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5.cinque
cinque-2
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「井上さん?」
見慣れたダークグレーの上着は、肩口が雨に当たったのか色が変わっている。
「すみません、連絡もせず。薫さんの仕事が押していまして。お迎えに上がりました」
井上さんは当然のように笑みを浮かべていた。
「こちらこそすみません! 歩いてでも行けたのに」
「いいんですよ。私もアルテミスに用事があったので、ついでです」
本当だろうかと思うけれど、ここまで来てもらったのだから素直に好意を受け取ることにする。
「ありがとうございます。少しだけ待っていただけますか?」
井上さんに断り振り返ると、真砂子は心許ない様子で視線を外していた。たぶん未だに、私のことを喋らされたのが気まずいみたいだ。
「真砂子、ごめん。あとポップ貼るのお願いできる?」
「あ、う、うん。任せて。書いてくれて助かった」
テーブルに纏めてあったポップを集めて渡すと歯切れの悪い返事が返る。それを見ていた井上さんが近づくと真砂子に顔を向けた。
「すみません、進藤さん。お仕事の邪魔をしてしまいまして」
「いえ……。大丈夫です」
真砂子は決まり悪そうにしたまま小さく答える。それ以上会話が続くわけはなく、間に入る。
「私、もう行くね。あとをお願い」
「OK。楽しんで来てね。また感想聞かせてよ」
「わかった。じゃあお先」
先に井上さんが通用口に向かい扉を開ける。扉の上につけられている、気持ちばかりの屋根からはみ出した水飛沫が凄い。思わず躊躇した私に、彼は自分が濡れるのも厭わず傘を差し出してくれた。
(こんなにいい人なのにな……)
私の歩幅に合わせて歩くその横顔を見て思う。
真砂子は前に『何考えてるかわからなくて、ちょっと苦手』と言っていた。確かに二人は、ちゃんとした会話もしていないけれど、そのわだかまりが解ければいいと願った。
「雨、すごいですね」
ワイパーが忙しなく動くフロントガラス。けれど雨の勢いに、向こう側はすぐに滲んでいった。
「ええ。それで今日、薫さんの来客が遅れて。終わり次第、向かうとのことです」
「そうなんですね。薫さんも井上さんもお忙しいのに……。申し訳ないです」
「そんなことはないですよ。薫さんも今日は、楽しみにされていましたし」
アルテミスでアフタヌーンティーでも、と誘われたのは引っ越ししてすぐ。まだシフトの調整も間に合い、薫さんのスケジュールに合わせて今日の午後にしたのだ。
「そう……なんですか? 家ではそんな素振りは……」
「朝からソワソワとされてましたよ」
「井上さんって、薫さんのこと本当によく理解されているんですね」
ソワソワしている彼を思い浮かべ、ついクスクスと声に出して笑ってしまう。
「長年近くで見ていましたから」
笑みを浮かべたその顔は懐かしそうにも見える。そんな井上さんは、やはり薫さんに似ていると思った。
(ずっと一緒にいるから、なのかな?)
少しだけその横顔を眺めて、また窓の外に視線を移す。相変わらず雨は降り続いていた。
ホテルに着くと、地下駐車場に車を停めロビーまで上がる。平日の、それもこんな天候だからか人はまばらだ。広々としたロビーを横切り、アルテミスに向かう。前は埋まっていたウエイティングチェアにも人はいなかった。
井上さんの背中を追うように歩いていると、店の入り口の少し前で突然その背中が止まった。危うくぶつかりそうになり、顔を上げると、その体の向こう側に人影が見え隠れしていた。
「こんなお足元の悪い中、来ていただいたのですか?」
驚いたような声のあと、井上さんはその人の元へ向かう。
「なに、近くに用事があってな」
貫禄のある男性の声。おそらくかなり年配の方だと思う。隙間から見えたのは和装で、その男性が歩くとコツっと床に何かが当たる音がした。
「もうお帰りですか? お見送りいたします」
「気にせずともよい。連れがいるのだろう」
井上さんのすぐ後ろに立っていた私には、はっきりと会話が聞こえてくる。けれどその広い背中は、盾のように私の姿を隠しているように感じた。
「構いません。取引先の社員の方です。対応は別の者に任せますから」
そう聞こえてきたかと思うと、彼はスタッフに目配せしたようだ。
「お席にご案内いたします」
控えていたスタッフに促され頷く。アルテミスに歩き出すのと同時に、井上さんが動き出した。
「お車はもうお呼びですか?」
少しずつ遠ざかる話し声と床を打つコツっという音。たぶん杖を使われているのだろう。その音が耳に届かなくなり、そっと振り返る。井上さんに伴われ歩く男性の足取りは、しっかりしているように思う。年の頃はわからないけど、ハットからは真っ白い髪が覗いていた。
「お客様?」
立ち止まったからかスタッフから訝しげに声が掛かる。
「すみません」
向き直るとそのスタッフに続いた。
見慣れたダークグレーの上着は、肩口が雨に当たったのか色が変わっている。
「すみません、連絡もせず。薫さんの仕事が押していまして。お迎えに上がりました」
井上さんは当然のように笑みを浮かべていた。
「こちらこそすみません! 歩いてでも行けたのに」
「いいんですよ。私もアルテミスに用事があったので、ついでです」
本当だろうかと思うけれど、ここまで来てもらったのだから素直に好意を受け取ることにする。
「ありがとうございます。少しだけ待っていただけますか?」
井上さんに断り振り返ると、真砂子は心許ない様子で視線を外していた。たぶん未だに、私のことを喋らされたのが気まずいみたいだ。
「真砂子、ごめん。あとポップ貼るのお願いできる?」
「あ、う、うん。任せて。書いてくれて助かった」
テーブルに纏めてあったポップを集めて渡すと歯切れの悪い返事が返る。それを見ていた井上さんが近づくと真砂子に顔を向けた。
「すみません、進藤さん。お仕事の邪魔をしてしまいまして」
「いえ……。大丈夫です」
真砂子は決まり悪そうにしたまま小さく答える。それ以上会話が続くわけはなく、間に入る。
「私、もう行くね。あとをお願い」
「OK。楽しんで来てね。また感想聞かせてよ」
「わかった。じゃあお先」
先に井上さんが通用口に向かい扉を開ける。扉の上につけられている、気持ちばかりの屋根からはみ出した水飛沫が凄い。思わず躊躇した私に、彼は自分が濡れるのも厭わず傘を差し出してくれた。
(こんなにいい人なのにな……)
私の歩幅に合わせて歩くその横顔を見て思う。
真砂子は前に『何考えてるかわからなくて、ちょっと苦手』と言っていた。確かに二人は、ちゃんとした会話もしていないけれど、そのわだかまりが解ければいいと願った。
「雨、すごいですね」
ワイパーが忙しなく動くフロントガラス。けれど雨の勢いに、向こう側はすぐに滲んでいった。
「ええ。それで今日、薫さんの来客が遅れて。終わり次第、向かうとのことです」
「そうなんですね。薫さんも井上さんもお忙しいのに……。申し訳ないです」
「そんなことはないですよ。薫さんも今日は、楽しみにされていましたし」
アルテミスでアフタヌーンティーでも、と誘われたのは引っ越ししてすぐ。まだシフトの調整も間に合い、薫さんのスケジュールに合わせて今日の午後にしたのだ。
「そう……なんですか? 家ではそんな素振りは……」
「朝からソワソワとされてましたよ」
「井上さんって、薫さんのこと本当によく理解されているんですね」
ソワソワしている彼を思い浮かべ、ついクスクスと声に出して笑ってしまう。
「長年近くで見ていましたから」
笑みを浮かべたその顔は懐かしそうにも見える。そんな井上さんは、やはり薫さんに似ていると思った。
(ずっと一緒にいるから、なのかな?)
少しだけその横顔を眺めて、また窓の外に視線を移す。相変わらず雨は降り続いていた。
ホテルに着くと、地下駐車場に車を停めロビーまで上がる。平日の、それもこんな天候だからか人はまばらだ。広々としたロビーを横切り、アルテミスに向かう。前は埋まっていたウエイティングチェアにも人はいなかった。
井上さんの背中を追うように歩いていると、店の入り口の少し前で突然その背中が止まった。危うくぶつかりそうになり、顔を上げると、その体の向こう側に人影が見え隠れしていた。
「こんなお足元の悪い中、来ていただいたのですか?」
驚いたような声のあと、井上さんはその人の元へ向かう。
「なに、近くに用事があってな」
貫禄のある男性の声。おそらくかなり年配の方だと思う。隙間から見えたのは和装で、その男性が歩くとコツっと床に何かが当たる音がした。
「もうお帰りですか? お見送りいたします」
「気にせずともよい。連れがいるのだろう」
井上さんのすぐ後ろに立っていた私には、はっきりと会話が聞こえてくる。けれどその広い背中は、盾のように私の姿を隠しているように感じた。
「構いません。取引先の社員の方です。対応は別の者に任せますから」
そう聞こえてきたかと思うと、彼はスタッフに目配せしたようだ。
「お席にご案内いたします」
控えていたスタッフに促され頷く。アルテミスに歩き出すのと同時に、井上さんが動き出した。
「お車はもうお呼びですか?」
少しずつ遠ざかる話し声と床を打つコツっという音。たぶん杖を使われているのだろう。その音が耳に届かなくなり、そっと振り返る。井上さんに伴われ歩く男性の足取りは、しっかりしているように思う。年の頃はわからないけど、ハットからは真っ白い髪が覗いていた。
「お客様?」
立ち止まったからかスタッフから訝しげに声が掛かる。
「すみません」
向き直るとそのスタッフに続いた。
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