43 / 81
5.cinque
cinque-3
しおりを挟む
「あの、ここで待たせていただいてもいいですか?」
バリスタが動き回るカウンターの前で足を止め、スタッフに呼びかける。
「承知しました。井上が参るまでしばらくお待ちください」
恭しく頭を下げ案内スタッフはまた自分の持ち場に戻る。カウンターに目を向けると、バリスタと目が合った。
「あっ! この前の……」
そこにいたのは、前にアドバイスをしたバリスタで、嬉しそうに笑顔を見せていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。先日はありがとうございます。おかげ様で、自分でも良くなったと思います。よければ試飲していただけませんか?」
アルテミスもお客様は少なく、今は時間があるのだろう。他のバリスタも周りの清掃をしているようだ。
「じゃあ……。お言葉に甘えて。代金はお支払いします」
「いえ。いいんですよ。試飲ですから。少しお待ちください」
明るく言うと彼はマシンに向かった。
この前の癖は直っているようだ。差し出されたエスプレッソからはいい香りが漂い、緊張した心が緩むようだった。いつもより気持ち多めに入れたお砂糖の甘味と苦味が混ざり合うエスプレッソ。前に感じた雑味も消えている。
「とても……美味しいです」
「よかった。実はあのあとすぐに社長に飲んでいただいて。そのときにも褒めてもらえたんです」
あのあと……と言うのは、井上さんと前に来たときだ。あの日薫さんは法事だったはず。けれどそのあと、ここに寄ったようだ。
(井上さん……それすらも見越して?)
少し慌てたように戻ってきたその姿を見ながら、まさかね、とかぶりを振った。
「すみませんでした」
「いえ……。大丈夫です」
なんなく固い表情で返す。さっきの方はどなたですか、なんて怖くて聞けない。きっと自分が思っている通りだと思うから。
「お席に移動しましょう。薫さんもそろそろお見えになるはずです」
「……はい。これ。ご馳走様でした」
「いえ。あの。一つ伺ってもいいですか? いらっしゃるお店、教えてくださいませんか」
バリスタにカップを差し出すと尋ねられ、驚きながらも笑みを浮かべて答える。
「セレーノです。ここからなら歩いてもお越しいただけます」
「ありがとうございます。今度伺わせてください」
「ぜひ。お待ちしています」
そう会話を交わしたあと、井上さんは一番奥の窓際の席に案内してくれた。
「すみません亜夜さん。私はこれから打ち合わせが入っていまして」
用事があったのは本当だったのだと少し安堵する。
「私のことはお気になさらず」
「ありがとうございます。では失礼します」
丁寧に頭を下げると井上さんは消えていった。
周りにはお客様の姿もなく、打ち付ける雨音だけがガラスの向こうから聞こえてくる。私は歪んで見える中庭をただぼんやりと眺めていた。
(……家族、か)
それは簡単には切れない縁。その、自分の家族に思いを巡らせた。
山に囲まれた田舎にある古い農家。地元では大きな家で、自分が生まれたころは、そこに四世代で暮らしていた。
母はもちろん曽祖父まで、陽が昇ると農作業に出てしまう。平日は保育園に通っていたが、休日はそうはいかない。曽祖母だけが残る家に一人でボツンと遊んでいるのが常だった。
母はとにかく忙しく、朝から晩まで動き回っていた。家にいる男たちは農作業をするだけで、家のことは一切しない。まだ祖母も若かったが、家を切り盛りしていたのは、嫁いできて数年の母だった。
そんな母には、田舎ではありがちの重圧がかけられていた。
『後継ぎはまだなのか』
母が周りから言われていたその言葉の意味を、小さい頃は理解できなかった。
けれど、それを意味を知ったのは六歳のとき。弟が生まれてからだ。
それまで『忙しい』と相手にされなかった私は、より一層相手にされなくなった。赤ちゃんが生まれたのだからしかたない、と自分に言い聞かせた。
でも、その弟が成長するにつれ思い知る。周りから何かと甘やかされ、母の手を煩わせても文句一つ言われない弟の姿を見て。私は……。愛されていないのだと。
そんな私がコーヒーに、エスプレッソに出会ったのは高校生のときだ。
