、気にしないでいようと思っていても、やはり気になってしまう。それはやはり、顔に出ていたようだ。
「何か……あった?」
「……その……」
「何かあるなら教えてほしい。私は察しがいいわけじゃない。むしろ逆だろう?」
自分のことをそんなふうに言いながら、彼は優しく笑みを浮かべる。
「実は……」
思い過ごしならそれでいい。私はここに来た直後の話を聞かせた。薫さんはそれにほんの少し険しい表情を見せたが、それはすぐに和らいだ。
「祖父がアルテミスに来たことはないんだ。元々コーヒーや紅茶は好まれないかたでね」
「そう……なんですか?」
「あぁ。だから不安にならないでほしい。と言っても私が亜夜を不安にさせたままなんだが……」
切なげに顔を歪める薫さんに、私は小さく頭を振る。
「確かに不安になることもあります。でも今は一緒にいてくれます。それで充分です」
いつの間にか雨が上がっている。柔らかな光が中庭の木々を照らし、窓の向こうを鮮やかに映し出していた。
難色を示す両親に『帰ってきて就職先がなければうちで雇います』と説得してくれたのは、通っていた店のご夫婦だった。
涙が出た。赤の他人の私のことを案じてそこまで言ってくれたことに。
渋々ながら両親は、専門学校への進学を承諾してくれた。仕送りは最低限で、田舎とは物価の違う東京で暮らすのは大変だった。けれど家族の顔色を窺うことのない日々に、ようやく本当の自分になれた気がしていた。
そんな話を薫さんに聞かせると、哀しげな顔で抱き寄せられた。
「いいんです、今は。愛されなかったぶん、愛せる相手ができた。それだけで私は幸せです」
静かに言う私の背中を、薫さんは黙って摩ってくれていた。そんな彼に、自分の決心を伝えた。
「両親に手紙を書こうと思ってます。電話じゃ伝えられないから」
自分の想いを口に出すのは難しいけれど、書くことならできる。返事なんて期待はできない。でも、伝えたい、と思った。
時間をかけ書き上げた手紙に、薫さんと風香と三人で撮った写真も入れた。引越し後だったから今の住所も書いて。
投函するとき、息が詰まりそうで苦しくなった。けれど手紙がコトンと落ちる音に、肩の力が抜けた気がした。
(……やっぱり……返事なんて、こないよね)
雨は弱くなり、だんだんとはっきりと見えてきた窓の外を眺めて思う。
あれからそれなりに経つが、なんの音沙汰もない。でもそれでよかった。罵られるよりよほど。
「亜夜、すまない。遅れてしまって」
「大丈夫です。薫さんこそ、お疲れじゃないですか?」
「そんなことはない。君の顔を見ると疲れなど吹き飛ぶよ」
「私もです。これから美味しいスイーツをいただくんですから、疲れなんて余計にどこかにいっちゃいますね」
アルテミス最初のサマーシーズン、季節限定のアフタヌーンティーは桃をメインにしたものだ。繊細で華やかな、見るだけで心が躍り出しそうなスイーツに、生ハムと桃を合わせたセイボリー。紅茶はもちろん何十種類用意されていたが、アルテミスのこだわりなのかコーヒーも数種類。軽いものからしっかりした味わいのものまで、メニューブックにはその風味や飲み口も記載されていた。
(ここまでコーヒーにもこだわったアフタヌーンティーは初めてかも……)
それを眺めるだけで嬉しくなる。もとは紅茶のためのセットなのだからしかたないけれど、たいていの店ではコーヒーはブレンドのみで、アイスかホット。あとはカフェオレくらいだろうか。そんなときは、繊細なスイーツに合わせるなら紅茶だな、と最初に紅茶を選んでいた。
けれど、今日は違う。
「キリマンジャロをお願いします」
オーダーを取りに来た男性に言うと、薫さんからも「同じものを」と聞こえてくる。スタッフが頭を下げその場をあとにすると、薫さんが口火を切った。
「亜夜ならそれを選んでくれると思ったよ」
丸い四人掛けテーブルの、テラスに向いた隣同士の席。笑みを浮かべた薫さんはなんとなく嬉しそうだ。
「桃にも合って繊細なスイーツの味を邪魔しないのはこれだなって。コーヒーがこんなに選べるアフタヌーンティーなんて初めてです。考案は薫さんですか?」
「私も提案はしたが、考えたのはここのバリスタでね。なかなか苦労していたよ」
「そうですよね。どうしてもコーヒーはチョコレートとかチーズケーキとか、どっしりしたスイーツのイメージですものね」
けれど、コーヒーと一口に言っても、産地や焙煎のしかたで飲み口はずいぶんと変わってくる。
最初に選んだキリマンジャロは、タンザニアとも呼ばれ、フルーティーな香りが特徴だ。浅煎りだと酸味が際立ち軽い飲み口になる。きっと桃を使ったスイーツと相性はいいだろうと選んだのだ。
素敵な空間でいただく美味しいスイーツにコーヒー。そして隣には愛する人。そんな至福の時間を過ごす。
けれど、気にしないでいようと思っていても、やはり気になってしまう。それはやはり、顔に出ていたようだ。
「何か……あった?」
「……その……」
「何かあるなら教えてほしい。私は察しがいいわけじゃない。むしろ逆だろう?」
自分のことをそんなふうに言いながら、彼は優しく笑みを浮かべる。
「実は……」
思い過ごしならそれでいい。私はここに来た直後の話を聞かせた。薫さんはそれにほんの少し険しい表情を見せたが、それはすぐに和らいだ。
「祖父がアルテミスに来たことはないんだ。元々コーヒーや紅茶は好まれないかたでね」
「そう……なんですか?」
「あぁ。だから不安にならないでほしい。と言っても私が亜夜を不安にさせたままなんだが……」
切なげに顔を歪める薫さんに、私は小さく頭を振る。
「確かに不安になることもあります。でも今は一緒にいてくれます。それで充分です」
いつの間にか雨が上がっている。柔らかな光が中庭の木々を照らし、窓の向こうを鮮やかに映し出していた。
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