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5.cinque
cinque-3
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「あの、ここで待たせていただいてもいいですか?」
バリスタが動き回るカウンターの前で足を止め、スタッフに呼びかける。
「承知しました。井上が参るまでしばらくお待ちください」
恭しく頭を下げ案内スタッフはまた自分の持ち場に戻る。カウンターに目を向けると、バリスタと目が合った。
「あっ! この前の……」
そこにいたのは、前にアドバイスをしたバリスタで、嬉しそうに笑顔を見せていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。先日はありがとうございます。おかげ様で、自分でも良くなったと思います。よければ試飲していただけませんか?」
アルテミスもお客様は少なく、今は時間があるのだろう。他のバリスタも周りの清掃をしているようだ。
「じゃあ……。お言葉に甘えて。代金はお支払いします」
「いえ。いいんですよ。試飲ですから。少しお待ちください」
明るく言うと彼はマシンに向かった。
この前の癖は直っているようだ。差し出されたエスプレッソからはいい香りが漂い、緊張した心が緩むようだった。いつもより気持ち多めに入れたお砂糖の甘味と苦味が混ざり合うエスプレッソ。前に感じた雑味も消えている。
「とても……美味しいです」
「よかった。実はあのあとすぐに社長に飲んでいただいて。そのときにも褒めてもらえたんです」
あのあと……と言うのは、井上さんと前に来たときだ。あの日薫さんは法事だったはず。けれどそのあと、ここに寄ったようだ。
(井上さん……それすらも見越して?)
少し慌てたように戻ってきたその姿を見ながら、まさかね、とかぶりを振った。
「すみませんでした」
「いえ……。大丈夫です」
なんなく固い表情で返す。さっきの方はどなたですか、なんて怖くて聞けない。きっと自分が思っている通りだと思うから。
「お席に移動しましょう。薫さんもそろそろお見えになるはずです」
「……はい。これ。ご馳走様でした」
「いえ。あの。一つ伺ってもいいですか? いらっしゃるお店、教えてくださいませんか」
バリスタにカップを差し出すと尋ねられ、驚きながらも笑みを浮かべて答える。
「セレーノです。ここからなら歩いてもお越しいただけます」
「ありがとうございます。今度伺わせてください」
「ぜひ。お待ちしています」
そう会話を交わしたあと、井上さんは一番奥の窓際の席に案内してくれた。
「すみません亜夜さん。私はこれから打ち合わせが入っていまして」
用事があったのは本当だったのだと少し安堵する。
「私のことはお気になさらず」
「ありがとうございます。では失礼します」
丁寧に頭を下げると井上さんは消えていった。
周りにはお客様の姿もなく、打ち付ける雨音だけがガラスの向こうから聞こえてくる。私は歪んで見える中庭をただぼんやりと眺めていた。
(……家族、か)
それは簡単には切れない縁。その、自分の家族に思いを巡らせた。
山に囲まれた田舎にある古い農家。地元では大きな家で、自分が生まれたころは、そこに四世代で暮らしていた。
母はもちろん曽祖父まで、陽が昇ると農作業に出てしまう。平日は保育園に通っていたが、休日はそうはいかない。曽祖母だけが残る家に一人でボツンと遊んでいるのが常だった。
母はとにかく忙しく、朝から晩まで動き回っていた。家にいる男たちは農作業をするだけで、家のことは一切しない。まだ祖母も若かったが、家を切り盛りしていたのは、嫁いできて数年の母だった。
そんな母には、田舎ではありがちの重圧がかけられていた。
『後継ぎはまだなのか』
母が周りから言われていたその言葉の意味を、小さい頃は理解できなかった。
けれど、それを意味を知ったのは六歳のとき。弟が生まれてからだ。
それまで『忙しい』と相手にされなかった私は、より一層相手にされなくなった。赤ちゃんが生まれたのだからしかたない、と自分に言い聞かせた。
でも、その弟が成長するにつれ思い知る。周りから何かと甘やかされ、母の手を煩わせても文句一つ言われない弟の姿を見て。私は……。愛されていないのだと。
そんな私がコーヒーに、エスプレッソに出会ったのは高校生のときだ。
仲の良い友だちの遠い親戚が、街でカフェを開いた。行動範囲も広がり、友だちと自転車を走らせそこに行った日を今でもよく覚えている。
コーヒーの香りが漂う真新しい店内。そこにあった見たこともないマシンに向かいエスプレッソを淹れているスチームの音。何もかもが初めてで、足を踏み入れると、少し大人になった気がした。
その若い夫婦が経営する店で、最初に飲んだのはカフェラテ。今まで飲んでいた甘いコーヒー牛乳とは違う、少し苦味のある大人の味。