仲の良い友だちの遠い親戚が、街でカフェを開いた。行動範囲も広がり、友だちと自転車を走らせそこに行った日を今でもよく覚えている。
コーヒーの香りが漂う真新しい店内。そこにあった見たこともないマシンに向かいエスプレッソを淹れているスチームの音。何もかもが初めてで、足を踏み入れると、少し大人になった気がした。
その若い夫婦が経営する店で、最初に飲んだのはカフェラテ。今まで飲んでいた甘いコーヒー牛乳とは違う、少し苦味のある大人の味。
エスプレッソの美味しさを教えてくれたのは、そのご夫婦だった。
バリスタが動き回るカウンターの前で足を止め、スタッフに呼びかける。
「承知しました。井上が参るまでしばらくお待ちください」
恭しく頭を下げ案内スタッフはまた自分の持ち場に戻る。カウンターに目を向けると、バリスタと目が合った。
「あっ! この前の……」
そこにいたのは、前にアドバイスをしたバリスタで、嬉しそうに笑顔を見せていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ。先日はありがとうございます。おかげ様で、自分でも良くなったと思います。よければ試飲していただけませんか?」
アルテミスもお客様は少なく、今は時間があるのだろう。他のバリスタも周りの清掃をしているようだ。
「じゃあ……。お言葉に甘えて。代金はお支払いします」
「いえ。いいんですよ。試飲ですから。少しお待ちください」
明るく言うと彼はマシンに向かった。
この前の癖は直っているようだ。差し出されたエスプレッソからはいい香りが漂い、緊張した心が緩むようだった。いつもより気持ち多めに入れたお砂糖の甘味と苦味が混ざり合うエスプレッソ。前に感じた雑味も消えている。
「とても……美味しいです」
「よかった。実はあのあとすぐに社長に飲んでいただいて。そのときにも褒めてもらえたんです」
あのあと……と言うのは、井上さんと前に来たときだ。あの日薫さんは法事だったはず。けれどそのあと、ここに寄ったようだ。
(井上さん……それすらも見越して?)
少し慌てたように戻ってきたその姿を見ながら、まさかね、とかぶりを振った。
「すみませんでした」
「いえ……。大丈夫です」
なんなく固い表情で返す。さっきの方はどなたですか、なんて怖くて聞けない。きっと自分が思っている通りだと思うから。
「お席に移動しましょう。薫さんもそろそろお見えになるはずです」
「……はい。これ。ご馳走様でした」
「いえ。あの。一つ伺ってもいいですか? いらっしゃるお店、教えてくださいませんか」
バリスタにカップを差し出すと尋ねられ、驚きながらも笑みを浮かべて答える。
「セレーノです。ここからなら歩いてもお越しいただけます」
「ありがとうございます。今度伺わせてください」
「ぜひ。お待ちしています」
そう会話を交わしたあと、井上さんは一番奥の窓際の席に案内してくれた。
「すみません亜夜さん。私はこれから打ち合わせが入っていまして」
用事があったのは本当だったのだと少し安堵する。
「私のことはお気になさらず」
「ありがとうございます。では失礼します」
丁寧に頭を下げると井上さんは消えていった。
周りにはお客様の姿もなく、打ち付ける雨音だけがガラスの向こうから聞こえてくる。私は歪んで見える中庭をただぼんやりと眺めていた。
(……家族、か)
それは簡単には切れない縁。その、自分の家族に思いを巡らせた。
山に囲まれた田舎にある古い農家。地元では大きな家で、自分が生まれたころは、そこに四世代で暮らしていた。
母はもちろん曽祖父まで、陽が昇ると農作業に出てしまう。平日は保育園に通っていたが、休日はそうはいかない。曽祖母だけが残る家に一人でボツンと遊んでいるのが常だった。
母はとにかく忙しく、朝から晩まで動き回っていた。家にいる男たちは農作業をするだけで、家のことは一切しない。まだ祖母も若かったが、家を切り盛りしていたのは、嫁いできて数年の母だった。
そんな母には、田舎ではありがちの重圧がかけられていた。
『後継ぎはまだなのか』
母が周りから言われていたその言葉の意味を、小さい頃は理解できなかった。
けれど、それを意味を知ったのは六歳のとき。弟が生まれてからだ。
