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4.quattro
quattro-6
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「おはよ! 亜夜!」
翌日の朝、時間はまだ七時すぎ。玄関先に現れたのは笑顔の真砂子だ。その真砂子に抱かれていた風香は上機嫌。でも、私の顔を見ると急に腕を差し出してきた。
「やっぱりママには勝てないかぁ」
笑いながら言う真砂子を家に入るよう促す。リビングで遊び始めた風香を眺めながら、ダイニングテーブルに座り真砂子と向かい合った。
「本当に……ありがとう。真砂子」
「なーに言ってるのよ、水くさいって。こっちはふうとたくさん遊べて楽しかったし」
「それもあるけど、今日のシフトも……」
昨日、薫さんが外に出ているあいだに真砂子に連絡を入れた。手短に、話しは円満に終わったことと、風香を迎えに行くと伝えると、『お母さんが今寝かしつけてるし、起こすのもかわいそう』と返ってきて、そのまま風香は泊まらせてもらうことになった。
そしてそのあと、こう言われたのだ。
『明日のシフト、私変わるね。オーナーにも、もう連絡入れてるし。せっかく会えたんだもん。親子水入らずでゆっくりしたら?』
『でも、明日も薫さんに会うか分からないし……』
『会わないなら会わないで、家でゆっくりすればいいんだから。ねっ?』
その好意をありがたく受け取り、土曜日の今日、休みを取ることにした。結局それで正解だったのだけど。
「で? ……穂積さん、だっけ? 帰ったの?」
「帰ったわよ。泊まるわけないじゃない。着替えだってないんだし」
「ええ~? 着替えなんていらないんじゃな~い?」
意味深にニヤリと笑うその顔は、言葉にしなくても何を言いたいのか嫌でも察する。
「そんなことしてません!」
「そんなことって、どんなことぉ?」
もちろんこれは嫌味ではない。揶揄って楽しんでいるだけだ。顔に熱を感じながら「もういいでしょ!」と決まり悪く返すと、真砂子はホッとしたように私を見て笑みを零す。
「よかった。いつもの亜夜で。実は心配してた。でも、あんなにゴージャスなイケメンが、悲壮な顔して、よれよれで泣きついてたんだから、亜夜を捨てたわけじゃないんだなって」
「泣きついてないって。でも……捨てられたわけじゃないから。私が勝手に消えちゃっただけで……」
真砂子には薫さんのことを詳しく話していないし、聞かれてもいない。けれど、心配してくれていたのをヒシヒシと伝わる。
「にしても、何で今頃になって現れたの? 慌てて駆けつけましたって感じだったけど」
「実は……」
昨日のことも含め、今まであったことを真砂子に話し始める。
ローマでの出会い、井上さんのこと、そして、自分自身も不思議だった、私たちにどうやって辿り着いたのかを。
薫さんに話を聞いて驚いたのは、保育園にいる綾斗くんのママ、唐橋さんは、薫さんの元同僚で部下だったということだ。けれど、会うこともなかったのに何故、と思っていると彼は言った。
「井上が唐橋に会いに行けと。きっとおしゃべり好きの唐橋のことだ。亜夜が井上と歩いていた話をするだろうと、確信していたんだろう」
薫さん本人には言わないという約束を守りつつ、私たちが再会するよう仕向けた井上さんは、さすがと言うべきなのだろうか。そして、私が道を間違わないように助言をくれたのだ。
「じゃあ井上さんって、前から亜夜のこと知ってたんだ。オーナーがスペシャリティの豆を卸してくれる会社の社長秘書だって……。って、その社長が穂積さん⁈」
黙って頷くと、真砂子はポカンとしたまま私を見ていた。
「亜夜が……相手に言えなかった理由がわかった」
腑に落ちたように真砂子は呟くと続ける。
「だって亜夜は、自分のことは後回しにして、相手を優先するでしょ?」
さも当たり前のような顔をする真砂子に「そんなこと……」ない、と言う前に首を振られる。
「あるの! 今回だって、穂積さんに迷惑がかかるって思ったんでしょ? 亜夜はもっと欲を出していいんだからね!」
それが当たり前のように言ったあと、真砂子は「もうこんな時間! いかなきゃ」とバタバタと出勤して行った。
(欲……か……)
風香にご飯を食べさせながら、上の空で考えていた。ラックに乗った風香がテーブルを叩き、もっと欲しいとアピールするのに我に返った。
「ごめんごめん」
手づかみ食べを始めた風香は、お皿に入れていたバナナが無いと言いたかったようだ。また小さく切り分けたバナナを入れると、夢中で食べ始めた。
(……すごい食欲)
自分の欲に忠実な風香を見てクスリと笑う。
自分自身、欲が無いとは思っていない。かといって、人一倍あるわけでもない。自分の欲望を満たすのは我儘なことで、いけないことだと思ってしまう。これでも幼いころより、ましになったほうだ。
田舎の農家の家に生まれた私は、あまり自分を出せない子どもだった。そんなふうに育てられたのだから、しかたがないのかも知れない。いつも忙しそうにしていた母は、何か言っても「我儘言わないで」と返すばかりで話しすら聞いてくれなかった。だからなのか、私はいつのまにか、自分の思いを口に出せなくなった。
そんな私が今ここにいるのは、一世一代の我儘を押し通したからだ。高校卒業後東京に出て来たきり、実家には帰っていない。帰って来いとも言われないのは気楽だった。
翌日の朝、時間はまだ七時すぎ。玄関先に現れたのは笑顔の真砂子だ。その真砂子に抱かれていた風香は上機嫌。でも、私の顔を見ると急に腕を差し出してきた。
「やっぱりママには勝てないかぁ」
笑いながら言う真砂子を家に入るよう促す。リビングで遊び始めた風香を眺めながら、ダイニングテーブルに座り真砂子と向かい合った。
「本当に……ありがとう。真砂子」
「なーに言ってるのよ、水くさいって。こっちはふうとたくさん遊べて楽しかったし」
「それもあるけど、今日のシフトも……」
昨日、薫さんが外に出ているあいだに真砂子に連絡を入れた。手短に、話しは円満に終わったことと、風香を迎えに行くと伝えると、『お母さんが今寝かしつけてるし、起こすのもかわいそう』と返ってきて、そのまま風香は泊まらせてもらうことになった。
そしてそのあと、こう言われたのだ。
『明日のシフト、私変わるね。オーナーにも、もう連絡入れてるし。せっかく会えたんだもん。親子水入らずでゆっくりしたら?』
『でも、明日も薫さんに会うか分からないし……』
『会わないなら会わないで、家でゆっくりすればいいんだから。ねっ?』
その好意をありがたく受け取り、土曜日の今日、休みを取ることにした。結局それで正解だったのだけど。
「で? ……穂積さん、だっけ? 帰ったの?」
「帰ったわよ。泊まるわけないじゃない。着替えだってないんだし」
「ええ~? 着替えなんていらないんじゃな~い?」
意味深にニヤリと笑うその顔は、言葉にしなくても何を言いたいのか嫌でも察する。
「そんなことしてません!」
「そんなことって、どんなことぉ?」
もちろんこれは嫌味ではない。揶揄って楽しんでいるだけだ。顔に熱を感じながら「もういいでしょ!」と決まり悪く返すと、真砂子はホッとしたように私を見て笑みを零す。
「よかった。いつもの亜夜で。実は心配してた。でも、あんなにゴージャスなイケメンが、悲壮な顔して、よれよれで泣きついてたんだから、亜夜を捨てたわけじゃないんだなって」
「泣きついてないって。でも……捨てられたわけじゃないから。私が勝手に消えちゃっただけで……」
真砂子には薫さんのことを詳しく話していないし、聞かれてもいない。けれど、心配してくれていたのをヒシヒシと伝わる。
「にしても、何で今頃になって現れたの? 慌てて駆けつけましたって感じだったけど」
「実は……」
昨日のことも含め、今まであったことを真砂子に話し始める。
ローマでの出会い、井上さんのこと、そして、自分自身も不思議だった、私たちにどうやって辿り着いたのかを。
薫さんに話を聞いて驚いたのは、保育園にいる綾斗くんのママ、唐橋さんは、薫さんの元同僚で部下だったということだ。けれど、会うこともなかったのに何故、と思っていると彼は言った。
「井上が唐橋に会いに行けと。きっとおしゃべり好きの唐橋のことだ。亜夜が井上と歩いていた話をするだろうと、確信していたんだろう」
薫さん本人には言わないという約束を守りつつ、私たちが再会するよう仕向けた井上さんは、さすがと言うべきなのだろうか。そして、私が道を間違わないように助言をくれたのだ。
「じゃあ井上さんって、前から亜夜のこと知ってたんだ。オーナーがスペシャリティの豆を卸してくれる会社の社長秘書だって……。って、その社長が穂積さん⁈」
黙って頷くと、真砂子はポカンとしたまま私を見ていた。
「亜夜が……相手に言えなかった理由がわかった」
腑に落ちたように真砂子は呟くと続ける。
「だって亜夜は、自分のことは後回しにして、相手を優先するでしょ?」
さも当たり前のような顔をする真砂子に「そんなこと……」ない、と言う前に首を振られる。
「あるの! 今回だって、穂積さんに迷惑がかかるって思ったんでしょ? 亜夜はもっと欲を出していいんだからね!」
それが当たり前のように言ったあと、真砂子は「もうこんな時間! いかなきゃ」とバタバタと出勤して行った。
(欲……か……)
風香にご飯を食べさせながら、上の空で考えていた。ラックに乗った風香がテーブルを叩き、もっと欲しいとアピールするのに我に返った。
「ごめんごめん」
手づかみ食べを始めた風香は、お皿に入れていたバナナが無いと言いたかったようだ。また小さく切り分けたバナナを入れると、夢中で食べ始めた。
(……すごい食欲)
自分の欲に忠実な風香を見てクスリと笑う。
自分自身、欲が無いとは思っていない。かといって、人一倍あるわけでもない。自分の欲望を満たすのは我儘なことで、いけないことだと思ってしまう。これでも幼いころより、ましになったほうだ。
田舎の農家の家に生まれた私は、あまり自分を出せない子どもだった。そんなふうに育てられたのだから、しかたがないのかも知れない。いつも忙しそうにしていた母は、何か言っても「我儘言わないで」と返すばかりで話しすら聞いてくれなかった。だからなのか、私はいつのまにか、自分の思いを口に出せなくなった。
そんな私が今ここにいるのは、一世一代の我儘を押し通したからだ。高校卒業後東京に出て来たきり、実家には帰っていない。帰って来いとも言われないのは気楽だった。
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