エスプレッソの美味しさを教えてくれたのは、そのご夫婦だった。
バリスタが動き回るカウンターの前で足を止め、スタッフに呼びかける。
「承知しました。井上が参るまでしばらくお待ちください」
恭しく頭を下げ案内スタッフはまた自分の持ち場に戻る。カウンターに目を向けると、バリスタと目が合った。
「あっ! この前の……」
そこにいたのは、前にアドバイスをしたバリスタで、嬉しそうに笑顔を見せていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。先日はありがとうございます。おかげ様で、自分でも良くなったと思います。よければ試飲していただけませんか?」
アルテミスもお客様は少なく、今は時間があるのだろう。他のバリスタも周りの清掃をしているようだ。
「じゃあ……。お言葉に甘えて。代金はお支払いします」
「いえ。いいんですよ。試飲ですから。少しお待ちください」
明るく言うと彼はマシンに向かった。
この前の癖は直っているようだ。差し出されたエスプレッソからはいい香りが漂い、緊張した心が緩むようだった。いつもより気持ち多めに入れたお砂糖の甘味と苦味が混ざり合うエスプレッソ。前に感じた雑味も消えている。
「とても……美味しいです」
「よかった。実はあのあとすぐに社長に飲んでいただいて。そのときにも褒めてもらえたんです」
あのあと……と言うのは、井上さんと前に来たときだ。あの日薫さんは法事だったはず。けれどそのあと、ここに寄ったようだ。
(井上さん……それすらも見越して?)
少し慌てたように戻ってきたその姿を見ながら、まさかね、とかぶりを振った。
「すみませんでした」
「いえ……。大丈夫です」
なんなく固い表情で返す。さっきの方はどなたですか、なんて怖くて聞けない。きっと自分が思っている通りだと思うから。
「お席に移動しましょう。薫さんもそろそろお見えになるはずです」
「……はい。これ。ご馳走様でした」
「いえ。あの。一つ伺ってもいいですか? いらっしゃるお店、教えてくださいませんか」
バリスタにカップを差し出すと尋ねられ、驚きながらも笑みを浮かべて答える。
「セレーノです。ここからなら歩いてもお越しいただけます」
「ありがとうございます。今度伺わせてください」
「ぜひ。お待ちしています」
そう会話を交わしたあと、井上さんは一番奥の窓際の席に案内してくれた。
「すみません亜夜さん。私はこれから打ち合わせが入っていまして」
用事があったのは本当だったのだと少し安堵する。
「私のことはお気になさらず」
「ありがとうございます。では失礼します」
丁寧に頭を下げると井上さんは消えていった。
周りにはお客様の姿もなく、打ち付ける雨音だけがガラスの向こうから聞こえてくる。私は歪んで見える中庭をただぼんやりと眺めていた。
(……家族、か)
それは簡単には切れない縁。その、自分の家族に思いを巡らせた。
山に囲まれた田舎にある古い農家。地元では大きな家で、自分が生まれたころは、そこに四世代で暮らしていた。
母はもちろん曽祖父まで、陽が昇ると農作業に出てしまう。平日は保育園に通っていたが、休日はそうはいかない。曽祖母だけが残る家に一人でボツンと遊んでいるのが常だった。
母はとにかく忙しく、朝から晩まで動き回っていた。家にいる男たちは農作業をするだけで、家のことは一切しない。まだ祖母も若かったが、家を切り盛りしていたのは、嫁いできて数年の母だった。
そんな母には、田舎ではありがちの重圧がかけられていた。
『後継ぎはまだなのか』
母が周りから言われていたその言葉の意味を、小さい頃は理解できなかった。
けれど、それを意味を知ったのは六歳のとき。弟が生まれてからだ。
それまで『忙しい』と相手にされなかった私は、より一層相手にされなくなった。赤ちゃんが生まれたのだからしかたない、と自分に言い聞かせた。
でも、その弟が成長するにつれ思い知る。周りから何かと甘やかされ、母の手を煩わせても文句一つ言われない弟の姿を見て。私は……。愛されていないのだと。
そんな私がコーヒーに、エスプレッソに出会ったのは高校生のときだ。
仲の良い友だちの遠い親戚が、街でカフェを開いた。行動範囲も広がり、友だちと自転車を走らせそこに行った日を今でもよく覚えている。
コーヒーの香りが漂う真新しい店内。そこにあった見たこともないマシンに向かいエスプレッソを淹れているスチームの音。何もかもが初めてで、足を踏み入れると、少し大人になった気がした。
その若い夫婦が経営する店で、最初に飲んだのはカフェラテ。今まで飲んでいた甘いコーヒー牛乳とは違う、少し苦味のある大人の味。
エスプレッソの美味しさを教えてくれたのは、そのご夫婦だった。
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