それまで『忙しい』と相手にされなかった私は、より一層相手にされなくなった。赤ちゃんが生まれたのだからしかたない、と自分に言い聞かせた。
でも、その弟が成長するにつれ思い知る。周りから何かと甘やかされ、母の手を煩わせても文句一つ言われない弟の姿を見て。私は……。愛されていないのだと。
そんな私がコーヒーに、エスプレッソに出会ったのは高校生のときだ。
仲の良い友だちの遠い親戚が、街でカフェを開いた。行動範囲も広がり、友だちと自転車を走らせそこに行った日を今でもよく覚えている。
コーヒーの香りが漂う真新しい店内。そこにあった見たこともないマシンに向かいエスプレッソを淹れているスチームの音。何もかもが初めてで、足を踏み入れると、少し大人になった気がした。
その若い夫婦が経営する店で、最初に飲んだのはカフェラテ。今まで飲んでいた甘いコーヒー牛乳とは違う、少し苦味のある大人の味。
エスプレッソの美味しさを教えてくれたのは、そのご夫婦だった。
26
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
玖羽 望月
恋愛
親族に代々議員を輩出するような家に生まれ育った鷹柳実乃莉は、意に沿わぬお見合いをさせられる。
なんとか相手から断ってもらおうとイメージチェンジをし待ち合わせのレストランに向かった。
そこで案内された席にいたのは皆上龍だった。
が、それがすでに間違いの始まりだった。
鷹柳 実乃莉【たかやなぎ みのり】22才
何事も控えめにと育てられてきたお嬢様。
皆上 龍【みなかみ りょう】 33才
自分で一から始めた会社の社長。
作中に登場する職業や内容はまったくの想像です。実際とはかけ離れているかと思います。ご了承ください。
初出はエブリスタにて。
2023.4.24〜2023.8.9
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
契約書は婚姻届
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」
突然、降って湧いた結婚の話。
しかも、父親の工場と引き替えに。
「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」
突きつけられる契約書という名の婚姻届。
父親の工場を救えるのは自分ひとり。
「わかりました。
あなたと結婚します」
はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!?
若園朋香、26歳
ごくごく普通の、町工場の社長の娘
×
押部尚一郎、36歳
日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司
さらに
自分もグループ会社のひとつの社長
さらに
ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡
そして
極度の溺愛体質??
******
表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
実はこれ実話なんですよ
tomoharu
恋愛
え?こんな話絶対ありえない!作り話でしょと思うような話からあるある話まで幅広い範囲で物語を考えました!ぜひ読んでみてください!1年後には大ヒット間違いなし!!
作品情報【マーライオン】【愛学両道】【やりすぎ智伝説&夢物語】【トモレオ突破椿】など
・【やりすぎ智久伝説&夢物語】とは、その話はさすがに言いすぎでしょと言われているほぼ実話ストーリーです。
小さい頃から今まで主人公である【智久】はどのような体験をしたのかがわかります。ぜひよんでくださいね!
・【トモレオ突破椿】は、公務員試験合格なおかつ様々な問題を解決させる話です。
頭の悪かった人でも公務員になれることを証明させる話でもあるので、ぜひ読んでみてください!
特別記念として実話を元に作った【呪われし◯◯シリーズ】も公開します!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる